グレードルフ地方第十五行政地区市場改革①
窓から差し込む朝の光が、光の帯を作っていた。
アンネリーゼは、背筋をピンと伸ばしたまま、微動だにせず書類と向き合っていた。
彼女の指先は、地方報告書をなぞっている。
「グレードルフ地方第十五行政地区か」
アンネリーゼは小さく呟いた。王国北部のに位置するこの都市は、本来であれば穀物の集積地として豊かなはずである。しかし、机に広げられた年次決算報告書は、まるでや荒野のような数字を並べていた。
「やっぱりおかしい」
アンネリーゼは眉をひそめた。都市門の通行記録が示す馬車の往来数と、卸売市場が計上している取扱高が決定的に噛み合っていない。門の通行税を支払ったはずの大量の荷物が、市場の帳簿に現れる過程で煙のように消えている。
「フォルマー、まだその報告書と睨めっこをしているのか?」
ハインリヒがアンネリーゼの後ろから机上の書類へと視線を向けた。
「課長。グレードルフ地方第十五行政地区の徴税記録に不整合が見受けられます。都市門を通過した食料の量は前年比で二割増。しかし、公認市場の納税額は昨年度より微減しています」
ハインリヒは肩をすくめて大きくため息をついた。
「やれやれ。地方官吏の腐敗か。しかしあそこの区長は元官僚だったはずだ。横領などするだろうか」
アンネリーゼは静かに首を横に振り、彼女は熱のこもった眼差しで、統計データのグラフを指し示した。
「それがこの地区の帳簿は完璧すぎるほど整っているのです。もし単なる横領であれば、その痕跡が帳簿の端々に辻褄の合わない誤魔化しとして残るのではないでしょうか?」
「うーん、そうか」
ハインリヒは腕を組み右上を見上げている。
「では誰かが意図的に正規市場を通さないルートを維持・管理しているのかもしれんな」
「正規市場を通さないルート、ですか」
「ああ。商人は合理的だ。闇市に頼る理由は、そこが正規市場よりも利益を出しやすいから、に他ならん。我々が気づいていない、別の経済構造が存在しているのかもしれんな」
アンネリーゼは、グレードルフ地方第十五行政地区という都市の地図に目を落とした。
「よし、フォルマー、監査に行ってこい。ダニエルもつれていけ」
「はい」
アンネリーゼは毅然と答えた。彼女はコートを羽織り、自分のデスクに残された書類を整えた。外では、春の優しい空気が彼女を待っていた。
グレードルフ地方第十五行政地区の街並みは、アンネリーゼが想像していた以上に冷え切っていた。
公認の卸売市場は、本来であれば活気に溢れているはずの時刻にもかかわらず、閑散としていた。古びた石畳の上には、腐りかけの野菜の残骸や、掃除の行き届かないゴミが散らばっている。活気のない市場の端で、ギルドの腕章を巻いた男たちが、通行人から法外な通行税を徴収している光景が目に留まった。
「これが正規の市場の姿……」
アンネリーゼは、目深に被った帽子の下で唇を噛んだ。しかし街の人々は飢えてはいないようだ。それは街のどこかで別の心臓が動いていることを意味していた。
夜の帳が降りる頃、ダニエルと合流した。いつもの軍服を脱ぎ、目立たぬ地味な商人風の外套を纏ったダニエルは、アンネリーゼの隣で低い声を出した。
「憲兵隊の制服を脱ぐと、途端に街の空気が変わるな。リーゼ、彼らの視線は鋭いぞ。妙な動きはするなよ」
「心得ています。今日の目的は摘発ではありません。観察です」
二人は旧市街の奥深く、石造りの古い倉庫街へと足を踏み入れた。ダニエルが慣れた足取りで先導し、やがて視界が開けた。
そこには、アンネリーゼの予想を覆す光景が広がっていた。
「……信じられない」
アンネリーゼは思わず足をとめた。
目の前に広がっていたのは、無法者たちが酒を酌み交わす場末のたまり場などではなかった。そこは、整然と区画整理された広大な闇市だった。
整然と並ぶ荷車、正確に秤を使い分ける商人たち、そして何よりも目を引いたのは、その流動性だ。正規市場では手続きに半日を要する貨物搬入が、ここでは驚くほど短時間で行われている。独自の貨幣や割符が飛び交い、価格は刻一刻と変動する市場原理に従って調整されていた。
「おい、そこの荷は左の区画へ回せ! 秤の目盛りは中央基準だ、手心を加えるな!」
鋭い声が響く。管理人が指を鳴らすたび、滞留していた物流が魔法のように動き出す。そこには、中央政府が押し付けた古臭いギルドの仲介料も、無意味な許可証の確認作業も存在しなかった。
アンネリーゼは手帳を広げ、震える手で記録をとった。
「ダニエル……見てください。あそこで取引されている穀物の価格、我が省の公定価格よりも安いのに、農民の受取額は高い」
「どういうカラクリだ?」
「中間搾取を徹底的に削ぎ落としているのです。正規市場がギルドの既得権益を守るために課している不当な〝冥加金〟が存在しない。それどころか、独自に定めた度量衡が、我が国の旧式な単位系よりも遥かに正確に機能している……」
アンネリーゼは愕然とした。今目の前にあるのは、法を破ることで維持されている、極めて高度な秩序だった。
商人の一人が、荷物を運び終えて満足そうに頷き、別の商人と握手を交わす。彼らの目には、恐怖や隠し事の卑屈さではなく、正当なビジネスを全うしたという誇りが宿っていた。彼らは闇市を、犯罪の温床ではなく、生き残るための、唯一の文明として受け入れているのだ。
この地下に広がる闇市は、法という鎖を断ち切ったことで、奇妙なほどしなやかで、合理的だった。
「今のこの国は、正しい法を守らせようとすればするほど経済を殺し、法を犯す者たちに活気を与えている。皮肉なものですね。私が重んじてきた規律が、皮肉にもこの闇市を完成させている……」
アンネリーゼは、監査官としての苦悩を噛み締めていた。
もし、この闇市を犯罪として摘発すれば、この町の経済は明日にでも崩壊する。住人たちは飢え、市場を愛した商人たちは失職するだろう。しかし、ここを放置すれば、法は絵に描いた餅となり、国家の根幹である中央集権は名ばかりのものとなる。
「ダニエル。……あの管理人のところへ行きます。監査官としてではなく、対等な交渉相手として」
「管理人は利益を最優先する。交渉の余地はあるな」
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