監査課の新人研修
全23話、7月18日完結予定です。
ノルトマルク王国内務省地方管理局監査課の新人研修が始まろうとしていた。
会議室の中は、どこか静かで落ち着いた空気が流れていた。数人の新人官吏が席についている。
入省三年目のアンネリーゼ・フォルマーが王国地図の貼られた黒板を前に立った。
だが本来なら課長であるハインリヒ・クラウゼが務めるはずの役割だったが、彼の、やってみろ、という一言でアンネリーゼが新人たちの前に立つこととなった。
「皆さんご存じの通り、この国には〝中央〟と〝領主〟二つの統治機構が存在します」
新人が手を挙げる。
「領主って、区長みたいなものですか?」
行政地区の出身者だろうか、であれば領主がどんな存在かを知らないのも無理はない。
アンネリーゼは首を横に振る。
「違います」
黒板に円を書く。
「領主は土地、つまり荘園の統治を任された貴族です」
さらに大きな円を書く。
「この大きな円が王国です。中にある小さな円が、それぞれの荘園や行政地区になります。領主には荘園に対して自治権があります。徴税もできるし、治水や市場も管理できます」
アンネリーゼが棒で王国を指す。
「しかし法律を作る権限はありません」
別の新人が手を上げて発言した。
「じゃあ立法もしない内務省は何をするんです?」
「監査です。王国法どおり行政地区や荘園が運営されているか調べます。違反があれば是正命令を出します」
また別の新人が手を挙げた。アンネリーゼのは頷いてはつげんを促す。
「でも荘園なんだから領主が全部自由なんじゃ……」
彼女は荘園の生まれで、貴族の横暴な振る舞いを見て育ったのかもしれない。アンネリーぜは首を横に振った。
「それは昔の話です。現在は街道、橋梁、河川、市場、徴税制度はすべて王国法の適用対象です。領主には運営権がありますが、それは所有権ではありません」
最後列の片隅に座っていたハインリヒが後ろから口を挟む。
「簡単に言えば」
新人たちはいっせいに振り向いた。彼らの視線など意にも介さずハインリヒは続ける。
「領主は王の代わりに土地を預かる者だ」
新人が首をかしげる。
「預かる……?」
ハインリヒは壁に掛けられた王国地図を指す。
「この国は全部、王国だ。大公領から男爵領、行政地区まですべてだ。領主や区長はその一部を任されているだけだ。荘園内では好きに領地を治めればいい。好きに橋を直せ、市場を開け、徴税しろ。だが、すべては王国法の中でだけだ。法を破る自由までは与えられていない」
新人たちは合点がいったようだった。頷いている者もいる。
アンネリーゼは机の上の帳簿を一冊持ち上げる。
「この一冊が、一つの町の運命を左右します」
アンネリーゼは一息置いて続けた。
「役人は英雄でありませんし、戦争もしません。けれど橋一本、法律一条で何万人も救うことができるのです」
会議室は静まり返った。ハインリヒがなんか口をはさむかと思ったが、彼の視線は続けろ、と言っているようだ。
「だから監査官は、数字を軽んじてはいけません」
それから実務の話を少しと事務的な連絡を少しして研修は終了した。
新人たちは一礼して会議室を後にした。
アンネリーゼは無意識に窓の方へ視線をやった。そこでは、澄み渡った高い空が広がり、雲がゆっくりと流れている。
アンネリーゼは黒板に残った文字を消し、回収した資料を揃え始めた。
「お疲れさま」
立ち上がって伸びをしながらハインリヒが声を掛ける。
「少し堅かったでしょうか?」
「いや」
ハインリヒは黒板の地図を見つめる。
「悪くない。監査官は剣より帳簿を信じる仕事だ。それが伝われば十分だ」
アンネリーゼは小さく頷き、資料を革鞄へ収めた。
会議室の外では、各課の官吏たちが慌ただしく廊下を行き交っている。
誰かが地方から届いた書類を運び、誰かが決裁印を求めて部屋を訪れ、遠くでは羽ペンの走る音が聞こえる。
特別な一日ではない。
王国では今日も、無数の帳簿が開かれ、無数の数字が積み重ねられていく。そのどれか一冊が、いつか一つの町を救う。
アンネリーゼはそう信じて、会議室の扉を静かに閉めた。
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