気づき
街の視察を終えたアルフォンスが冷たい視線をダニエルに向けて歩いてくる。
「シーゼ卿は暇なようだな。」
「あぁ〜!急ぎの仕事を思い出しました!」
ダニエルは慌てて立ち上がり、ベアトリーチェにニコッと笑いかけた。
「公女様、ありがとうございました。楽しかったです。」
「こちらこそ、ありがとうございました。」
ダニエルは右手をスッと差し出し、ベアトリーチェはその手を取って立ち上がる。
アルフォンスの眉間のシワが深くなった気がするが、ダニエルは気にしないようにそのままアルフォンスへと近づく。
ダニエル・フォン・シーゼは非常に出来る男だった。
29という若さで事業を成功させ、この冷徹な侯爵にも臆することなく向き合うことができる稀有な存在だ。
だから。
「それでは、後はよろしくお願いします。」
などという無茶振りができる。
格上の侯爵の手を掴み無理やりベアトリーチェの手を乗せるなどという荒技はドミニクには出来ない。
ドミニクは、なんて恐ろしい奴だと思った。
夕暮れの近づく庭園を歩く。
アルフォンスとベアトリーチェは無言だった。
アルフォンスは、昨日の視察後の3人の定例会議を思い出していた。
『閣下、ただ待つだけ、というのも進展が見込めません。』
『追うなと言ったり待つなと言ったり一体どっちなんだ。』
『語るのです。』
『語る。』
『愛を。』
『お前は何を言っている。』
『いえ、シーゼ子爵の意見も最もです。圧倒的に言葉が足りていません。』
『……』
『建前など不要です。』
『その通り。相手の言葉に耳を傾けて、閣下も素直なお気持ちをお話するのです。』
『…なるほど。』
さっぱり分からなかった。
結局何をどう語るのだ。
そして、先ほどのベアトリーチェとダニエルの様子にアルフォンスはすこし苛ついていた。
ベアトリーチェは確かに心から笑っていた。対して自分はどうだ。いつも、逃げられる。
眉間の皺がまた深くなった。
「貴方を選べば…」
ベアトリーチェが小さく呟く。
アルフォンスは立ち止まり、ベアトリーチェへと視線を向けた。ベアトリーチェは俯いて少し考え込んでいるようだった。
「貴方を選べば、どうなりますか。」
目を合わせない。
「…自由と、安全を保障する。」
「…トスカ公国の?」
「いや。君の、心の自由と…安心を。」
ベアトリーチェの顔が上がり、視線が交差する。
「君の意志を尊重する。自分を抑える必要もない。政治の道具として君の価値をはかっているのではなく…」
アルフォンスは考え込む。
自分の気持ちを話すことがこんなにも難しいとは思わなかった。確かに、自分でも分からないことを相手が理解できるわけないな、と考えた。
今度はアルフォンスが視線を逸らした。
「感情の見えない君の瞳が、心を伴って俺を見つめるのが嬉しいと感じた。たとえそれが怒りや苛立ちだとしても。なぜか分からない。」
しかし、ふと気づく。
「いや…違うな。…その瞳に映るのは俺だけでありたいと思っている。お前の感情を呼び起こすのも、受け止めるのも。」
ベアトリーチェは、じっとアルフォンスを見つめている。アルフォンスの黒い瞳が再びベアトリーチェを見つめる、その視線は、熱い熱を孕んでいた。
「ベアトリーチェ。お前の心が欲しい。」
「心…」
「だから、無理強いはしない。お前に選んで欲しい。」
建国祭の時の神秘的な夕焼けとは違い、夕陽が赤々と燃えている。
「…シーゼ卿とは、どんな話を?」
アルフォンスは、再び歩き出す。
ベアトリーチェは2歩遅れて着いていく。
「心のままに、自由に選ぶことの…選び方を。」
「選び方?」
「私自身が、何を好きで何を嫌いと思うか理解することからだと…。私は、明日、レモンの砂糖漬けが食べたいのです。」
ベアトリーチェは大切なことを思い出すように、嬉しそうに話した。
「…そうか。」
アルフォンスは前を向いていたため声しか聞こえていないが、ベアトリーチェが笑っていることは分かった。自分ではその笑顔を引き出すことは出来ないだろう、と心の奥が陰る。
「ま、まって」
いつのまにか足早になっていたのかベアトリーチェが2.3歩駆けてアルフォンスの左手の小指をそっと握った。
「俺は」
ベアトリーチェの方へ視線を向けて、振り返る。
「俺はどちらだ。」
「え…」
まっすぐ、見つめられる。
威圧感など一つも感じない、本当に純粋な問いだった。
ベアトリーチェもじっとアルフォンスを見つめる。
(綺麗な、黒曜石の瞳)
握ったままの小指の存在も忘れていた。
アルフォンスは、ただじっとベアトリーチェの言葉を待っている。
その眼差しに、ドキリとした。いつも自信に溢れている黒の瞳が、不安に揺れている。
『心のままに』も『選び取る』も、その可能性を気付かせてくれたのはこの侯爵だ。そして、今。私の意志を尊重しようとしている。
『ベアトリーチェ』と呼ぶ低く落ち着いた声も、私は。
「す……」
ハッとした。自分は、いま、何を言おうとした?
視線を足下にそらし、後ずさる。
アルフォンスの左手の小指から手を離した瞬間、手を掴まれた。強くはない。優しく、大きな手に包まれた。
「もう、逃げないでほしい。」
頬が赤くなるのは夕陽のせいではなかった。心臓の音がうるさくて、体中に響く。
ベアトリーチェの頭の中は大混乱していた。
(私は、もしかして、この人のことを、)
顔を真っ赤にして俯くベアトリーチェを、アルフォンスは可愛いと思った。
もう自分の心に気づかないふりはできない。
惹かれている。
(欲しい)
ベアトリーチェの淡い金の髪を一房掬い取り、キスを落とした。
いよいよベアトリーチェは限界だった。
はやくこの場から逃げ出したい。
しかし手を掴まれて逃げられなかった。
掴まれていない方の手でドレスを握りしめる。
「逃げないから…さきに、行って。」
その言葉にアルフォンスは少しだけ満足した。
「先ほどの言葉の続きはまた後日楽しみにしている。君が心に従った結果…最後に残るのが私であって欲しい。」
ベアトリーチェの右手の甲にキスを落とし、アルフォンスは屋敷へと戻っていく。
残されたベアトリーチェは、しばらくその場から動くことができなかった。




