レンブルク男爵の水害②
アンネリーゼはランプを極限まで近づけ、インクの滲んだ管理台帳を読み解いていった。ダニエルは村の警備から戻り、彼女の傍らで泥を拭いながらそれを黙って見守っている。
「……見つけた」
深夜、静寂の中にアンネリーゼの震える声が響いた。
彼女が突き止めたのは、二つの記録の決定的な不一致だった。
一つは、王都の気象観測所から送信された局地的な豪雨予測の受信記録。
もう一つは、上流の領主バルト伯爵が管理する水門開閉履歴である。
「見てください、アレンス曹長。気象予報が領主の元に届いたのは、開門の三時間前です」
アンネリーゼはペン先で二つの数字をなぞった。
「もし伯爵の言う通り堤防決壊の危機が差し迫っていたのなら、彼は予報を受け取った瞬間に下流のレンブルクに対して警告を発して、放流の準備をさせるべきでした。法第十二条には、緊急放流の義務として『下流への事前通告』が明記されています」
「しかし、彼はそうしなかった」
ダニエルが鋭く付け加える。
「彼は三時間もの間、意図的に沈黙した。……なぜだ?」
「……彼の領地の堤防を点検してみてください。おそらく、数ヶ月前から保守点検の記録が途絶えているはずです。伯爵は、点検をサボったことで堤防が脆くなっていることを隠蔽していたのではないでしょうか。豪雨が来ると知った時、彼は堤防が壊れて大惨事になるよりも、あらかじめ水を逃がして、決壊を未然に防いだことにしてしまえ、と考えたのです」
アンネリーゼの心臓が激しく脈打つ。
これは、単なる天災ではない。伯爵の保身が生んだ、純然たる人災だ。
彼は自分の領地の工事費を浮かせ、あわよくば自分の領地だけを守るために、下流に何の通告もなしに水を放流したのだ。
アンネリーゼは管理台帳を叩いた。
「これを見れば、彼が『危機が迫ったから放流した』というのは嘘だと分かります。予報を見てからの三時間は、決壊を防ぐための猶予ではなく、自領を守るための準備時間だった」
「つまり、伯爵は最初から下流を犠牲にする前提で動いていたということか」
ダニエルが静かに長剣に手をかけた。その瞳には、今まで以上に怒りが宿っている。
「監査官殿、この証拠があれば、委員会の判定は覆りますか?」
「覆せます。これがあれば、彼らは〝適正な放流〟を主張できなくなる。……むしろ、法第十二条違反の『故意による領民殺傷』として、バルト伯爵個人の責任が問われることになるはずです」
時計の針は、すでに夜明けが近いことを告げている。
アンネリーゼは拳を握りしめた。これで伯爵を詰められる。だが、この事実を公にすれば、二つの領地の衝突を止めるどころか、バルト伯爵という強大な権力者を法廷に引きずり出すことになる。
「ダニエル、準備を。伯爵の館へ向かいます」
「了解しました。……監査官殿、返り血は浴びたくないでしょうが、今日は少々荒れるかもしれませんよ」
アンネリーゼは頷き、インクで黒々と汚れた報告書を鞄に押し込む。
二人は濡れるのも構わず、夜明け前の冷たい雨の中へと飛び出した。
バルト伯爵の館は、レンブルクの惨状とは対照的に、平穏そのものだった。
豪奢な大理石のホールに足を踏み入れたアンネリーゼたちの前へ、即座に武装した私兵たちが雪崩れ込む。
「止まれ! 許可なき者の立ち入りは禁ずる!」
私兵たちの槍が、アンネリーゼの喉元に突きつけられる。
ダニエルが影のように動き、先頭の男の腕を捉えた。次の瞬間、乾いた音とともに男が床を転がる。ほかの憲兵たちもは抜剣こそしなかったが、腰の鞘で正確に急所を叩き、続く三人を最小限の動作で無力化した。
武装した男たちが次々と組み伏せられていく。ダニエルは汗一つかかぬ様子で、倒れ伏す兵士の隙間を通し、奥の執務室へと続く扉を蹴り開けた。
「失礼。内務省監査課、特別監査の時間だ」
暖炉の前で優雅にワインを傾けていたバルト伯爵が、杯を宙で止めた。
「……何の真似だ。無礼な役人どもめ!」
「無礼なのはどちらですか、伯爵」
アンネリーゼは、泥のついた靴で磨き上げられた床を踏みしめ、伯爵のデスクまで歩み寄った。彼女の鞄から取り出されたのは、湿ってふやけた、あの三時間のズレを刻む管理台帳だった。
「……これは?」
「気象データと、水門開閉記録の照合結果です」
アンネリーゼは台帳を叩きつけ、伯爵の顔を射抜くように見据えた。
「あなたの放流判断が適正なら問題はありません。緊急避難として記録も承認されるでしょう。ですが、この台帳が示す通り、三時間の沈黙が堤防の点検怠慢を隠すための準備時間だったことが法廷で証明されれば話は別です」
伯爵の顔から、さっと血の気が引いた。
「バカな……そんな細かい記録、誰が見る」
「内務省の監査官が見ます。そして、この証拠が中央の治水委員会に届けられれば、貴方の正当性は一瞬で消え去る」
アンネリーゼはさらに一歩、伯爵との距離を詰めた。彼女の瞳には、かつて代官所の帳簿室で見た迷いは微塵もなかった。
「法第十二条の免責は適正な管理を前提としています。点検を怠り、保身のために下流を水没させたとなれば、これは天災ではなく故意による加害です。……堤防の修理費全額、そしてレンブルク男爵領への賠償金は、すべて貴方の伯爵家個人の資産から支払われることになる。それとも、私の計算が間違っていますか?」
沈黙が部屋を支配した。ダニエルが傍らで、床を転がる私兵たちを一瞥し、静かに警告を放つ。
「選んでください。ここで今すぐ賠償の全額支払いに応じ、レンブルク男爵との和解書に署名するか。それとも、この証拠を持って今すぐ王都の検察へ飛ぶか」
伯爵の指先が、ワイングラスの上で小刻みに震えた。
彼はアンネリーゼの冷徹な眼差しと、その後ろで殺気を殺して佇む憲兵の姿を交互に見つめた。ここで拒絶すれば、領地没収は免れない。伯爵の矜持と保身が、激しい勢いでせめぎ合っている。
ダニエルがダメ押しのように冷たく言い放った。
「王都への早馬が既に出発した」
伯爵は顔を真っ赤にしていたが、やがて大きくため息をつき、無造作にデスクの上の羽根ペンを放り投げた。
「……いいだろう。お前たちの勝ちだ」
勝ち誇るような表情は見せなかった。アンネリーゼはただ、冷ややかな感情を込めて言った。
「勝ち負けの問題ではありません。ただ、適正な手続きを行ったまでです」
彼女は差し出された署名入りの和解書を手に取り、それを見つめる伯爵の、魂の抜けたような顔に背を向けた。
降り続いた雨は、数日経ってようやく上がり、雲の切れ間から弱々しい陽光が差し込んでいた。
賠償金の支払いを確約する和解書は、レンブルク男爵の手に渡った。それだけで、復興予算が凍結されたままの村にとっては、何よりの希望となった。
王都へ戻る道すがら、馬車の御者台でダニエルがぽつりと零した。
「……結局、あの伯爵は無傷ですよ。点検をサボり、下流を犠牲にしたあの男が、その後も領主として威張って暮らす。納得いきませんね」
アンネリーゼは馬車の揺れに身を任せながら、鞄の中に収めた報告書の写しを指先でなぞった。彼女がハインリヒに急ぎ速達で提出したのは、『伝達システムの不備による、治水委員会の判断ミス』という筋書きに修正された報告書だ。
伯爵の不正を白日の下に晒せば、彼は没落するだろう。しかし、地方の有力貴族が一人失脚すれば、その領地を巡って新たな政治的混乱と権力の空白が生まれる。それは間違いなく、農民たちの生活をさらに数年は停滞させる。
「ええ、納得はできません」
アンネリーゼの声は凪いでいた。
——俺達内務省の仕事は、構造の穴をふさぐことだ。
ハインリヒの言葉を心の中でなぞる。
彼女はダニエルの背中を見つめて静かに続けた。
「でも、私は予算を確保しました。村の人々が冬を越せるだけの金を、確実に手元へ運んだ。……それが、監査官である私の仕事です」
ダニエルは短く鼻を鳴らした。それは、あきれ半分、そして半分は心からの敬意を込めたものだった。
「……全く。リーゼ、あなたは本当に、救いがたいほどの役人ですね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
彼女は小さく笑った。仕事の関係者から名前で呼ばれるのは少しむずがゆかった。
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