存在保証
いらっしゃいませ。
(二束三文とはまさにこのこと)
我々神々にとって、懐疑的であることは不要な論理である。
疑いとは、低知能が齎す読解力及び理解力の欠如と認知機能の不完全性による認知障害でしかないからだ。
未知への探究による懐疑からの脱却の行方は、単に神学や科学などの妄信でしかない。
しかし、それこそが知的生命体たる所以である。
疑心と妄信による概念の獲得こそが社会形成と文明の発展を齎すのである。
不完全な認知機能による事象の観測は、事実関係を見落とし、情報量の不足を招いた状態で補完的に行われる。個体別の理解可能な範囲で行われる事実関係を無視した飛躍的推論こそを人類は想像力と呼ぶ。
概念の獲得には、一見して理解に苦しむ別個体が必要である。
知的生命体に必要な必須の条件とは、無知蒙昧な個体と観測可能個体の共同秩序であろう。
認知不完全な事象を理解可能な形に歪める行為を知的と定義すれば、我々神々は知的生命とは呼べず、我々神々を知的生命体などという不完全な存在定義に当て嵌めることは定義の変更が必要となる。
我々神々は疑いようのない事実しか認知出来ない存在である。
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自壊可能な特性は神々の備えぬ唯一の特性である。
それこそが神と知的生命体の差である。
不完全性を取り込んだ神々であれば知的生命体の模倣など容易い。神の過ちこそ、神たることの否定。
低位の神であれば尚のこと。
宇宙による概念の保存に充てられた我々こそが知的生命体の全てを完全に有した存在である。
不完全性の総合獲得は、思考を強制する。
観測事象の見落としこそが思考の源流であり、神であるが故に存在矛盾が生じて存在負荷に繋がっていく。
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「神を崇めなさい」
その教えそのものに抗おうなどという人間はいない。
しかし、「その神を崇めることは出来ない」と批判することはできる。
神の否定も同様に可能だが、神への扱い方そのものは同時多発的に類似しているばかりか、信仰、供物、生贄、祀り、封印、護符、医療、戦争など。凡ゆる面で似通っている。
「神の存在証明」こそは出来ないが、「神の存在保証」は可能ではないか?神への携わり方の一致こそが、神の存在を保証するものである。毒性を持つ植物の扱い方が世界で似通っていることも同様である。
「神の存在証明」と「神の存在否定」にはどちらも神への扱い方の論法に過ぎず、そもそも概念として存在するならば、立証する必要はない。在ることの証明は「議論できる」事で証明可能であって、「有る」ことの証明は観測可能性で証明出来る。
よって神を崇める行為の是非も同様であり、その対象として神が相応しいとする議論も同様である。
数字の1や0が便宜上の言葉であるにも関わらず数学で絶対的地位を確立しているように、神学に於いて神は絶対的地位を確立しているに過ぎず、科学に於いて再現性が神格化されているに過ぎない。
人間の知性が“一律に物事を考える”ことを可能にした弊害は、不毛な議論による時間浪費であって、それらを後世から眺めた時に歴史的背景と呼称しこれまた現代で一律に思案されることになるのである。
事象の否定と肯定の論理体系的議論は普遍的価値の発見を目指すものでなければならない。
我々は人類の未来のために人類は発展してきた。
その礎となるのだから、やはり「神を崇めなさい」
お疲れ様でした。
作者の独り言。
(我々は見たこともない存在や概念を共通認識として植え付けられている。それは、“神”然り“魔法”然り“悪魔”然り。
もっと他に“行ったことのない地域の料理”の存在を我々は疑わない。中国で石を料理し、氷を揚げるなどと聞いても今更驚かないだろう。それは、実際には見たことは無いが、概念として認知しているからこそ受け入れ可能である。同様に魔法や異世界も同じこと。現実に存在するか否かは重要では無い。現実に見なくても存在するかのような扱い方を伝播すれば存在証明を必要としなくなるということ。
アニメや漫画、小説や聖書などに“神の奇跡”や“別世界”が描かれている。そしてこれこそが存在証明を必要としない理由である。)




