レンブルク男爵領の水害①
「今日はあなたが馭者なのですか?」
ハインリヒの助言を受けて、今日はダニエルだけでなく部下を十人、一個隊丸ごと連れてきていた。
「馬車の御者台は、周囲を見渡すのに一番いいんですよ。襲撃にも気づきやすい」
それに、とダニエルは続けた。
「護衛として品位を保つべきだし、何より監査官殿の仕事の邪魔をしたくない。書類を広げたいだろうと思って。毎度、膝の上だけでは窮屈そうです」
降りしきる雨は、もはや空から降る水滴というよりも、カーテンのようだった。
馬車の車輪は、濁流が押し流してきた流木や瓦礫を乗り越えるたびに、不気味な軋みを上げる。御者台で手綱を握るダニエルは、全身ずぶ濡れになりながらも、微動だにせず闇の先を見据えていた。
「フォルマーさん、頭を低く! 道が崩れています!」
その警告と同時に馬車が大きく傾き、アンネリーゼは書類の入った革鞄を抱きしめて座席にしがみついた。車窓の外には、かつて緑の牧草地であったはずの広大な平野が、茶色く渦巻く泥の海と化している光景が広がっている。
下流の村、レンブルクに到着した時、そこは既に半ば死んだ街だった。
家屋の骨組みは無残に折れ曲がり、村の中心を貫くはずの小川は暴走する大河へ変貌していた。泣き叫ぶ声も聞こえない。ただ、降り続く雨の音と、建物が水に削られて崩壊する断末魔のような軋みだけが、絶望的な村を支配していた。
村の公会堂に避難していた領主、レンブルク男爵は、アンネリーゼたちの姿を見るなり、泥だらけの拳を机に叩きつけた。
「……遅い! どれほど遅れて来たか分かっているのか!」
男爵の顔には、疲労と憤怒が入り混じっていた。彼は背後の窓を指差す。その先には、上流へと続く街道の向こう側で、闇を割るようにして激しく流れる川があった。
「あれを見ろ。あんな放流量、尋常ではない。上流のバルト伯爵領が、わが領地を水没させるために意図的な緊急放流を行ったのだ! 予告も、警告も、一切なかった!」
男爵の激昂は、決して単なる濡れ衣ではなかった。
この数時間、アンネリーゼが街道を辿る中で見た光景は、明らかに異様な水位の上がり方だったからだ。雨量だけでは説明のつかない、突発的な大波。それがレンブルクの村を根こそぎ奪ったことは明白だった。
「わが領地の農民たちは、皆、作物を奪われ家を失った。この罪は誰が引き取ってくれる? 王国か? それとも、あの卑劣な上流の伯爵か!」
男爵の背後では、生き残った村人たちが、焼けただれたような憤怒の眼差しでアンネリーゼを見つめている。彼らにとって、アンネリーゼは王国から来た使者であり、この地獄を解決できる唯一の権力者だった。
アンネリーゼは、濡れそぼったジャケットを脱ぎ捨て、濡れた髪をかき上げた。
視界の端で、ダニエルが静かに長剣の柄に手をかけているのが見えた。村人たちの怒りは、いつこちらへ向かってもおかしくないほどの臨界点に達している。
「男爵。まず、現状の把握が必要です」
彼女は努めて冷静な声で言った。
心臓が早鐘を打っている。数字と、権力と、人々の生存。それらが雨音の中で混ざり合い、崩れ落ちようとしていた。
「この地を災害として処理するのか、それとも二つの領地間の人災として裁くのか。……報告書を書くのは私です。まずは、その放流の根拠となる台帳と、開閉の記録をすべて見せてください」
男爵は鼻を鳴らし、机の上に置かれた湿った束を突き出した。
アンネリーゼはその重く湿った書類を手に取る。それは、この泥沼の領土紛争の導火線となる、いわば戦争の記録だった。
レンブルクを襲った濁流がようやく小康状態を見せ始めた頃、アンネリーゼたちは上流にあるバルト伯爵領との境界、通称、分水嶺の関所へと急いでいた。
だが、その道は完全に閉ざされていた。
道幅を塞ぐように、泥だらけの私兵たちが盾を並べて陣を敷いている。レンブルク男爵の旗印を掲げた農兵たちが兵たちの後に集っていた。彼らの手には農具や錆びた槍が握られ、その瞳には収穫を奪われた者の飢えた狂気が宿っていた。
「どけ! あの上流の連中を叩き潰して、水門をぶち壊してやる!」
「俺たちの畑を返せ!」
男爵の私兵と村人たちが、声を荒らげて境界線を越えようと押し寄せる。対する上流側、バルト伯爵の領地からも重武装した正規の騎士たちが現れ、弓を引き絞って警告した。一歩でも踏み込めば、矢の雨が降り注ぐという意思表示だ。
アンネリーゼが馬車を降りると、その緊迫した空気に胃の奥がせり上がるのを感じた。
「お二人とも、剣を収めてください!」
ダニエルが瞬時にアンネリーゼの前に立ち、周囲にいた憲兵たちに鋭い視線を送る。憲兵たちは周囲の私兵たちに「王国の監査官である! 武器を下せ!」と大声を張り上げた。だが、殺気立った兵士たちには、その言葉さえもただの雑音に過ぎないようだった。
ほどなくして、泥を跳ね上げながら豪華な馬車が上流側から現れた。現れたのは、磨き上げられた鎧を纏ったバルト伯爵その人だった。彼は馬車の上から、嘲るような冷めた視線を下流の民に向けている。
「暴徒めが。王国の法第十二条を忘れたか?」
伯爵の声は、静かだが冷徹に戦場へ響いた。
「『流域保全のための緊急避難措置』に基づき、私は堤防の決壊を防ぐために正当な放流を行ったに過ぎない。被害が出たのは不運だが、それは自然の摂理による天災だ。私に賠償の義務はない」
「天災だと! 貴様の領地を守るために、俺たちの領地を水底に沈めておいて、よくもそんな口が叩けるな!」
遅れてやって来たレンブルク男爵が怒りに震えながら剣を抜く。両軍が同時に武器を掲げ、衝突の瞬間が訪れようとしたその時――。
「――そこまでです!」
アンネリーゼは、泥濘に足を取られそうになりながら、両軍の槍先が交差するその中央へと躍り出た。
ダニエルが即座に追随し、その背後を憲兵が固める。彼女は雨の中、毅然と王国の紋章が刻まれた監査官証を掲げた。
「これ以上の武力行使は、王国に対する反逆とみなされます! これよりレンブルクおよびバルト伯爵領の両地は、災害緊急措置として内務省の管轄下に置きます!」
「監査官、邪魔だ」
バルト伯爵が目を細めた。
「私の正当な防衛行為に、官僚風情が口を出すな。この土地の領主は私だ。私の領地で何を行おうと、王国から与えられた裁量権の範囲内だ」
「裁量権は、不正を許すためのものではありません」
アンネリーゼの言葉に、伯爵が不敵に笑う。
雨は激しさを増していた。二人の領主の背後には、すでに血を流す覚悟を決めた者たちの怒号が渦巻いている。この場所で一人でも引き金を引けば、国を揺るがす大規模な内戦へと発展する。
彼女は泥の中で、男爵の湿った報告書と、伯爵の突きつける法理の両方を睨みつけた。正義は両者にあった。しかし、その正義の狭間で、レンブルクの村は沈み、領土紛争という名の火蓋が今にも切られようとしている。
夜、アンネリーゼたちは仮設の宿となっている役場の執務室にいた。
暖炉はなく、部屋の中には雨漏りの滴る音だけが響いている。アンネリーゼは、王都へ送った緊急報告書への返信を見て、その紙を握りつぶしたくなった。
「放流判断は適正。被害は不可避な天災……」
アンネリーゼは震える声で読み上げた。中央の治水委員会から届いた決定通知は、あまりに無慈悲で、あまりに簡潔だった。
「治水委員会の委員長は、バルト伯爵の遠縁にあたる人物だ。……結託しているな」
ダニエルが王都から送られてきた別便の書簡を読みながら、呆れたように頭を左右に振る。
「報告書を握りつぶされた。これで、レンブルク男爵が賠償を求める法的な正当性は失われたわけだ」
「法が、彼らに武器を与えているのと同じじゃない……!」
アンネリーゼが椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「このままでは、来週の徴税期限に合わせて男爵が私兵を動かします。彼らにとって、これ以上失うものがない今の状況は、もはや理屈ではなく死ぬか殺すかの決断だもの」
ダニエルは窓の外、暗闇に紛れて待機する双方の私兵の焚き火を眺めながら、厳しい表情で言った。
「両領地が衝突すれば、王国軍が治安維持の名目でやってくるだろう。その時、真っ先に没収されるのは両領主の領土であり、軍の食料として根こそぎ徴発されるのは農民たちの残りの備蓄だ。……誰も救われない」
絶望的な沈黙が部屋を支配した。
中央の判断を覆すには、最低でも一ヶ月はかかる。だが、両領主の私兵が衝突するまでの猶予は、わずか七日。王国軍が介入すれば、事態は領主の喧嘩から王国への反乱という名の国家犯罪に書き換えられる。そうなれば、彼らの復興など永遠に夢のまた夢だ。
「フォルマーさん、監査官の報告書一つで動かせるのは、所詮この程度の権限だ」
ダニエルの声には、冷たい現実が滲んでいた。
「今、この場で中央の決定に逆らえば、あなたは内務省から、私は軍本部から職権乱用で追放される。自分の監査官資格を賭けてまで、この地を救う価値があると思っているのか?」
問いかけられて、アンネリーゼは窓の外を見た。
そこには、泥に埋もれたレンブルクの村人たちが、少ない薪を分け合って震えている姿があった。彼らは、王都の貴族たちが食卓で交わす政治の話など何一つ知らない。ただ、理不尽に家を奪われ、明日食べるものに困っているだけだ。
「……価値があるか、なんて分かりません」
アンネリーゼは机を力いっぱい叩いた。
「でも、私がこの報告書を黙って送れば、私は明日から死体の上で帳簿を合わせる事務員になる。……アレンス曹長、もう少しだけ付き合ってください」
「もう少しで済むのか?」
「中央の委員会が握りつぶしたのは放流の適正判断です。……ですが、もし放流以前に、この惨状を防げた証拠があれば、委員会の判断は無効になります」
アンネリーゼは血走った目で、膨大な堤防の管理記録に飛びついた。
タイムリミットは七日。
彼女は、王国の法を逆手に取り、委員会を出し抜くための隠された人災の証拠を、この腐った帳簿の山から掘り起こそうと決意した。
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