エピローグ |弟《おまえ》ために
休日の朝。
将人は子どもたちを保育園に送ると、誰もいなくなったリビングでコーラを飲んでいた。
今日は、夕奈も朝から友だちと遊びに行くと言って、誰も家にいない。夕方まで将人一人の時間である。
「……」
将人は虚ろな目で、リビングに持ってきていた写真を眺めていた。昂大に見られてしまった家族の集合写真。楠木家という巨大な魔窟に、関係のない養子の自分が入り込んでいる。その事実を嫌悪した将人は、とうとう写真を握りつぶしてゴミ箱に投げ捨ててしまった。
「何をそんなに憂うことがあるんだ」
リビングに存在感のある黒髪の男が入って来る。体格の良い若い男で、陸上自衛隊の制服を着ていた。
「……全てやろ。俺も、あんたも、楠木家も、全部や」
「いいや。憂うことじゃない。全ては化け物共からお前を守るためだ。仕方のないことだった。理不尽な目に遭わせた償いとして、私がお前の世界を作る。全ては因果で結ばれている」
男は将人の目前で、曇りのない笑顔を向けてくる。将人は鋭く睨み返した。
「因果やと? ふざけんな。俺の両親を殺しておいて……!」
「それは、お前があの二人に影響され、俺との約束を放棄したからだ。お前はあの二人に影響されすぎた」
「くっ……そんな、こと……」
「逆に聞く。二人が消えなければ、お前はどうなっていた? 腐ったこの世界のシミとして、お前は偽善という名の毒沼に浸り、何者にも成れぬまま朽ちていっただけだ」
「っ!」
「お前がこの薄汚い家と共に朽ち果てるようなことがあってみろ……私がこの家族ごっこを終わらせる。そうなれば、お前を慕う子どもたちは皆、元の施設へ送り返される。いや、処分されるかもしれない」
怒りで我を忘れた将人は、男の胸倉を掴んで怒鳴りつける。
「ふざけんな!! あの子らは、楠木家……第一席がやってたクソみたいな実験の被害者やろうが! お前らのせいで……親もおらんで……どんだけの所業をしたと思ってんねん!」
「そうだ。だからお前の偽親は子どもたちを育てていた。私の命令でな。それが間違いだったと、お前は言うのか?」
「違う……間違いなわけないやろ……両親は立派な人やった。楠木家で唯一良心があった。でも、それをあんたは利用したんや」
将人は歯を食いしばり、ゆっくりと胸倉から手を離す。男は制服を整えると、ポケットから一枚の紙を取り出した。
「将人。お前はよくやってくれている。悲しみも苦しみも、もうすぐ終わる。お前には引き続き、救世の少年の監視、及び計画の調整の任についてもらうぞ」
「昂大は……どうなるねん」
「昂大? ああ、救世の少年の名か? どうなるも何も、もうじき儀式が始まり、臨起が覚醒する。それだけだ」
将人は苦笑し、メモ書きを破り捨てた。
「昂大を利用して殺すんか? 俺の両親みたいに。ふざけんな。そんなことさせへんぞ。絶対!」
男はその言葉に、将人の前にある机に向かって足を振り上げると――――――踵落としで粉砕した。
大きな破壊音と衝撃が、将人の意識に恐怖を植えつける。
「……将人。同情か? それとも憐れんでいるのか? 俺たちの約束は、そんなにちっぽけなものなのか?」
「違う! そういうわけとちゃう……」
「なら、俺の言うことを聞いてくれるな? 優しくて聡明なお前なら、わかるはずだ」
男は柔和にほほ笑むと、将人を優しく抱きしめた。将人は、その優しいぬくもりと兄の匂いに、全身を強張らせた。
「大丈夫。俺に任せろ。万事、上手くいく」
「……俺は、何をしたらええの。何をするのが答えか、もうわからへん」
「俺の言葉だけを信じたらいい。俺の言葉だけが、お前の幸せに繋がる。お前の幸せだけが、俺の望みだ」
将人は酷く乾いた笑みを浮かべ、全身の力を抜いた。
「……もうどうでもええ」
そう言った将人の肩を、男はがっしり掴む。
化け物に命を握られているような感覚だった。だから何をしても無駄だと思った。
「将人。俺は楽園を手に入れる。何があっても、必ず手に入れる」
「……やめて」
「弟ために」
「……っ」
将人はキッチンの流しに、先ほど食べた朝食を吐き出した。
男は嗚咽の止まらない将人の背中を、優しく擦る。
「私は必ず約束を守る。お前と交わした約束を、必ず守る」
「……もうええ。もう、俺は望んでないねん。これ以上もう、やめてくれ。昔のあんたに、戻ってくれや、兄ちゃん」
涙を流しながら口元を拭った将人は、憎悪の眼差しで男を見つめる。
その顔を、真っ黒に澱んだ瞳で見下した男は、口元を歪ませていく。
「大丈夫だ将人。私たちの絆は、決して崩れはしないさ」
その顔は、獰猛な獣のようであり、慈愛に満ちた聖人のようでもあった。
男が帰った後、将人はリビングで蹲っていた。止まらない恐怖と悲しみに震え、ゴミ箱の中にもう一度吐いてしまった。
――――――兄を化け物にしてしまったのは、自分だった。あの男が世界に存在している理由は、将人自身なのだから。
「ごめん。兄ちゃん。ごめん……」
深く深く、深淵へ向かう男の背中を、将人はいつだって見つめることしかできなかった。




