グリュンベルク子爵領の飢饉①
春先だというのに、届いた統計報告書は冷え冷えとした冬の気配を孕んでいた。
王国監査課の窓から差し込む陽光は暖かいのに、アンネリーゼの手元にある書類だけが凍りついているようだ。彼女は何度も数字を数え直し、やがて困惑した声で呟いた。
「……この死亡率は、説明がつきません」
王国東部、グリュンベルク子爵領。報告書に記されたここ三ヶ月の死者数は、前年同時期と比較して異常な跳ね上がりを見せていた。しかし、どうしても納得がいかないのが、その原因と目される穀物収穫量だ。
「収穫量は前年比二割減。確かに不作ではありますが、生存を脅かすほどの壊滅的な数字ではありません。この地域で二割の減収なら、本来なら多少の節制で乗り切れるはず。飢饉というには程遠い……」
アンネリーゼの指摘に、周囲の同僚たちは退屈そうに肩をすくめた。
「フォルマー、考えすぎだろう。今年の春先は冷え込みが厳しかった。ただの寒波と、それに伴う老齢層の風邪が重なっただけじゃないか?」
「そうそう。東部の田舎なんて、冬を越すのが毎年綱渡りみたいなものさ。わざわざ数字をいじくり回す必要もないだろう」
同僚たちの言葉に、アンネリーゼは納得できず、ハインリヒに視線を送った。ハインリヒは無言で書類を受け取り、数値を検分する。しばらく沈黙が続いた後、彼は小さく唸った。
「……確かに、お前が首を傾げるのも無理はない。飢饉なら収穫量は八割落ちる。二割減でここまで死ぬか? これは数字が何かを隠しているな」
ハインリヒの決断は早かった。即座にアンネリーゼに現地調査を命じた。
行き先はグリュンベルク子爵領。反乱の余韻がいまだ冷めやらぬ不安定な地域だ。調査の道中には暴動の危険も伴うため、いつもより多めに憲兵隊の護衛がつくことになった。
出発の朝、ベルクハイムの正門前には、質実剛健な制服に身を包んだ七名の憲兵と、その指揮官であるダニエルの姿があった。
「領内の治安は悪化の一途だ。今回は私も車内で警護する」
ダニエルは硬い表情でそう告げ、郵便馬車へ乗り込むアンネリーゼに続いた。
ベルクハイムを発ってから、四日間。馬車は東街道をひたすらに東へと進み続けていた。
ガタゴトと揺れ続ける馬車の内部で、アンネリーゼは深い溜息をつく。座り心地の悪い木製の座席に四日間も揺られ続け、もはや腰から下はまた感覚を失いかけていた。
対照的に、向かい側に座るダニエルはやはり、四日間一度も背もたれに寄りかかることなく、腰を据えて端正な姿勢を保っている。その姿はまるで、一本の硬い杭が地面に打ち込まれているかのようだった。
「……ダニエル、ずっとその姿勢で疲れませんか? 少しは背もたれに寄りかかっても……」
アンネリーゼが労うように声をかけると、彼はわずかに目元を和らげた。
「お気遣い痛み入るよ。しかし、護衛の身としてはいつ何時事態が急変しても対応できるよう、重心を安定させておくのが癖なのだ。……それにしても、一年前と同じ旅路にもかかわらず、表情を崩さなくなって、成長したな」
ダニエルの意外な返答に、アンネリーゼは小さく微笑んだ。この一年と数か月の間、馬車での長距離移動にも精神はすっかり慣れてしまって、体力も付いてきたようだ。
窓の外の景色は、東へ進むにつれて荒涼としたものに変わっていく。
整備の行き届かない街道、荷馬車の轍が深く刻まれた泥道。どこか生気を感じさせない空気が漂いつつあった。
五日目の昼前、グリュンベルク子爵領の境界にある関所が見えてきた。
アンネリーゼは窓の外を凝視し、息を呑んだ。関所の手前には、何十人もの人間が列をなし、力なくうずくまっている。痩せこけ、土にまみれた彼らの目は、死を待つような虚ろさを湛えていた。
馬車が停止すると、ダニエルがすかさず扉を開け、剣の柄に手を添えて周囲を警戒した。
「……何度見ても凄惨な光景だな」
アンネリーゼは震える手で記録帳を握りしめ、地面に降り立った。風が吹き抜ける。そこには、春の暖かさなど微塵もなく、ただ淀んだ絶望の気配だけが漂っていた。
彼女は、ただの不作調査では説明がつかないこの現実を前に、胃の奥が熱くなるような感覚を覚えた。これは、誰かが犠牲にならなければならなかった必然ではないはずだ。
「……行きましょう、ダニエル」
彼女は、今にも消えてしまいそうな人々を真っ直ぐに見据え、静かな決意を込めて言った。
「飢餓対策を考えるだけでは、この人たちは救えません。彼らを苦しめている仕組みの崩壊を、私たちが解明しなければ」
グリュンベルク子爵領の荒れた街道を進み、一行は子爵邸へと辿り着いた。古く、ひび割れた石造りの邸宅には、かつての華やかさの欠片も残っていない。アンネリーゼは、広場で力なくうずくまる領民たちへの配給を手伝わせるため、ダニエルの部下七名を残し、護衛役のダニエルただ一人を伴って門をくぐった。
邸内の空気は、外の冷気よりもさらに沈んでいた。案内された客間で待っていたのは、疲労で頬がこけ、深い苦悩に表情を歪めた子爵だった。彼は反乱の鎮圧という重責を終えて一年も経つが、その心身は回復どころか限界に達しているように見えた。
「わざわざ監査課の方が来るとは……。しかし、お見せできるような贅沢な暮らしはしておりません」
子爵は、アンネリーゼが切り出すよりも先に、机の上に一冊の分厚い帳簿を力強く置いた。
「不正など何もない。領地の現状がこの通りです。着服も、横領も、何一つない。堂々と証明しましょう」
その声音には、無実を訴える悲痛なまでの決意があった。アンネリーゼは無言で頷き、ダニエルと共に帳簿を開いた。
客間の暖炉は消えかかっていたが、二人は周囲の薄ら寒さを忘れたかのように数字と向き合った。アンネリーゼは、記録された数値を項目ごとに整理し、互いの相関を克明に炙り出していく。
まず、穀物収穫量。確かにここ直近では減少傾向にある。しかし、それ単体では、これほどの死者を出すほどの飢饉を説明しきれない。
次に橋の通行料。アンネリーゼのペンがその項目で止まった。記録によれば、半年前から通行料が法定内とはいえ、通常の五倍にまで吊り上げられている。
その数字を確認した直後、関所の通過量と荷馬車の台数の項目へ視線を移す。通行料が改定された時期を境に、驚くほど劇的に減少していた。
そして、最も痛ましい死亡者数と医療院の受診記録。橋の通行料が跳ね上がったのと見事なまでに連動し、その数値が激増している。
アンネリーゼは帳簿を閉じ、対面に座る子爵へ穏やかに、しかし確信を持って問いかけた。
「数字は全てを語っています。なぜ、通行料を五倍に引き上げたのですか」
子爵は、観念したように天井を仰いだ。
「……街道が封鎖され、橋が焼かれたからです。反乱の鎮圧で、領地にはもう戦費に充てる金も、修繕する余力も残されていなかった。橋を直さねば物流は死ぬ。私は、その修繕費を捻出するために、通行料を上げるしかなかったのです」
アンネリーゼの脳裏で、事象の因果が繋がった。橋そのものは修復された。しかし、それを渡れる者はいなくなった。通行料の高騰が、商人をこの領地から遠ざけた。商人が来なければ市場が開かれず、領内に食料という資源が滞留してしまう。運ばれない食料は、最も弱い立場にある貧しい者たちの口には決して入らない。
「通行料という壁が、物流を止めたのですね」
アンネリーゼの呟きに、子爵は力なく頷くことしかできなかった。そこには、良かれと思って行った判断が、皮肉にも自らの領民を死の淵へと追い詰めていくという、抗いがたい悲劇があった。
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