少女の正体
ベアトリーチェは逃げるように自室まで駆けた。
実際逃げていた。
屋敷に入ってからは使用人に会うかもしれないから速度を落とし、顔に笑顔を貼り付けて足早に自室へ滑り込んだ。
緻密に編まれたレースのショールを掴み、ソファの端に膝を抱えるように座り頭からそのショールをかぶった。丸めた体をすっぽりと隠すほどの大判のショールの中でベアトリーチェはホッと息をついた。
あの黒の貴族。
上質な黒地の礼服なんて高価なものを身につけていた。確実に地位の高い人間だ。公国の人間ではないなら、もしかすると、たぶん、おそらく、イーゼンブルク侯爵かもしれない。
背を向けて逃げ出すなどという、かなり失礼な真似をしたが後悔しても遅い。やってしまった。
だって屋敷の人間以外に会ったのは初めてだったし、あのまま残れば正体を明かすまで詰められただろう。
想定と実践は違うのだ、と勉強になった。
あの状況でも『公女』だと告げる気は一切なかった。
父に、義母に、「その日まで絶対に言うな」と念を押されたから。
全ては明日のため。
『使い勝手のいい高貴な血筋をもつ庶子』を最高の演出でお披露目し公国安定の駒とするためだ。
-18年前
ベアトリーチェの実の母ルシアは、トスカ公爵夫人に仕える侍女だった。
貧しい子爵家から出てきた若く美しい娘。
公爵夫人が第一子を身籠っていたとき、トスカ公はルシアに手を出した。そしてルシアは子を身籠った。
当然、公爵夫人はそれを許すはずもなくルシアを屋敷から追い出し子爵家へ送り返した。
子爵家としても公爵夫人の実家からの圧力を考えると受け入れるわけにもいかず、田舎の小さな家に1人追いやった。
公爵夫人が嫡男を出産して数ヶ月後、ルシアも女児を出産したが、運悪く命を落とした。
子爵家は残された子を孤児院にいれようとしたが、すぐに思いとどまった。
そのまま生まれたばかりの赤子を抱きかかえ、公爵家の門を叩いた。
普通ならありえない話だ。
だが、トスカ公は一目その赤子を見てすぐに受け入れた。
子爵家に多額の報奨金まで与えた。
公爵夫人でさえ、屈辱の象徴である私生児を受け入れた。長男を出産した際かなりの難産で生死を彷徨い、2人目は望めないと言われていたから。
そして、
その私生児は、淡い金髪にエメラルドの瞳だったから。
それはトスカ公国公爵家のみが受け継ぐ証だった。
しかし公爵夫人の息子にはエメラルドの瞳が受け継がれなかった。
全員がその特徴を持って生まれるわけではない。トスカ公もエメラルドの瞳は持っておらず、先代公爵以来だった。
ルシアの産んだ子が男児であればすぐさま殺されていただろう。
だが、幸か不幸か女児だった。
トスカ公は当然、「使える」と思った。
時世は混乱の時代であった。グロリア王国が周辺国を侵攻し始め大陸全体に不安が満ちていた。
公国の公女。
私生児だが公爵家と子爵家の血を引き、さらにトスカ公国特有の淡い金髪にエメラルドの瞳を持っている娘。
これほど外交に使える駒はいない。
いざとなれば人質にでもできよう。
公爵夫人も同意見だった。
トスカ公はその赤子を幸せをもたらす者という意味をもつ『ベアトリーチェ』と名付けた。
しかしこの特徴を周囲に知らしめるのは面白くなかった。たかだか私生児の分際で大きな顔をされては困る。
だから体が弱い、ともっともらしい理由をつけて外には出さず、全てを管理して「高級な外交商品」として育てた。
グロリア王国が周辺国を侵攻し始めてから十数年、
ベアトリーチェが12歳のときトスカ公国はグロリア王国が攻めてくる前に降伏。
グロリア帝国となり、トスカ公は大陸の皇帝にベアトリーチェを献上しようと考えた。
しかし、時期ではないと考え直した。
ベアトリーチェは美しかった。
12歳でこれほどならば年頃にはどうなっているか。
トスカ公国は属国となったため、帝国に属するが国としての統治が認められている。
ちょうど5年度、ベアトリーチェが17の年に公国建国300年を迎える。
記念祭に乗じて公国の至宝として紹介すれば、ベアトリーチェの姿を見たことのない公国の民は驚きそして帝国の人間はその瞳の希少さに気づき手に入れようとするだろう。
この美貌は武器になる。
帝国と国境を接する公国として、これほどいい使い道はない。私生児であれば帝国の子爵夫人あたりが妥当だが、伯爵さえも狙えると考えていた。
そしてベアトリーチェ17歳。
公爵の想定どおり、いやそれ以上に
ベアトリーチェは美しく成長した。
全ては国の安定のため。
毎日毎日繰り返し聞かされてきた。
自分の存在はただの政治の道具でしかないと、幼い頃から理解している。
愛情なんてものを感じることはなく、「大切な商品」として厳しく教育され磨き上げられてきた。
従順で、聡明で、美しく。
いつでも微笑みを絶やさず、心を見せないように。
完璧なはずだった。
だが、裏庭でイレギュラーな出会いが起き、心が少し乱れた。
「油断してはだめよ。気を引き締めなさいベアトリーチェ。」
ショールの中で、自分に言い聞かせた。
明日、自分の運命が決まる。




