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グリュンベルク子爵領の飢饉②

 子爵邸を辞し、アンネリーゼはダニエルと共に領地の境界線、関所へと向かった。

 近づくにつれ、鼻を突く異臭が強くなる。

 関所の周辺には、行き場を失った難民たちが折り重なるようにして座り込んでいた。彼らの目には希望の光などなく、ただ空腹と疲労、そして絶望だけが濁った膜のように張り付いている。

 アンネリーゼは門番に声をかけ、丁寧に聞き取りを行った。彼らの語る現実は、帳簿の数字以上に生々しく、無慈悲なものだった。

 物流が止まったことで市場が消え、街からパンが消えた。そして何より致命的だったのは、関所の封鎖である。反乱の戦火から逃れてきた難民たちは、中央の〝人返し〟という指示に基づき、領地内への立ち入りを厳格に制限されていた。行き場を失った彼らは、関所の前で何日も足止めを食らい、その場に留まり続けていた。

 そして衛生環境の悪化は、もはや取り返しのつかない段階にあった。

 汚染された水場、積み重なる排泄物、そして死体。関所周辺で衛生環境が悪化し、感染症が自然発生的に広まった。封鎖が続いた結果、それはやがて領内へ入り込んだ。

 疫病は瞬く間に村々を駆け抜けた。働き手を次々と病床に縛り付け、農作業を不可能にした。種を蒔くべき春の貴重な時間は、病人を介護し、死者を弔うことだけで費やされた。結果として物流の停止と疫病が重なり、この領地は自壊的な飢饉へと突き落とされたのである。

 ダニエルが惨状を見て呟いた。

 

「軍を使えば彼らを無理やり人返しすることはできるだろうが……それでは疫病が広まるだけだな……」

 

 アンネリーゼは、薄汚れた野営地の隅で手帳を開き、震える手で速達便の原稿を書き殴った。

『飢餓対策だけでは、この現状は覆せません』

 彼女の筆致は鋭く、かつ重かった。

『……領主は、飢え苦しむ領民から税を搾り取ることなど、到底できるはずもないのです。……彼が難民を受け入れなかったのも、冷酷な決断を下したかったわけではなく、中央から厳命されていた〝人返し〟の指示に縛られていただけでした……。領主は、自分の領地を救う術を失い、自らの手で首を絞めるような状況に追い詰められていたに過ぎません……』


 アンネリーゼは、ハインリヒに宛てた報告書を書きながら、今の行政がいかに硬直しているかを痛感していた。

 今の状況において、領主を罪人として告発することは極めて容易だ。だが、それは問題を解決するどころか、事態を泥沼化させるに過ぎない。

 彼女のしたためる報告書の核は反乱の鎮圧という公的な任務を遂行し、その結果として完全にすっからかんになったこの領地に対して、中央政府から直接的な資金貸与を行うという救済策である。そのためには、既存の融資規定を書き換える必要がある。これは単なる領地への施しではなく、崩壊した物流網を蘇生させるための投資であるという論調で筆を進めていく。

 アンネリーゼは、規則の改正案を詳細に書き連ねた。

 彼女が提案するのは、緊急事態下における特例融資の実施と、難民管理システムの再構築、そして何より橋の通行料を以前の適正価格に戻すための補填措置だった。

 領地を救うことは、単に飢えた人々にパンを与えることではない。閉ざされた血流を再び通し、領地の経済という名の心臓をもう一度動かすことだ。

 書き上げた報告書を速達便の使いに手渡し、アンネリーゼは空を見上げた。

 どんよりとした曇り空の先にある、ベルクハイムの中央政府。そこにいる官僚たちが、この数字と論理の重みを正しく理解してくれるだろうか。

 ダニエルが静かに傍らに寄り添う。彼の目にも、この悲惨な光景は刻まれている。彼女の報告書が届いた瞬間、ハインリヒはきっと確信するはずだ。これは地方の不作という瑣末な問題ではなく、システム全体が抱える構造的な欠陥なのだと。

 彼女の報告書は、単なる紙束ではない。これは、死の淵にある領地に差し向けられた、最初で最後の命綱だった。


 

 

 アンネリーゼからの速達便がベルクハイムに届いた。ハインリヒは執務室の窓を閉め、机に向かう。報告書を読み始めるが、読み進めるにつれて表情を険しくした。収穫量の減少は二割に過ぎないにもかかわらず、橋の通行料引き上げと物流量の減少、死亡率の上昇、医療院の受診記録がほぼ完全に連動していることを理解したのだ。

 彼は深く、重い吐息をつき、静かに結論付けた。

 

「これは飢饉ではない。物流の停止が引き起こした人災だ」


 その日の午後、中央政府では東部の食料価格上昇と税収減少について各省合同の会議が予定されていた。議場の空気は、どこか気の抜けた、楽観的な空気に包まれていた。地方の不作なら毎年ある、収穫期になれば自然に落ち着くだろう、という声がそこかしこから聞こえる。

 ハインリヒは会議の冒頭では何も発言しなかった。

 各省が税収が落ちている、東部で物価が高騰している、難民が増えている、と個別の問題として報告するのを黙って聞き続ける。彼の目は、まるで裁判官のように冷ややかだった。

 すべての報告が終わったところで、ハインリヒはゆっくりと立ち上がった。椅子が床をこする音が、静かな議場に響く。

 

「それらは別々の問題ではありません。皆さんは税収を見ている。財務局は金を見ている。軍務省は難民を見ている。ですが監査課は数字の因果を見ています。」

 

 そしてアンネリーゼの報告書を議長に手渡す。

 報告書には、収穫量、橋の通行料、荷馬車の通行量、死亡率、医療院受診数を時系列で比較した統計が整理されている。橋の通行料引き上げを境に物流が崩壊し、市場が機能停止し、関所に難民が滞留して疫病が発生し、その結果として農業生産まで落ち込んだことが論理的に証明されていた。

 議長の読み上げる声が響くと、会議室は静まり返った。これは地方領主の失政ではなく、反乱後の財政難と中央の難民政策が連鎖した結果であり、このまま放置すれば東部全域の物流が麻痺し、他領にも物価高騰と税収減少が波及することを誰もが理解したのだ。

 財務局長が、苛立ち紛れに眼鏡を外す。

 

「しかし、領主への融資に法的根拠が……」


 ハインリヒは、議長へ報告書の後ろの方のページを指し示した。

 

「規則改正案まで、添付してあります」

 

 アンネリーゼは現地で原因究明だけでなく、緊急融資制度、橋梁復旧支援、通行料補填、難民管理制度の見直しまで含めた報告書を完成させていた。

 議論は一気に動き出す。もはや論点は融資するか否かではなく、どの予算から出すか、に変わる。財務局、内務省、軍務省がその場で役割分担を決め、緊急支援が決定される。

 会議後、若い官吏がハインリヒに声をかける。

 

 「課長が会議を動かしたのですね」

 

 しかしハインリヒは首を横に振った。

 

 「動かしたのは私じゃない」


 ハインリヒはアンネリーゼの背中を思い出し、一拍置いて続けた。

 

 「数字はうそをつかん」


 そして机の上に残された報告書を見ながら、苦笑する。

 

 「フォルマーは、また厄介な仕事を持ってきた」

 

数日後、王国官報が発行された。グリュンベルク子爵領への無利息融資、橋梁復旧費の国庫負担、通行料補填、難民管理制度の改正が公布されたのだ。


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