28 いらっしゃい
定食屋を出る前にアンズは改めて定食屋を見渡した。
布がかかっているせいでよく見えないけれど、この定食屋のことは隅々までよくわかる。
「アンズ行きましょう」
「母ちゃん、今までありがとうね。この定食屋のこと、大好きだよ」
アンズの言葉にシイカは目元を抑える。
昨夜、アンズが今まで書き溜めた小鉢料理帖をシイカに渡した。
キレイに書き写して、これから店の手伝いに来る女たちにもわかりやすいように、材料も量も手順もキレイに書いてあった。
「いっぱい作ったわね」
「うん…」
「お客さんたちが『美味しい』って言っていた姿を思い出す…」
「うん…母ちゃんと板前さんがちゃんと味を見てくれたからだよ」
シイカが1枚ずつめくれば、誰が何を好きで、どんな顔で美味しいって言っていたかわかる料理ばかりだ。
材料も調味料も普通に市場で手にはいるものばかり。
手間暇かけず、作り置きができて、時間が経つほど味がなじんで深みのでる料理。
この小鉢たちに定食屋が支えられてきたって言っても過言ではない。
「たまには寄りなさい」
シイカは涙をこぼす。
嫁に行く娘を祝福しながらも、やはり、嫁に行かれてしまうのは寂しい。
「時々手伝いにきていい?」
「…時々なら」
シイカの言葉にアンズは布の下でほほ笑む。
そして、定食屋に向かってお礼の意味を込めて「また来ます」とお辞儀をした。
定食屋から一歩踏み出したアンズに近所の人や常連たちが拍手と歓声を送った。
「幸せになれよ!」という誰かの声に応えるように次々と祝いの言葉が贈られる。
馬車に乗るときに父シュレンがアンズに手を添えた。
「父ちゃん…」
「なんだ」
「今までありがとう」
アンズの言葉にシュレンの目に涙がたまった。
父として何をできたか?
多分、何もできていない。
ほとんど家におらず、宮廷で皇帝として立っていた日々。
アンズが生まれたときも、初めて言葉を話した時も、立った日も、自分は宮廷にいた。
「父親として何もしていないだろう」
「ううん、父ちゃんが皇帝だったから私はちゃんとお嫁に行けるんだよ」
シュレンは胸をつかれる。
20年余りの治世、世間で評されるように、民を見て、民に寄り添った皇帝というのは嘘だ。
市井に生きる妻が息子が娘がちゃんと人として尊厳をもって生きられること。
それだけのためにシュレンの治世はあった。
だから、アンズは生き延びられた。
読み書き計算できるし、過去の皇帝の治世のように飢えず、食べるために体を売らずにすんだ。
定食屋の看板娘としてあり、今日嫁に行く。
「…苦労を掛けたな。幸せになるんだぞ」
「父ちゃんも。ちゃんと幸せになるんだよ」
「ああ」
シュレンの目に涙が光る。
アンズは馬車に乗り込み、準備された椅子に座る。
シイカが裾周りを整えて、アンズは視線をあげた。
布がかかったアンズは誰がいるのか声で確認するしかないし、集まった人たちもアンズの表情は見えない。
ただ静かに集まった人たちに向かって、アンズは礼をしたのであった。
ギシッ、ガタンと音を立てて馬車は動き始めた。
馬車はゆっくりと街を進んでいく。
「花嫁さんよ」
「きれいねぇ」
「幸せにな」
行きかう人々の声がぽつぽつとアンズの耳に届く。
「父ちゃん、わたしも早く花嫁さんになりたい」
沿道から無邪気な声がアンズの耳に聞こえてきて、アンズは幼い日を思い出した。
幼いアンズが花嫁さんを見たとき、母ちゃんや兄ちゃんと一緒で、父ちゃんとは一緒にいなかった。
母ちゃんはアンズが「早く花嫁さんになりたい」って言えば、そっと頭を撫でてくれた。
兄ちゃんは「美味い飯作れなきゃ花嫁になれない」って言った。
普通の父ちゃんはなんて言うんだろうとアンズは耳を澄ましたが、その子の父親の声が聞こえてこなかった。
「…もう!何今から泣いてんのよ!あと10年以上も先よ!」
代わりに聞こえてきたのは、妻の呆れた声だろうか。
「あ~!嫁行かないで!ずっと父ちゃんの娘でいて!」
「やだー!キレイな花嫁さんになる!!」
泣き縋る父親に対して、きっと娘は目をキラキラさせて花嫁衣裳を着たアンズを見つめて、いつかの嫁入りの日を思い描いている。
周囲からは笑い声があがり、アンズも布の下で笑った。
どれくらいの時間が過ぎたか、たくさんの祝福を通り過ぎて、馬車がゆっくり止まったのを合図にアンズが降りる準備の音がする。
「ほら、コウ!アンズちゃんをお迎えしなさい!」
せっつくシキの声が聞こえ、アンズは布の下でクスリと笑う。
「アンズさん。手を」
手をあげればその手をしっかりとコウが掴んでくれて、馬車を降りるように導いてくれた。
馬車から地面におりて、コウは手をそっと握りなおした。
「アンズさん、いらっしゃい」
その声にアンズはコウに向かって視線をあげた。
布が遮っているが、コウと視線が合うのがわかった。
「アンズさん?」
「今日はコウさんが『いらっしゃい』って」
「そうですね。もう、アンズさんの『いらっしゃい』が聞けないですね。『またお待ちしてます」も」
それは2人にとってさびしいという感情を沸き上がらせた。
「コウさんの『また来ます』も…」
「でも、『美味しい』は言えますよ」
アンズはコウの手をきゅっと握りしめる。
一番聞きたい言葉が聞けるのが嬉しい。
「あの…これからは、『おはよう』って言えますね」
「え…?あ、そうですね…そうか、自分も『おはよう』って言いますね」
花嫁と何やらはなし、明らかに動揺して真っ赤になった新郎への家族や使用人、集まった人々の視線が生温かかった。




