AGI発表の夜(2028年)
2028年、冬。世界は「その時」を迎えた。
あらゆるタスクを自律的に遂行する汎用人工知能——AGIの実装が、大手テック企業から正式に発表されたのだ。テレビのニュースキャスターは、これが産業革命以来の巨大な転換点であると声を荒らげ、ネット上では「人類の敗北」から「ユートピアの到来」まで、極端な論調が乱れ飛んでいた。
佐伯家のリビングでも、慎吾はテレビの騒々しさに眉をひそめ、タブレットを操作していた。しかし、画面に映し出されるのは、世界が変わったという高揚感ではなく、株価の乱高下と、雇用に関する予測グラフばかりだ。
翌朝。慎吾はいつものように通勤電車に乗り、駅前のコンビニでコーヒーを買った。
レジに立つ女性は、昨日までと変わらない動きでバーコードを読み取り、定型句を口にする。駅のホームには、いつも通りに満員電車が滑り込み、サラリーマンたちは昨日と変わらない表情でスマホを眺めている。
「……何も、変わっていないのか?」
慎吾は思わず独りごちた。世界が根底から覆るような劇的な変化をどこかで期待していたのかもしれない。あるいは、もっと決定的な破滅を。しかし、街はあまりにも滑らかに、昨日と同じ朝を繰り返していた。
その日、会社での会議も、いつも通りに進行した。AIが作成した精緻な見積書に、上司がハンコを押す。ただ、会議室の空気が以前とは決定的に違うことに、慎吾だけが気づいていた。
誰も、その見積もりの妥当性を議論していない。
「これはAIの判断だから、間違いないはずだ」
誰かがそう呟くと、全員が同意した。かつては、ベアリングの耐久性について現場の意見が飛び交い、喧嘩に近い議論があった。しかし今は、AIの出した答えという「聖域」に対して、異を唱えること自体が、組織において「不合理なノイズ」と見なされるようになったのだ。
夜、帰宅した慎吾は、リビングで静かに笑う美沙と弘樹の姿を見た。子供たちは、新しい学習端末——AGIが組み込まれた教師役と、楽しげに会話をしている。
「……ねえ、パパ。AIの先生が、私が大人になった頃の仕事について教えてくれたよ」
美沙が誇らしげに語る。慎吾は娘の隣に座り、その画面を覗き込んだ。そこには、美沙の性格や才能から逆算された「最も成功確率の高い人生のロードマップ」が描かれていた。
それはあまりにも完璧で、無駄がなく、そして――あまりにも恐ろしいほどに、「空っぽ」だった。
慎吾はリビングの明かりを少し落とした。窓の外には、静まり返った東京の夜景がある。かつて、この街にはもっと多くの怒号と、溜息と、無計画な幸福があったはずだ。AGIの実装は、確かに生活を便利にした。だが同時に、人間が「試行錯誤する権利」を、静かに剥ぎ取っていたのだ。
「パパ、どうしたの? 疲れてる?」
美沙が不思議そうに自分を見る。慎吾は微笑んで、娘の頭を撫でた。
「いや、なんでもない。ただ、少しだけ……昨日までの世界を懐かしんでいたんだ」
慎吾の心の中にあった「空白」が、少しずつ、形を持ち始めていた。それは、やがて来る大きな波の予兆に過ぎなかった。




