8 炎が全てを燃やした日 ~火を投ずる者~
どうでもいい過去。消し去りたい過去。消えない、過去――――――。
僕は最悪の家庭で育った。
狭くて汚い木造のアパート。物が大量に散らかっていて窮屈だった。
母親は狭い部屋に大きな化粧台と鏡を置いて、いつも綺麗に身支度をしていた。
母は十八の時に僕を生んだ。未成年でありながら、違法な店で働かされていた風俗嬢だった。美しい容姿と愛嬌の良さで、月に何百万も稼いでいたらしい。
「行ってくるね、雅」
母は僕のことを雅、と呼んだ。僕を見る目は、母親が子どもを見る目ではなかった。
母は僕ではない誰かを見ていた。僕ではない、愛する誰かをずっと見ていた――――――。
「雅。好きだよ」
「雅は本当に、かわいいね」
「私の愛する雅……」
僕は母親に合わせた。心のどこかで拒絶していても、母のために笑ってみせた。母の求める雅を演じ続けた。でもそれは、長く続かなかった。
ある日、家に父親と名乗る男がやってきて、一緒に住むようになった。
父は落ちぶれた元ホストだった。ホスト時代は何度もナンバーワンに輝いた凄腕のホストだったらしい。
父は酒と煙草と女に溺れ、働かずに母の金でギャンブルばかりしていた。でも母は、父が家に来てから活力が増したように元気になった。その代わり、僕に一切見向きもしなくなった。
それから僕は、両親の小間使いになった。何か気に入らないことがあると癇癪を起して僕を殴る父を、母はうっとりと見つめていた。僕は何でもした。買い物、家事、雑用。すべて指示通りこなした。それでも母は僕を見てくれなかった。
父は、母以上に煙草臭のきつい男だった。酒を飲むと僕の服を脱がせ、体に煙草を押しあてた。
「いいか雅治。お前の名前は、オレのホスト時代の名前から取られてる。オレのために生まれたガキなんだとよ。オレとの絆を断ち切られないように、あの女が無理やり生んだ、オレのための首輪なんだ」
「え」
ある日父がそう言った。母の店から高いシャンパンをもらってきて、それを飲んでいた時だった。
「だからオレは、利用してやることにしたんだ。お前の母親は、オレにとっての都合のいい駒でしかないんだ。あいつはオレの駒でしかないバカな女なんだよ」
――――――僕の心の中の何かが、ガラガラと音を立てて壊れた。
僕は母が好きだった。生まれてから父が来るまでずっと、母は僕に笑顔を向けてくれていた。
でも母は父が好きなのだ。好きで好きでたまらないのだ。父のために生きていると言っても過言ではない。
なのに――――――この男は、母を貶めた。
「だからよぉ雅治。お前もせいぜいオレのために尽くせよ? あのバカ女がre:bornで死んだらさ、お前が代わりをしなきゃなんねえんだからよ」
そう言って隣の部屋に行った父は、激しく母と愛し合った。
いつも扉を開いて、あえて僕に見せつけるようにしていた。
嫌だった。それがどういう行為なのか、当時の僕はわからなかったが、気持ち悪くて仕方なかった。心の底から嫌悪していた。
それなのに、母は死ぬほど嬉しそうだった。
――――――気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
母は水商売で稼いだ金を父に貢ぐ。欲を満たしてくれる。愛をくれる。そう思い込んでいるだけの馬鹿な女だった。父にとっては死ぬほど都合のいい存在だったことだろう。
許せなかった。
母を守らなくてはならない。あの男から母を守らなければならない。母を取り戻さなければならない。
僕は、母に振り向いてほしかった。もう一度、笑いかけて欲しかった。嘘でもいい。父親の代わりでもいい。僕ではない雅になってもいい。
父親がいなければ、もう一度振り向いてくれると思った。雅を治めるための道具ではなく―――雅の鏡写しではなく、本物になりたかった。
いつものように酔いつぶれていたところを、父親が大切に取っていた酒の瓶で殴って殺した。まだ息があったから、吸殻だらけのガラスの灰皿で何度も殴った。
父はとてもあっけなく死んだ。
しばらくして母が帰ってきた。僕は母に泣いて縋った。父親が殺そうとしてきたから殴り返したら死んだと言った。そしたら母は、父の死体の前で崩れ落ちた。
そして――――――にっこりと笑って、「ご飯、買ってきて」と言った。
嬉しかった。やっと、僕を、見てくれたのだ。
弁当を買ってくると、母は首を吊って死んでいた。
床に酒を撒き、煙草で火を付けたらしい。炎が、部屋中を焼いていた。
――――――炎が、すべてを消していく。
辛い日々も、憎い父親も、そして大好きな母も消えていく。
母は結局、最初から最後まで自分を見てくれなかった。
でも炎は、僕の犯行を消し去った。
なぜ最後に、母は火を放ったのだろう。なぜ最後に、すべてを消そうとしたのだろう。
僕にはわからない。
ただ僕は――――――本物になれる機会を、永遠に失ってしまった。
茫然と、炎を見続けていた。
「なんて……心底、気持ち悪いんだろう」




