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ブローフ男爵領の税金①

 内務省地方管理局監査課に、冷ややかな空気が流れた。

 地方の牧師から届いた一枚の上申書。それを読み上げたアンネリーゼの声に、ハインリヒはパイプを置かぬまま、煙の向こうで眉をひそめた。


「中央も荘園主も貨幣納税を求めていますが、村には市場がありません。農民は納税を拒んでいるのではなく、不可能なのです」


 ハインリヒは鼻で笑い、乱雑に書類の山へ手を出した。

「……地方のよくある納税問題だ。古い慣習にしがみつく連中が不満を漏らしているだけだろう。制度の変更を理解させ、浸透させるのは領主や地方官庁の仕事だ。我々が首を突っ込む隙間はない」


 アンネリーゼは上申書の『市場がない』という一文を指でなぞる。

 

「あの、これは制度の不備ではなく、物理的な欠落ではありませんか?」

「欠落?」

「はい。現地へ監査に行きたいです」

「……その必要はない」

「貨幣納税が不可能な場所で、強引に税を集めればどうなるか。……領民は土地を捨て、村は死にます」


 ハインリヒは書類に目を落としたまま、無機質な声で告げた。

 

「だからなんだ? 我々が現地へ行ってどうする? 市場を建てるのか? それとも商人を招待するのか?」


 ハインリヒはパイプを灰皿にコツコツと叩きつけ、苛立たしげに椅子を回した。

 

「現地に行けば解決する……というのは、現場経験の浅い役人が陥る甘い幻想だ。監査官の仕事は、事実を記録し、報告すること。それ以上でも以下でもない」


 彼はそのまま窓の方を向き、背を向けた。アンネリーゼの心に悔しさが込み上げる。しかし、背を向けたまま、ハインリヒはデスクの隅に積まれた分厚いファイルに目を留めた。


「……ま、いい。ブローフ男爵領の入り口にある関所から、『雨漏りと外壁の老朽化による修繕費の申請』が出ている。すでに半年も放置されている些末な案件だ」

「え……?」

「関所の屋根を直すのに国庫を開く価値があるか。現地を見てこい。日帰り、長くても一泊で終わる単純な資産査定だ」


 アンネリーゼは目の前に投げるように置かれた書類と、背を向けたままの上司を交互に見つめた。市場の問題とは全く関係のない、木っ端役人がやるような雑務だ。しかし、目的地は間違いなくあの村だった。


「……いいか。お前の任務はあくまで関所の建物の査定だ。市場問題の解決ではない」


 ハインリヒはそこで言葉を区切り、初めて顔だけを横に向けて彼女を流し見た。その冷ややかな片目には、微かな光が宿っていた。


「だが――監査官が現地へ赴いた際、道中で意図せず別の行政不備や、無視できない帳簿の矛盾が目に入ったのなら、それを報告書の余白に追記するのは監査官の自由だ」


 アンネリーゼの目が輝く。ハインリヒは小さく溜息をつき、再び窓の外へ視線を戻した。

 

「もし、お前の言う通り物理的な欠落とやらが存在し、地方官庁の怠慢を暴けるだけの証拠が拾えるというなら、勝手に拾ってこい。……感情で動くな。数字と事実だけを持って帰れ」


 アンネリーゼは書類を拾い上げ、強く胸に抱いた。明確な出張許可だった。


「……はい! ありがとうございます!」


 アンネリーゼが勢いよく一礼して部屋を出ようとすると、


「……おい。道中は気をつけろ。ダニエル達も連れて行け。関所周辺の治安状況の調査も、査定には必要だからな」


 その言葉通り、準備のために憲兵詰所を訪れたアンネリーゼに対し、ダニエル曹長は露骨に眉をひそめた。今回、部隊は他の任務で払底しており、同行できるのはダニエルの分隊のうち三人だけだ。


「……本気ですか、監査官殿。今回は三名の憲兵を連れて行きますが、これでも本来の必要数から言えば半分です。反乱鎮圧で各所に人員が割かれており、これが精一杯でした」

「三名もいれば十分よ、曹長」

「そう願いたいものです。商隊なら荷が重く盗賊の餌食ですが、我々のような武装した小部隊なら深追いは避ける。……とはいえ、この先の街道は、商人が命を落とした場所ばかりだ。気を引き締めてください」


 

 数日後。

 予報を裏切る冷たい雨が、容赦なく馬車を打ちつけていた。

 ダニエルが手綱を握り、泥濘を抉るようにして馬車を走らせる。時折、暗い森の中から何者かの視線を感じるような気配があり、そのたびにダニエルは手元に置いた剣を握り直した。

 馬車が泥まみれになりながらも、街道の関所を越え、ようやく目的の村へ辿り着いた時、アンネリーゼの目に飛び込んできたのは、静寂に包まれた村の風景だった。


 広場には、買い手のない穀物袋がまるで死骸のように山積みにされ、カラスが黒い翼を広げてその上に群がっていた。

 その光景を見て、アンネリーゼは直感した。

 ここには市場があるべきだった。だが、何らかの理由でそれがないのだ。


 礼拝堂の陰から、僧服の牧師が幽鬼のような足取りで歩み寄ってきた。

「……ようやく、来ましたか」

 牧師の衰弱した瞳には、救いではなく、諦念が渦巻いていた。


 ブローフ男爵の居城は、華やかさとは無縁の質実剛健な造りだった。かつては軍人として鳴らした男爵だが、今は中央から突きつけられる厳しい徴税令と、領内で発生する掠奪被害の報告に追われ、その背中は驚くほど小さく見えた。


「――それで、監査官殿。市場が機能していないのは私に怠慢があると言いたいのか?」


 男爵は関所と市場の記録を突きつけ、乾いた笑みを漏らした。

「この記録の通りだ。反乱直後、市場利用者は一気にゼロになった。商人たちは皆、山に潜む反乱軍の残党……いや、あれはもはやただの飢えた野獣だ。その牙を恐れて街道を避けているのだよ」


 アンネリーゼは書類の余白に視線を落とす。市場開催記録には、今も毎週金曜日に『開催』と記されている。法律上、そこには市場が存在するはずなのだ。だが、現実は空っぽの広場に風が吹き抜けるだけ。


「男爵。中央は、なぜこの報告を無視して貨幣納税を強行するのですか?」

「無視などしていない。彼らは『市場があるから納税できるはずだ』と、帳簿の数字しか見ていないのだ」


 男爵は苛立ちを隠そうともせず、デスクの上の山積みの命令書を指で弾いた。

 

「商人が来なければ、穀物を貨幣に換える手段がない。穀物を無理やり徴収して換金しようにも、買い手がいなければ二束三文だ。そんな計算もできぬ中央の官僚どもが、納税が遅れれば領主の怠慢だと私を叱責する。……ならば聞こう。監査官殿、君ならどうする? 農民から穀物を奪い、彼らを餓死させてまで、銀貨を差し出せと言うのか?」


 アンネリーゼは答えに窮した。男爵の問いは、そのまま彼女自身の首を絞める問いでもあった。

 ダニエルが静かに口を開く。

 

「男爵。その残党ですが、山に逃げ込んだのは反乱軍だけなのですか」


「……いや」

 

 男爵は窓の外の荒れた山肌を睨みつけた。

 

「食い詰めた傭兵、住む場所を焼かれた流民、明日のパンを失った農民も混ざっている。一度山に入れば、彼らにとっては生きるための略奪だ。容赦はない。街道を避けるのは、商人の防衛本能として当然だろう」


 アンネリーゼは背筋が冷えるのを感じた。

 市場が死んだのは、盗賊が出たからではない。盗賊が出るような不安定な状況が、商人の流通経路を切り捨てさせ、結果として村を経済的に孤立させたのだ。

 この状況は、たとえ盗賊を数人捕まえたところで解決しない。流通という血管が一度切断されれば、どんな名医が来ても、村はゆっくりと壊死していくしかないのだ。


「男爵。市場の法的な『開催記録』を維持し続けるのは、今すぐ止めてください」

「何?」

「記録上、市場が存在するから中央は徴税を強行するのです。一度、公式に市場機能の完全停止を報告させます」


 男爵は驚いたように目を見開いていたが、やがて顔を険しくして机を強く叩いた。

 

「馬鹿なことを言うな! 市場の停止を公式に認めればどうなるか、監査官殿なら分かるはずだ。中央は我が家の市場開催権を永久に剥奪し、私に統治能力なしの烙印を押すだろう。それだけではない……暴動鎮圧を名目に中央軍が送り込まれてくれば、軍隊の食い扶持として、この村の残った麦まで奪い尽くされるのだぞ!」

「ええ、そうでしょう」

 

 アンネリーゼは冷徹に言い放った。

 

「しかしそうすることで、初めて中央は市場がないが故に貨幣納税が物理的に不可能である、という前提条件を認めざるを得なくなるはずです」

「はっ。確かに認めはするだろう。だが、その頃には我が家もこの村も終わりだ」

 

 男爵は肩をすくめながら自嘲的に言った。

 アンネリーゼは、深く一礼してダニエルと執務室を後にした。これ以上の追及は、彼を追い詰めるだけだと分かっていた。今はただ、彼に別の選択肢が存在することを示すだけで十分だった。

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