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グレードルフ地方第十五行政地区市場改革②

 アンネリーゼは、帽子のつばを強く引き下げた。

 闇市の中心、積み上げられた穀物袋の陰に置かれた、粗末ながらも機能的な執務机。そこに座る区長が、アンネリーゼとダニエルに気づき、静かに羽ペンを置いた。

 男の名はヴィクトル・ブラウン。かつて中央の商業省で次官補を務めていたが、旧弊な法改正に反対して失脚した元エリート官僚だと、アンネリーゼは事前に調べていた。


「内務省の監査官様か。……まさか、わざわざ薄汚れた地下まで出張ってくるとは。軍の憲兵を連れているところを見ると、摘発の準備でもしてきたのか?」


 ブラウン区長は嘲るような笑みを浮かべた。その目はアンネリーゼを値踏みするように細められ、彼女の背後に立つダニエルの腰にあるサーベルを流し見る。

 アンネリーゼは表情一つ変えず、一歩前に進み出た。


「摘発が目的であれば、すでに憲兵隊が突入しています。私は監査官です。グレードルフ地方第十五行政地区市場の帳簿の不整合について調査に来ました」

「不整合? 笑わせるな」


 ブラウン区長は机の上の帳簿を乱暴に叩いた。


「あんたたちがグレードルフ地方第十五行政地区に押し付けた正しいはずの法律。その時代遅れな度量衡、ギルドに独占を許す排他的な営業権、そして無意味な物流規制。あれがこの町の経済をどれほど窒息させているか、考えたことはあるか? 法律に従えば、農民は収穫を奪われ、商人は破産し、都市は飢える。我々がしているのは犯罪ではない。都市を飢えさせないための、緊急避難的な経済活動だ」


 その言葉は、アンネリーゼの心臓を的確に射抜いた。

 ギルドという名の既得権益の亡者に権限を与え、中央からの統制を至上命題とする現行法。それは確かに、辺境の実態を無視した机上の空論であった。


「……あなたの言い分は理解しました」


 アンネリーゼは淡々と言った。だが、その声には硬い意志が籠もっている。


「けれど、個人の思想や、現場の苦境に同情して法を曲げるのは、私の職責ではありません」

 

 ブラウン区長は大きく鼻で笑った。


「お嬢さん、いいか。俺がこの闇市で作ったのは、あんたたちが壊した市場の代替品だ。あんたが俺の帳簿を暴き、この闇市を封鎖すれば、明日にはグレードルフ地方第十五行政地区の正規市場に物資が戻ると思っているのか?」


 鋭い問いかけが、地下倉庫の重い空気に突き刺さる。

 アンネリーゼは、自分の持つ秤が、この地区の人々の死と引き換えの正義を量ろうとしていることを自覚させられた。

 もしここを潰せば、彼女は職務を忠実に果たした模範的な監査官として評価されるだろう。だが、グレードルフ地方第十五行政地区という都市の生命活動は停止する。


「……私の仕事は、あなたがたのような〝抜け穴〟を頼らなくても、誰もが等しく利益を享受できる正規の市場を作り直すことです」


 アンネリーゼの瞳には、一歩も引く気のない鋼のような強さが宿っていた。


「警告します、ブラウン区長。今のあなたは、法という構造に甘えながら、その穴を自分の利益で塞いでいますね。しかし、それは役人のすべきことではない」


 アンネリーゼは静かに息を吸うと、迷いなく続けた。

 

「私はあなたの作り上げた仕組みを、国家の法そのものに組み込みます。あなたの闇市を、摘発で潰すのではなく、正規の枠組みへと強制的に回収します」


 ブラウン区長は一瞬、言葉を失い、次いで驚愕の表情を浮かべた。

 アンネリーゼは、闇市を破壊するのではなく、その合理的なノウハウをすべて奪い取り、内務省の正式な商律として転用しようとしているのだ。


「犯罪を罰するのではなく、犯罪の基盤となっている仕組みを国家の公認に書き換える……。あんた、悪魔だな」


「官吏とは、時に悪魔以上に冷酷であるべきです。あなたもよくご存じでは?」


 アンネリーゼは帳簿を閉じ、ヴィクトルを真っ直ぐに見据えた。

 ダニエルもまた、彼女の覚悟を理解し、鞘に手を添えて傍らに立つ。

 グレードルフ地方第十五行政地区の夜はまだ深いが、彼女の頭の中では、新しい市場の設計図が組み上がっていた。

 アンネリーゼの王都への帰還は、グレードルフ地方第十五行政地区の正規市場における最後通牒という形で幕を開けた。


 

 五日後の朝、アンネリーゼはハインリヒの承認の下、駐屯軍の兵力をグレードルフ地方第十五行政地区の正規市場へと動かした。

 街の商人とギルド長たちは、憲兵と兵士たちの厳めしい隊列を見て、ついに闇市への弾圧が始まると確信し、冷ややかなあるいは怯えた視線を向けた。ブラウン区長はギルド長たちの横に立ち、アンネリーゼをまっすぐに見つめている。

 しかし、広場に設けられた壇上に立ったアンネリーゼが読み上げたのは摘発命令書ではなく、ノルトマルクの黒鷲の紋章が刻印された、ひときわ上質な羊皮紙の礼状だった。ハインリヒから、今回は内務大臣名義の特別行政令を預かっている、と手渡されたものだ。


「これより、グレードルフ地方第十五行政地区における市場運営の全権を内務省地方管理局監査課が接収する」


 その場が凍りついた。

 パン屋ギルド長が鼻で笑ったその時、アンネリーゼの背後に控えていたダニエルが、重厚な憲兵用の重火器を地面に叩きつけ、凄まじい轟音を響かせた。広場は静まり返った。


「現時刻をもって、グレードルフ地方第十五行政地区公認市場におけるギルドの営業独占権を無効とする。同時に、従前の度量衡および課税基準を撤廃し、新たな商律を布告する」


 アンネリーゼは淡々と省令を読み上げた。それは、五日前の夜、ヴィクトルの闇市で目撃した合理的な商律を、国家の公文書として書き換えたものだった。

 独自の割符、迅速な価格調整、そして何より闇市が独自に運用していた、公平な査定システムを、そのまま地方管理局の直轄機関として設置するという内容だった。


「そんな馬鹿な! ギルドの許可なく商いを行うなど、前代未聞だ!」


 ギルドの長たちは口々に叫んだ。しかし、アンネリーゼは一瞥もくれず、ダニエルへ視線を送った。ダニエルの低い声が響く。


「憲兵隊、執行せよ」


 軍の兵士たちは、闇市を襲撃する代わりに、正規市場の入り口を解放した。彼らが向かった先は闇市ではない。ギルドが築いていた不当な参入障壁、荷車の通行を阻む物理的な門や、ぼったくりの関税所であった。


「待て、あれは私たちの……」

「それは国家の公共物であり、貴殿の私有物ではない」


 アンネリーゼは容赦なくギルドの門を破壊させ、自由な物流の動線を確保した。

 そしてブラウン区長に向き直った。

 

「あなたは闇市で、国家の代わりに正しい流通を構築した。ならば、今度は国家の命で、同じことをしなさい。……ただし、これからは逃げ隠れする必要はない。あなたの商律は、今日から王国法の一部となるのだから」


 闇市の商人たちは、混乱しながらも、自分たちのやっていたことが正当化されるという事態に沸き立った。昨日まで違法だった商売が、今日から国家公認の基幹産業となる。彼らにとって、これほど強力な後押しはなかった。

 

 それから数時間が経過する頃には、広場には闇市から流れてきた活気と、正規の商人たちが持ち寄った物資が交差し、かつてない熱気が生まれていた。ギルドの独占は音を立てて崩れ去り、新たな秩序が息を吹き返したのだ。

 夜の闇市でブラウン区長が見せた商いが、今度はグレードルフ地方第十五行政地区の太陽の下で、国家の威信を背負って展開される。

 アンネリーゼは、騒乱の収まった広場を見下ろしながら、帳簿の備考欄に『修正完了』と書き込んだ。


「いつもながらとんでもない荒療治をしたな」


 ダニエルが苦笑しながら言った。

 

「闇を潰すどころか、闇を国家の中枢に引きずり込んだ。これでは正規と闇の区別さえつかなくなるぞ」


「いいえ、ダニエル。正規と闇の区別など、最初から幻想に過ぎません。市場に必要なのは、法による強制ではなく、商人たちが自律的に守りたくなる合理的なルールだけです。構造に穴があるなら、それを塞ぐために軍隊を動かすのではなく、人々がその穴を埋めずにはいられないような新しい流れを作ればいい」


 アンネリーゼは静かに振り返った。彼女の手元には、もうグレードルフ地方第十五行政地区の歪んだ帳簿はなかった。そこにあるのは、完璧に管理された市場の統計表だけである。


「闇は消えていません。闇が持っていた効率という光を、こちら側に引きずり出しただけです」


 

 翌日、グレードルフ地方第十五行政地区の街に、かつてないほど清々しい朝が訪れていた。

 広場の中央には、かつてギルドの独占を象徴していた傲慢な看板が取り外され、代わって『グレードルフ地方第十五行政地区公認市場管理・商律規定』という無機質な急造の看板が掲げられている。その下では、かつて闇市の商人と呼ばれた者たちが、いまや国家に公認された商売人として、堂々と商品を並べていた。

 もはや闇市は存在しない。地下に潜る必要も、役人の目を盗む必要もなくなったからだ。だが、あの地下で培われた秤の技術と迅速な物流網は、今やこの町の大動脈として脈打っている。

 アンネリーゼは、駅馬車の窓からその活気を見下ろしていた。彼女の懐には、ハインリヒからの短い手紙が収められている。

『お前の出した結論は、内務省の歴史において極めて異端であり、同時に考えうる中で最も効率的な解決策であった。地方官吏局監査課として、お前の今回の働きを“特級”で評価する。……ただし、あのような荒療治は二度と行わぬことだ。俺の胃が持たん』


 皮肉の混じった、だが確かに認められたことを示す合格通知だった。

 御者台でダニエルが手綱を引いた。彼は昨晩、広場で商売を再開した老人から礼として受け取った乾燥肉を、器用に噛み砕きながら言った。


「法律を振りかざして首を刎ねるのが官吏だと思っていたが、リーゼはまるで、迷路の壁を塗り替えて道を作るような真似をする。……あれでは、悪党たちも脱帽するしかないだろうな」

「私はただ、監査官として働いただけです」


 アンネリーゼは淡々と答えたが、その口元には微かな笑みが浮かんでいる。

 窓の外では、朝の鐘が鳴り響き、活気ある市場がさらなる成長の兆しを見せていた。

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