32 定食屋の看板娘
アンズが紙問屋の嫁に迎えられて、シキについて同業や取引先へのあいさつ回りに向かった。
「あら、アンズさん」
そう声をかけて出てくる女将や若女将たちは例のお茶会の参加者たちばかりだ。
「あら?言ってなかったかしら?」
とぼける義母シキに文句を言えようもなく、アンズは数日かけてあいさつ回りをした。
そして、厨房の管理と毎食の小鉢1品を添える。
まずは使用人たちと仕事の合間に話をし、故郷の料理の話を聞く。
時期にしか食べられないモノ、都に来てからも無性に食べたくなるもの、そんな話を聞いて、アンズは献立に取り入れられないかと考える。
遠く離れた故郷が恋しい使用人たちはアンズの手で再現された料理を一口食べて、懐かしさのあまり涙ぐむのであった。
婚礼から1か月。
約束通り、定食屋での常連へのお披露目会を行った。
常連客、饅頭屋のおばちゃん、父ちゃん、兄ちゃん、義父センと義母シキと集まった。
アンズは給仕をしない。
その代わりに、小さい子どもを背に給仕する女性に参加者の視線が惹きつけられた。
その人は化粧をほとんどしていないけど、とても美人だからだ。
彼女はコウの兄貴分トカの妻キラだ。
背中の子どもは娘のミラ。
アンズが抜けた代わりにキラとミラが定食屋の看板娘になったばかりだ。
「よう、コウ」
「兄さん。お元気そうで」
「なんとかやってるよ。借りた金、ちゃんと返すからもう少し待っててくれ」
トカの優しい視線は店中を動き回る妻と背中で愛想を売ってご満悦な娘に注がれている。
トカは揉め事の事情を聞いた父親が戻ってきていいと言ったのを突っぱねた。
「今戻ったらまた放蕩に戻るかもしれねぇから。いずれ戻るにしても今は女房と子どもと3人で自活させてくれ」
トカの両親が目を丸くして、それならと言って代わりに仕事を紹介してくれた。
それが、各地からの荷物をそれぞれの行き先に振り分ける仕事だった。
体も使う、頭も使う、帳簿の管理もすると放蕩で間の抜けた頭と体には随分きつい仕事だが、だんだんと体が追い付いてきた。
仕事のあとキラとミラを迎えに定食屋にやってきて、一緒に飯を食って帰る、1日がそうやって回るようになった。
トカが親の後を継ぐかはまだ決めていない。
元酒場の女で、ヤクザ者との揉め事の原因になったキラが妻なことに眉をひそめる親戚筋もいるだろう。
であれば、アンズより少し若い2人の妹のどちらかに婿を取らせて、後を継いでもらってもいいとさえ思っている。
そのくらい荷物の振り分けの仕事はトカの性格にあっていたし、妻と娘との生活が幸せなのだ。
トカは隣で穏やかに微笑むコウの肩に腕を回した。
「兄さん…?」
「いい定食屋だよな、ここは」
「清潔だし、美味いし、常連も気持ちのいい人ばかりですからね」
「ああ、そうだな」
それだけじゃねえだろ、と思いながらもトカはコウの肩を叩いた。
コウの放蕩が治ったのも、トカの荒んだ生活が上向いたのもこの定食屋との出会いがあったからだ。
この定食屋はこの先、誰をどんなふうに癒すのかね、そんなことをトカは思った。
今日だけアンズとコウのお披露目会と言うこともあり、特別に酒が持ち込まれることになった。
せっかくだから、それぞれが美味しいと思うものを持って行こうと言い出したのはコウの父センだった。
「だって、そら豆の塩ゆでに一番合うお酒で楽しみたいんだよ」
とどこまでも自分の都合とそら豆を優先した結果だった。
コウは店の常連に「これが一番合う」と言われた酒とフキノトウ味噌を合わせたのだった。
酒の甘さと味噌の香ばしさ、フキノトウの苦みすべてが口の中で一体になった。
「これは…美味いですね…」
「だろう?」
「俺らからの祝い酒だ」
「約束果たせたな」
それは以前の約束。
フキノトウに合う酒がわからないと言ったコウに対する約束だ。
ふわりと漂った香りにコウは定食屋を見渡した。
酔っぱらってこの定食屋に転がり込んだあの日、それまではコウは生きているか死んでいるかよくわからなかった。
この定食屋で手づかみにした角煮、目が覚めた豆腐の和え物、支払いに金貨を出して翌日の昼過ぎに清算に来た時に食べたトマトと卵の炒め物。
他の食べ物もそうだけど、この定食屋にはとにかく『美味しい』があふれていた。
あの日、『美味しい』と思えてよかった。
放蕩を辞めた理由が「美味しいご飯を食べたから」なんて今でも冗談のように同業者の中で言われるけど、それがコウにとってはたった一つの真実だ。
「コウさん?」
「アンズさん、美味しいですね」
コウの美味しいにアンズは嬉しそうにほほ笑んだ。




