消えた「ホワイトカラー」の仕事(2029年)
2029年、春。佐伯慎吾の会社に「その日」はやってきた。
部署のレイアウトが変わり、慎吾が長年座っていたデスクの周りから、人が消えた。昨日まで隣で図面の修正を議論していた同僚たちは、次々と「退職勧奨」という名の平和な宣告を受け、あるいは他の部署へ吸収されていった。
原因は、AGIによる「自動設計・自動試作プロセス」の完全統合だ。これまで慎吾たちが何週間もかけて試行錯誤していたベアリングの耐久テストや工程設計は、AGIが数秒で数万通りのシミュレーションを回し、コストと品質において「人類が到達し得ない最適解」を叩き出す。
「佐伯さん、君の仕事は今日で終わりだ」
かつての上司——今はもう上司とは呼べない、AGIの指示を中継するだけの管理職——が、紙切れ一枚を差し出した。そこには、慎吾が二十年積み上げてきたキャリアの価値を否定するような、無機質な文言が並んでいた。
「君のような『調整者』は、もう必要ない。このAIシステムが、設計から調達、ライン管理までを統合して行うからね」
その言葉の裏側にあるのは、AIに判断を委ねきった組織の、静かなる無責任さだった。慎吾は反論しようと口を開いたが、喉に何かがつかえて声が出なかった。彼自身、AIの導入推進を旗振りしてきた「加害者」の一人だったからだ。
その夜、帰宅した慎吾を、由香は何も聞かずに夕食に招き入れた。食卓には、美沙と弘樹が作った、AIによるレシピ通りの完璧な料理が並んでいる。
「明日からは、少しだけ家族の時間が増えるわね」
由香の言葉は明るかったが、その瞳には深い疲労が滲んでいた。彼女の事務所でも、行政書士という職業自体が「AIによる法的自動申請システム」に圧迫され、事務パートの彼女に残されているのは、AIが弾き出した書類を機械的に印刷する作業だけになっていた。
慎吾は夜中、誰にも見られない部屋で、リカレント教育の端末を開いた。
国が推奨する「AI共生時代のための再教育プログラム」だ。しかし、画面に並ぶカリキュラムは、どれもこれも「いかにAIを上手く扱うか」という道具の使い方ばかりで、肝心の「人間が何のために働くか」という問いには、どの項目も答えてくれなかった。
「……違うんだ」
慎吾は端末を叩きつけたくなった。彼が求めているのは、AIの操作手順ではない。二十年前、ベアリングの金属粉にまみれ、油の匂いに包まれながら、理屈を超えた「手触り」を信じていたあの頃の、自分自身の感覚を取り戻すことだ。
彼は、AIの予測エンジンには決して入力できない「記憶」を辿り始めた。かつて工場で失敗した時の、焦げ付くような空気の味。上司に怒鳴られた時の、理不尽な感情の熱さ。そうした、効率化の過程で「無駄」として削ぎ落とされた記憶の断片こそが、今の自分を形作っている――。
慎吾は、AIが推奨するカリキュラムを無視し、独自のメモ帳を広げた。AIに奪われた「職業」の代わりに、自分の中にある「身体的な記憶」を言語化し、再構成すること。それが、リストラされた後の、唯一の抵抗の形だった。
窓の外では、2029年の東京が、AIによる無駄のない交通制御のもと、完璧なリズムで流れている。慎吾はそこで初めて、自分が社会という巨大なシステムから「脱落」したことで、ようやく「個人的な人間」に戻れたのだという、奇妙な逆説を噛み締めていた。




