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ブローフ男爵領の税金②

 重厚な扉を抜け、館の外へ出ると、夜の闇と冷たい雨が二人を容赦なく飲み込んだ。

 ダニエルが慣れた手つきで防風ランタンに火を灯すと、雨粒がオレンジ色の光を乱反射させた。彼は無言でアンネリーゼの肩に彼女のジャケットを掛け、泥濘に足を取られないよう先導して歩き出す。


 しばらく無言で歩いた後、雨音に紛れさせるようにダニエルが口を開いた。


「……随分なことを言いましたね。男爵が激昂して、我々を放り出さなかったのが奇跡ですよ」

「激昂する気力すら、彼には残っていなかっただけよ。それに、嘘の帳簿を抱えたままでは、遅かれ早かれこの村は潰れるわ」


 アンネリーゼがジャケットの襟を合わせながら答えると、ダニエルは油断なく周囲の暗闇に視線を配りながら鼻を鳴らした。


「市場の停止報告は、劇薬です。中央が男爵を見限り、見当違いの軍隊を送り込んできたらどうするおつもりで?」

「そうさせないために、私が来たのです。……私たちが上げる報告書の書き方次第で、中央の判断は変えられる」

「なるほど。中央の石頭どもを、現場の紙切れ一枚で騙し討ちにしようというわけだ。……出世街道からは確実に外れますよ、監査官殿」

「出世のために、こんな辺境の泥濘を歩いているわけじゃないわ」


 アンネリーゼは思わずため口をきいてしまった。ハッとして口を押さえたが、ダニエルの背中からはくすりと笑っているような空気が醸されていた。

 二人の会話が途切れると、村には再び不気味な静寂が戻った。

 やがて、雨粒の向こうに黒々とした礼拝堂のシルエットが浮かび上がった。そのすぐ隣に寄り添うように建っているのが、今夜の宿となる牧師館だった。かつては村の集会所や賓客の宿として機能していたであろう堅牢な石造りの建物だが、今は手入れもされず、蔦が壁を這うままに放置されている。


 ダニエルが重い木製の扉を叩くと、ほどなくして内側からカンヌキを外す鈍い音が響いた。


「……お待ちしておりました、監査官殿」


 昼間、広場で出会った牧師が、細い蝋燭の火を手に力なく微笑んでいた。

 館の中へ通されると、そこにはカビと古い紙、そして冷え切った灰の匂いが漂っていた。本来なら客をもてなすために燃やされるはずの暖炉には、火の気すらない。


「申し訳ありません。薪の備蓄も底をつきかけておりまして……。お湯を沸かす程度の火しかお出しできません」

「構いません、牧師様。屋根があるだけで十分です」


 アンネリーゼが気丈に振る舞う横で、ダニエルが背嚢から固い携帯口糧と水筒を取り出し、無造作にテーブルへ置いた。


「牧師殿。護衛の分隊は礼拝堂の軒下で野営させている。彼らのために、せめて雨風を凌げる毛布か藁はないか?」

「藁ならば、納屋に少しばかり。ただ、食事の方は……」

「分かっている。村の備蓄を当てにするほど、我々も愚かじゃない」


 ダニエルの冷たくも配慮の混じった言葉に、牧師は痛ましげに目を伏せ、深く頭を下げて奥の部屋へ下がっていった。

 薄暗い客室に取り残されたアンネリーゼは、冷え切った木の椅子に腰を下ろした。

 

「……さて。どうやってこの状況を打破したものかしら」


 蝋燭の頼りない光に照らされたアンネリーゼの瞳は、疲労に滲みながらも、冷たい意志の光を宿している。

 小さな文机に地図を広げ、鞄から紐締めの小袋を取り出した。中から小さな駒を取り出し、地図の上に置く。

 いつの間に戻ってきていたのか、ダニエルが机の横に現れた。

 ダニエルは地図の上に配置された憲兵の駒を指で弾いた。

 

「商人が来ないなら、村から動くしかない。……一回限りの強行突破だ。村の農民に荷馬車を出させ、憲兵が護衛して街道を走り抜ける。盗賊共の鼻先で、彼らの穀物を貨幣に変えてくる」


 アンネリーゼは腕を組んで考え込む。

「それは流石に危険すぎるのでは? 護衛はあなたも入れてたった四名……」

「だからこそ、盗賊共は飛び出してくる」

 

 ダニエルは不敵に笑った。

 

「あいつらは商隊の金品を狙っている。我々を獲物としてな。ならば、そのまま返り討ちにして、街道の安全を物理的に確保する。……それがこの地を支配する唯一のやり方だ」


 

 作戦は決行された。

 泥を跳ね上げ、憲兵に囲まれた荷馬車が街道を駆け抜ける。


「来るぞ。森の奥、右翼だ」


 ダニエルが低く呟いた。街道沿いの鬱蒼とした森から、泥に汚れた男たちが次々と姿を現す。彼らは農民の成れの果てというよりは、獣の目をした飢えた亡霊に近い。十人近い盗賊たちが、無防備な荷馬車を囲い込もうと殺到する。


「フォルマーさん、馬車の下へ!」


 ダニエルの怒声と同時に、荷馬車が急停止した。

 憲兵たちは、動揺することなく車輪の影に身を隠し、あるいは荷馬車の上に配置に就く。彼らの動作には迷いがない。


 盗賊の頭と思われる男が、錆びついた槍を突き出しながら叫ぶ。

「穀物を置いていけ! さもなくば皆殺しだ!」


 答えは銃声だった。

 ダニエルの手から放たれた銃弾が頭の男を射抜き、その肉体をぬかるみに叩きつける。それを合図に、静寂は暴力の嵐へと変わった。


「防御陣形をとれ! 荷馬車を中央に固めろ! 接近した者は容赦するな!」


 憲兵たちが次々と抜き放った長剣が、雨を裂いて弧を描く。

 盗賊たちは数こそ多いが、所詮は寄せ集めの暴徒だ。訓練された憲兵たちの鋭い連携の前に、一人、また一人と無力化されていく。

 アンネリーゼは馬車の床下、冷たい泥の中に身を潜めながら、すぐ頭上で繰り広げられる死闘の音を聴いていた。鉄と鉄が噛み合う耳をつんざく金属音、血を吐くようなうめき声、そしてダニエルの冷静な指示の声。


「左から二人、刺突!……よし、下がれ!」


 それは恐怖の時間というよりも、緻密に計算された仕事の工程に見えた。

 敵の戦意が挫かれたのは、戦闘が始まって数分後のことだった。仲間たちが無惨に切り伏せられ、憲兵たちの冷徹な練度の前に立ちはだかることが不可能だと悟った時、盗賊たちは潮を引くように森へと消えていった。


 静寂が戻った街道には、憲兵たちの荒い呼吸音だけが響いていた。

 ダニエルは鞘に剣を収めると、顔に飛び散った返り血を無造作に拭った。彼は馬車の下にいたアンネリーゼを見下ろし、いつも通りの無愛想な顔を向けた。


「フォルマーさん、泥だらけですよ。ですが……まあ、死ななくてよかったですね」


 アンネリーゼが泥を払って這い出した時、ダニエルの背後の街道には、荷馬車を引く農民たちの安堵に満ちた、しかしどこか呆然とした表情があった。

 

 街道の戦闘が終わる頃には、盗賊たちは散り散りに逃げ去っていた。

 無事に街の市場へ到着し、穀物を銀貨に変えたとき、荷馬車を引いていた村の長老が、震える手で銀貨を握りしめ、アンネリーゼに深く頭を下げた。


「監査官殿……。これで、冬を越せます」


 その銀貨の重みを見た時、アンネリーゼは確信した。どんなに美しい理屈も、この銀貨一枚の重さには勝てない。彼女は手帳を開き、鉛筆を走らせた。


『制度の不備は、帳簿を直すだけでは埋まらない。時に、現場の力で強引に栓を抜き、澱んだ血を流す必要がある』


 数週間後。

 王都の事務所で報告書を読んだハインリヒは、珍しく肩をすくめた。

「……強行輸送だと? 憲兵を私兵のように使いおって」

「必要不可欠な行政措置です。……でなければ、納税は不可能ですから」

 アンネリーゼが真っ直ぐに見返すと、ハインリヒは溜息をつきつつも、その口角はかすかに上がっていた。


「……ま、いい。この報告書、内務省の〝特例認可〟として受理しておく」


 数日後、ダニエルが監査室へやって来た。

 アンネリーゼは手元の報告書の山から顔を上げる。


「珍しいですね。どうされたんですか?」

「ことの顛末が気になるかと思ってね。ブローフ男爵から憲兵へ正式に盗賊討伐の依頼があったんです」

「……そうですか。男爵も、ようやく重い腰を上げたのですね」

 

 ダニエルはゆっくりと頷いた。

 

「ええ。ですが、あの村の農民たちがまた貨幣納税ができるようになるまでには、もう少し時間がかかるでしょうね」


 アンネリーゼはダニエルの背中を見送りながら深く息を吐いた。彼が監査室から出ていくと、机に積まれた公文書の束に視線を落とす。

 今回の件は、あくまで対症療法に過ぎない。盗賊を散らしても、飢えと不公平な徴税システムという火種が残っている限り、どこかでまた同じシステムが窒息を起こすはずだ。


「……また、何年後かに同じことが起きるんでしょうね」


 彼女の独り言は、湿った雨の音にかき消されるほど小さかった。

 すると、隣で書類を整理していたハインリヒが、パイプの煙を燻らせながら低く返した。


「そうかもしれん。だが、それがどうした」


 彼は顔色一つ変えず、淡々と新たな案件の書類をアンネリーゼの前に差し出した。


「システムは完璧ではない。我々監査官が一度何かを変えたからといって、王国が明日から理想郷になるわけでもない。……だが、それを一つずつ、根気強く修正していくのが俺たちの仕事だ」


 ハインリヒの言葉には、感傷も絶望もなかった。そこにあるのは、現実を直視し、ただ職務を全うし続ける老練な役人の覚悟だけだった。


 アンネリーゼは、突きつけられた新たな書類の表題を見た。そこには、また別の地方で発生した帳簿の齟齬が記されていた。

 彼女は小さく背筋を伸ばし、羽ペンを握り直す。

 このペンの一振りが、どれだけ小さな修正であっても、現場の誰かの生活を繋ぎ止めるかもしれない。


「……はい。そうですね」


 彼女は自分に言い聞かせるように呟き、再び数字の海へと深く潜り込んでいった。


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