最後の夜
帝国使節団が滞在する最後の夜、公爵邸では大規模な晩餐会が開かれた。
羊や牛をスパイスで焼いたものや鳥のパイ、精巧な砂糖細工などテーブルの上所狭しと置かれ、楽団やオペラ歌手も用意されている。
公国貴族も多く集まり「公女の縁談相手はどうなった?」「侯爵はどうするのだろう」などの噂話でもちきりだった。
「ベアトリーチェ公女様、並びにイーゼンブルク侯爵様、ご入来!」
会場が一層ざわめいた。そして一瞬にして静まり返った。
漆黒の軍服に身を包んだ侯爵にエスコートされるベアトリーチェは揃いの漆黒のドレスを見に纏っていた。
見るからに上質な漆黒のベルベットドレスはスカートの裾にいくにつれ銀の繊細な刺繍が施され、きらりと輝く小さな宝石たちが無数に縫い付けられていた。
淡い金髪は普段なら柔らかい印象を与えるが、まるで闇夜に浮かぶ月のように凛と輝いて見える。
人々は一瞬で理解した。
公女はもう、あの帝国の侯爵のものになったのだ、と。
軍服姿の帝国侯爵の威圧感、そしてこの世のものと思えないほどの美貌の公女に誰も声をかけることも近づくこともできない。
奴をのぞいて。
「お似合いですねぇ〜」
ダニエルはいつも通り怯むことなく声をかけた。
「これは今後の期待大です。」
「お前は向こうで他の令嬢達と遊んでいろ。」
「えぇ…」
不満そうではあったが、ダニエルはそれ以上引き下がらず素直に令嬢達の元へと歩いて行った。
それを皮切りにあちらこちらから祝福の声をかけられ、ベアトリーチェはいつものように人形のような愛らしい笑顔で応じた。傍の漆黒の男はいつにも増して眉間の皺が深く不機嫌そうである。
人の波が一瞬途切れた隙を逃さず、「行こう」とアルフォンスはベアトリーチェの手を引いてバルコニーへと向かった。
「こ、侯爵?」
まだ挨拶の途中だ。重要な顔見せだし、抜けるのはよろしくないのでは、とベアトリーチェは思った。
歩みを止めることなく、ただベアトリーチェの歩幅に合わせて少しゆっくりと進む。
バルコニーから外に出ると、空はもう真っ暗で星が無数に輝いていた。
アルフォンスはバルコニーの扉を閉め、シャッとカーテンを閉める。
今日は満月なのだろうか。月明かりが眩しいほどだった。
「…明日、帝国へ戻ったら4ヶ月会えないんだ。時間を無駄にしたくない。」
アルフォンスは2人でいられる貴重な時間を他の人間に奪われるのが嫌だった。その分ベアトリーチェの瞳に自分だけをうつしてほしいという独占欲が顔を出す。
腰に手をそっと回し、ベアトリーチェの頬を撫でる。
月明かりの下、エメラルドの瞳はより神秘的な輝きを増しアルフォンスを見つめていた。
自身の腕の中で侯爵の漆黒の色を纏うベアトリーチェにアルフォンスは満足そうに微笑む。
「似合っている。」
「…ありがとう、ございます。」
アルフォンスの柔らかな微笑みに、ベアトリーチェはくらくらした。以前の意地悪そうな、試すような態度は塵ほどもなくただただ甘い空気を纏っている。
(心臓がもたない)
逃げたくても腰に手を回されている為逃げられない。
いや、逃げないと以前約束したためその選択肢すらない。だが自身に向けられる甘い視線に耐えられなかった。だから瞳だけアルフォンスから逃がしてあげた。
「ベアトリーチェ」
この声の響きには、覚えがある。
ドキリとした。でも恥ずかしくて視線を戻せないのだ。見逃してほしい。
「…もう逃げることは出来ないと言っただろう」
優しく腰に添えられていた手が強くベアトリーチェを引き寄せる。頬を撫でていた手は顎の下に添えられて強制的にアルフォンスと瞳を合わせることになった。
熱の籠った鋭い眼差しに貫かれ、瞳がそらせない。
そっと、下唇をなぞられる。
彼の顔が近づく。唇に熱が、
触れそうで触れなかった。
僅かでも動いたら触れそうな距離でアルフォンスは止まった。自制心が急ブレーキをかけた。
「無理やりは、だめだ」と。
身構えてかたくなっていたベアトリーチェから顔を離し、顔にかかる髪をよけて額に口付ける。
ベアトリーチェの顔は月明かりでも分かるほど赤くなっていた。可愛い。危なかった。今キスをしてしまえば、恥ずかしがって明日の別れの時に目を合わせてもらえなくなるかもしれない。
寸前までしているのだから正直言ってその懸念はあまり意味をなさないのだが、アルフォンスはそう考えていた。
「続きは、帝国で。」
「うぁ…はい…。」
ベアトリーチェのその何とも言えない声に思わず笑ってしまう。赤くなった耳をひと撫でし、顔を寄せる。
「君は俺のものだということ…忘れないように。」
仕上げにちゅっと耳にキスをおとした。
耳元で囁かれる声に、言葉に、ベアトリーチェの体は震え体温があがり全身が心臓になったかのように脈打つ。アルフォンスは唇にキスという一線さえ越えなければ大丈夫だろうという謎の線引きをしていたが、ベアトリーチェにしてみればどれも一緒だった。
「…っ、はい…」
腕の中で羞恥に震えるベアトリーチェをアルフォンスは満足そうに見つめる。
「領地に着いたら手紙を出す。返事をくれるか?」
「はい…」
「君が気にいるように部屋を飾る。好きな色や…食事の好みなんかも教えてほしい。」
「ちゃんと、考えておきます。」
「……抱きしめてもいいだろうか。」
「えっ」
もうほぼ抱きしめられているような距離感ではあったが、ベアトリーチェは小さく頷いた。
アルフォンスは壊れものを扱うように優しくベアトリーチェを抱きしめた。
「4ヶ月、すぐだとは思うが離れ難いんだ。これほどまで君に夢中になるとは思わなかった。」
「侯爵…」
「アルフォンス」
「……」
「シーゼ卿は良くて俺はだめなのか。」
「…」
「ベアトリーチェ」
「…アルフォンス」
消え入りそうなか細い声だったが、夜の静寂のおかげでしっかりとアルフォンスの耳に届いた。
「…やはり、キスしてもいいか?」
「だめです。」
アルフォンスに翻弄されるベアトリーチェの、せめてもの抵抗だった。
翌日、帝国使節団は1週間の視察を終え帰国した。
ベアトリーチェはアルフォンスから渡されたカフスをぎゅっと握りしめて期待と不安の入り混じる瞳で彼らの去った後をずっと見つめていた。
リンデンバウムの実が落ちる頃、ベアトリーチェは国境を越えベアトリーチェ・フォン・イーゼンブルク侯爵夫人として新たな人生を歩む。
5月の爽やかな風が髪を揺らし、太陽にきらめく。
エメラルドの瞳はまっすぐと前をみすえていた。
ー 第一章 完 ー




