5 導きの日 ~六月六日~
【2060年6月6日】
――――――部屋に置かれた羊の時計の針が、休むことなく時を刻み続けている。
昂大は何も手に付かず、重々しい空気のまま過ごしていた。
――――――敵とは、誰なんだ。
臨起の完全な適合者、などと言われてもまるで実感が湧かないし、臨起が何なのかさえもわからない状態で、敵が来ると言われてもわからない。
万屋が教えてくれない理由は、自分を大切にしてくれているからだと雪は言う。それもあまりよくわからない。
――――――考えれば考えるほど、昂大は虚無感に苛まれる。
殺す。殺すとは何だ。誰を殺せばいいのか。次は一体誰を殺せばいいのか。
指示を―――指示が無いとわからない。指示がないのに、人を殺したくはない。
「違う……おれは、やっぱり」
気づけば学校に来ていた。誰もいない休日の教室で、窓からグラウンドを眺めている。時刻はとっくに十六時を回っていた。
「昂大君」
「……雪」
「やっぱ来たんだ。来ると思ってたけど」
「うん」
雪は苦笑し、昂大の横に座った。
「……雪はどうすんだよ」
「私はグラウンドに君が来ないよう見張ってろって言われちゃった。来たら家に連れて帰れって」
窓からオレンジ色に変わりかけている西日が差し込み、二人の机を明るく照らしていた。グラウンドではいくつかの部活が練習を行っている。昂大は自然と野球部の動きを目で追っていた。
「何もしなくていい。これから何が起こっても、君には関係のないこと。誰が来ても、何が起こっても、君はグラウンドに出ちゃだめ」
「……」
昂大はぐったりと机に突っ伏す。顔を窓の外へ向け、ピタリと動かなくなった。
ぐちゃぐちゃな気持ち。こんな感覚になるのは初めてだった。
悪人を指示通り殺してきた自分と、自分の意思で日常を送る自分がせめぎ合っているようだ。どちらが正しいのか、どちらとも正しいのか、どちらも正しくないのか――――――自分は、どうしたいのか。
考えれば考えるほど、よくわからない状況に怒りさえ湧いてくる。自分の向かうべき道を塞いでいるのは、巨大な無知だった。
昂大は動かないまま、雪に問いかける。
「……やっぱ知りたい」
「……」
「臨起とか、敵のこととか知りたい。そうじゃないと、どうすればいいかわからない」
「……わからなくていいんだって。その方がいいの」
「良くないよ」
昂大はのっそりと起き上がると、青色の瞳を細める。
「考えたんだけど、やっぱおれは、おれのことで誰かが傷ついたり、迷惑を被るのは嫌なんだ。それは、嫌なんだ」
「君の命がかかっていてもそう言えるの?」
「うん。誰かが傷つくくらいなら、おれはどうなったっていい」
昂大の視線と薄桃色の視線が交わる。真っ青な視線に耐え切れなくなった雪は、窓の向こうを見た。
「私も詳しいことはわからないんだ。でも吉凶が……〈蒼花幻想機関〉の存在理由が、臨起と深く関わっているらしいの」
「存在理由?」
「〈蒼花幻想機関〉は、裏社会を統治し、裏から社会を動かしている。吉凶はその中で、〈始末屋〉としての役割を果たしてきた。秩序を乱したり、害を為す勢力を粛正することが仕事。まあ、万屋さんは仕事を選んでるらしいけど。臨起は人の心に宿る、不思議な力のこと。機関はそれを制御し、使いこなす人間を求めている。でも、臨起は特別な力だから、そう簡単に扱える人間がいない……」
雪は、自身の心臓を指で指す。
「臨起は心臓に宿っているの。適合する人間は、皆心臓に力を有している。だから君の心臓にも、臨起があるんだよ」
「……全然わからない」
「君の力はまだ目覚めていない。でも、敵と戦えば目覚めるかもしれない」
雪は一呼吸置き、質問する。
「目覚めれば、後戻りはできない。今の日常も君のやりたいことも、何もかも変わってしまうかもしれない。その覚悟はある?」
「……目覚めたらどうなるんだ?」
「君は臨起の完全な適格者。つまり、〈蒼花幻想機関〉の存在理由に必ず振り回される。目覚めれば、機関が君を攫うかもしれない。だから……私たちが代わりに、奪いに来る敵を殺す」
「そんなのだめだ。おれが……おれがやらなきゃ」
おれが殺す。自分の意思。そうしなければならない。自分の意思で人を殺さなければならない。万屋の指示ではなく、自分の意思で。
そうか――――――だから万屋は、あえて強く殺せと言ったのかもしれない。
「……絶対に殺さないとだめなんだ」
「うん。殺さなければ君が死ぬ」
「……おれの命は、別にどうでもいい」
「それは、絶対に私たちが許さないよ」
雪は低く吐き捨て、昂大を強く制した。
「君は吉凶の代表なんだ。私たちは君を生かすために存在している」
「……意味がわからない。なんで雪はそこまでしておれを」
「……それが吉凶の目的だからだよ」
雪は手を離すと、息を吐いて座り直した。
「君はどちらかを選ばなければならない。これから現れる敵を君の意思で殺すか。このまま何も見ずに何も考えずに高校生活を送り続けるか。万屋さんは後者を望んでいるからこそ、君に話をしたくなかったんだよ」
「……」
どちらも―――酷な選択だった。
これまでとは違う、人を殺すことの重み。自分の意思で人を殺すことの辛さは、先日雪を救った時に嫌というほど味わった。
吉凶に来る人たちは皆、心に傷を負っている。恨みやどうにもならない悲しみを抱え、誰かを殺して欲しい理由がある。だからこそ、その人たちの悲しみに報いるために、悪人を殺すことができる。
誰かのために、誰かのために、誰かのために、殺す――――――昂大の責任は、そこにはない。だから、殺せていた。
不意に、グラウンドで動く人波が静止する――――――。
「時間が来た……!」
「えっ……」
グラウンドの奥に見える裏門が開いている。見慣れぬ人物が、一歩ずつ校舎に向かって歩いて来ていた。黒いカソックのような礼装に、重厚なコートを着ている。遠目でわかるほどの存在感で、洗練された立ち振る舞いだ。武器などは何も持たず、ただまっすぐ校舎に向かって進んでいた。
雪は立ち上がり、教室から出て行こうとする。
「ま、待って!」
「私は雅治さんを援護する。君は、絶対に出てこないでね」
雪は振り返ると、昂大に向けて笑いかける。
その笑みは屈託のない、出会った日と同じ美しい笑みだった。晴れやかで、曇りのないあの笑み。遠い、遠い、手の届かない存在に見えた笑み――――――。
だが今は違う。その笑みは、本当に遠くへ行ってしまうのだ。
昂大の心臓が強く脈打つ。
――――――引き戸が閉められる。
昂大は無意識に、立ち上がっていた。




