心を寄せる①
執事長ヴァルターは耳を疑った。
「…ベアトリーチェ様が、いない…?」
若いメイドのミラは真っ青な顔をして激しく頷く。
「便箋を持ってきて欲しいと言われて部屋を離れたんですっ!お部屋にもどったらどこにも…!」
「散歩に行かれているとか…」
「お部屋の近くにいたアンナやエマには『1人で少し歩く』と言って部屋から出て行かれたようなのですが、その後誰も見ていないというんです!」
「…。」
ヴァルターは主が以前言っていたことをふと思い出した。『逃げるかもしれない』と。
我が主人ながら一体何を言っているんだと思ったが、まさか、本当に。
「全員、作業を一旦中止し捜索に当たりなさい。」
屋敷中大騒ぎになった。
当然、ヴァルターが執務室に行く前にアルフォンスにも騒々しさが伝わる。
「一体どうした。」
ヴァルターからの報告を受けアルフォンスは書類に落としていた視線をぱっと上げる。眉間の皺が深い。
「……私も行く。」
椅子から立ち上がり自らベアトリーチェ捜索へと加わった。
一方ベアトリーチェは温室の隅の道具棚と大きな植木鉢の間に挟まって、頭からショールを被り膝を抱えて1人考え込んでいた。
(おちつく…)
背中、両横を壁に守られショールによって視界が薄ぼんやりと遮られ、程よく暖かく静かで大変居心地が良かった。
侯爵邸に来て今日で3日。明日はいよいよ結婚式で、こんなところで蹲っている場合では無いのだがベアトリーチェはどうしても1人になりたかった。
侯爵家の使用人は皆とても親切だ。私生児の侯爵夫人ということで多少奇異な目でみられるかと覚悟していたが、そんなことは一切なかった。
婚約中の4ヶ月、トスカ公国の使用人たちは態度を改め皆親切ではあったが『帝国の侯爵夫人』に擦り寄る為であると感じていた。
(皆、本当に親切で心から歓迎してくれるのは分かる。でも、少し、疲れた)
これまでベアトリーチェは1人の時間がとにかく長かった。だから帝国に来て、寝ている時以外常に人がそばにいて世話をやかれるという環境に少々疲れていた。
そしてアルフォンスも忙しく、なかなか話す時間が取れなかった。昨日の夕食時、やっとゆっくり顔を見て話が出来るかと思ったら給仕やシェフたちの熱い視線をひしひしと感じて話すどころでも味わうどころでもなかった。常に見られている。
「部屋まで送ろう」と言われてベアトリーチェはホッとした。アルフォンス相手にホッとするなど公国にいた時には考えられない感情だったがこの時ばかりは2人になれて安心したのだ。
だがすぐに打ち砕かれた。
ベアトリーチェの部屋の前、別れ際に
「ビーチェ」と低く甘い声で囁かれた。
ビーチェ、なんて今まで誰にも呼ばれたことない。
腰に手を添えて、髪の毛先にキスを落とし、優しく微笑みながら「おやすみ」なんて、もう無理だった。
公国での最後の夜、唇に触れそうになった熱を思い出し、心臓が爆発しそうだった。
思い出した今も胸が苦しくて死にそうだ。
とにかく今は1人になりたかった。
1人で自分と向き合い、気持ちを整理して、明日の結婚式を滞りなく終えなければ。
でも答えが出ない。侯爵夫人としての完璧な仮面をかぶってはみたが、これをあと何十年もできるだろうか。絶対にどこかで無理が生じて剥がれ落ちるだろう。こんな弱々しい自分を曝け出すのは勇気がいる。
アルフォンスに、幻滅されたくなかった。
また逃げたと思われたかもしれない。
でも彼なら、弱い姿も受け入れてくれるだろうとも心の奥では感じていた。
なんだか無性に会いたいな、と思ってしまった。
キィ、と温室の扉が静かに開く音がする。
ベアトリーチェは身構えた。
まさかここにいることがバレたのか、こんなところで小さく膝を抱えて挟まっているところを見られたらなんと弁明したらいいのか、どうしよう、とぎゅっとショールの端を握りしめた。
コツ、コツ、とゆっくりと足音が近づく。
だがベアトリーチェの元までは近づいてこなかった。
その人は、少し離れたテーブルに近づき椅子に腰掛ける。ベアトリーチェに気づいていないのだろうか、何も話しかけてこなかった。
(侯爵だ…)
ショールの隙間から覗くと、アルフォンスが足を組んで椅子にゆったりと座っていた。視線はベアトリーチェには向けずにどこか違うところを見ている。
だが、ベアトリーチェがいることには気づいているようだった。
「……。」
「……。」
ベアトリーチェはじっとアルフォンスを見つめた。
アルフォンスはただただ、じっと待っていた。
「……。」
「……。」
瞳が、見たいなと思った。
こっちをみてほしいな、と思ってしまった。
ベアトリーチェはゆっくり立ち上がり、頭からショールを被り目だけ出した状態でじりじり近づいた。
まだ目は合わない。
もう少し、近づく。
まだ。
もう少し。あと、5歩というところでアルフォンスがベアトリーチェにゆっくりと視線を向ける。
「…もう、いいのか?」
考えがまとまらないのでよくはないのだが、つい、出てきてしまったのだ。ベアトリーチェはそのまま少し俯いた。アルフォンスは立ち上がり、なるべくゆっくりと近づく。
「無理をさせてしまったな。皆、君に喜んで欲しかったのだろうが…すまない。」
元はと言えばアルフォンスの言葉が足りないせいでこんな事になったのだが、執事長しか知らない事実である。
「顔を、みせてほしい」
「…。」
ベアトリーチェはエメラルドの瞳をちらりと一瞬だけアルフォンスに向け、ショールを首元までおろした。
アルフォンスの大きな手が、優しく目元を撫でる。
「あまり眠れていないな。」
眠れていないのは昨日の貴方のせいなのですが、とは言えなかった。
「どうして、ここがわかったんですか?」
「…扉が少し開いていた。」
「…逃げたわけじゃ、ないです。」
「分かっている。」
「少し、1人になりたくて。」
「あぁ。」
アルフォンスは優しく頬を撫で続けた。
ベアトリーチェの胸の奥がじんわりと暖かくなった。
「こうなる前に、俺を頼って欲しい」とアルフォンスは言いたかった。だがおそらく昨日愛称で呼んでしまったことも関係していると思い、心の中に留めた。
まだベアトリーチェが心を預けられるほど自分を信用していないのだろうと、少し胸が痛んだ気がした。
「…戻れそうか?」
「…はい。」
アルフォンスは一つ頷き、ベアトリーチェの髪をそっと撫でて温室の扉へと向かう。
ベアトリーチェは、アルフォンスの手をとった。
無意識に手がのび、ベアトリーチェの小さな手がアルフォンスの手をきゅっと握る。
アルフォンスが驚いてベアトリーチェを見ると、ベアトリーチェも驚いた顔をしていた。
自分が咄嗟にした行動に驚いたベアトリーチェは、手を離そうとした。しかしアルフォンスはしっかりと握り返した。
「…行こう。」
ベアトリーチェは無言で頷き、ついていく。
繋がれた手に少し力を入れると、お互いの体温が伝わり少し緊張した。
温室から出ると冷たい風が葉を揺らし、ベアトリーチェの肩にかけられていたショールがふわりと舞う。
慌てて片手で押さえたが、薄く軽いショールは風に弄ばれベアトリーチェの顔にふわっとかかった。
慌てるベアトリーチェがなんだか可愛くて、そんな状況でも手を離さないのが愛おしい。アルフォンスはショールを顔からよけてあげた。
ショールの下からは、頬を赤らめ恥ずかしそうな、照れたような、少しはにかんだ顔がのぞく。
気づけば、口づけをしていた。
「…すまない。」
悪いことをしてしまった気がして咄嗟に謝る。
ベアトリーチェは最初何が起きたか理解できなかった。唇に残る熱がじわじわと全身を犯す。
この4ヶ月ずっと心の奥で想像していたことが現実となり、胸の鼓動が早くなる。
この瞬間を私は待ち望んでいたのではないか、と思った。
「…どうして、謝るのですか。」
「また、君の気持ちを考えていなかった。」
「…私は貴方が好きなのに、謝られたら困ります。」
アルフォンスは目を見開いて固まっている。
ベアトリーチェはハッとした。今私は何を口走ったのか。繋いでいた手を勢いよく離し、顔を隠すためにショールを頭から被った。
謝られたら困るって、なんだ。口付けされて嬉しいって言ってるようなものだ、と悶々とし、顔の前でショールを固く握りしめた。
「ベアトリーチェ」
優しい声が聞こえる。
「ベアトリーチェ」
もう一度、呼ばれる。
ショールを握りしめている手を暖かい手が包み込む。
握り込んだ指を一本ずつほぐされていく。
「俺は君のことが好きだから…もう一度、君に口付けしたい。」
ショールの間からベアトリーチェの顔が現れる。
頬は真っ赤に染まり、潤んだエメラルドの瞳はいつもよりもキラキラと輝き、朝日に照らされた湖のようだった。
頭からショールを被ったまま、その両端を握りしめるベアトリーチェの手をアルフォンスの大きな手が覆う。
「ビーチェ」
唇に伝わる柔らかな熱。
手から伝わる優しさ。
そっと離れた熱が名残惜しく、自分を見つめる黒い瞳の情愛に満ちた眼差しにベアトリーチェはまた恥ずかしくなり顔を隠した。




