-43- エルマの悪夢
眠くなれば眠る、目が覚めれば起きる。
塔の頂上に位置する、無を具現化したような部屋で気の遠くなるような時をすごしてきたエルマは、長らくそんな生活を繰り返していた。
ここで何年すごしているのか? 食事もしなければ排泄もせず、魔力によって命を強制的に繋がれ、人間の生理現象を超越し、呪われた置物のように生きてきて、どれほどの時がすぎているのか? それは彼女自身にも分からないし、考えたところで不毛だった。
エルマを幽閉しておくための鳥籠――そう称して間違いないこの部屋には、人間の生活感など微塵もなかった。机も椅子もなければ、ベッドもないし、敷物さえない。
だから眠る時には、エルマはいつも石造りの床に仰向けになっていた。遠い昔には、背中が冷たいと感じたことがあったかもしれない。しかし、今となっては慣れていた。
申し訳程度に、壁の数か所には燭台が掛けられている。そこには、いつ灯されたのかも分からない炎が、ゆらゆらと穏やかに揺らめいていた。薄暗さは拭えないものの、完全な暗闇ではないことが、せめてもの救いだった。
床中に広がるエルマの金髪や、裾の長い純白のドレスが、淡く照らし出されていた。
眠りについているあいだにも、彼女は両手で黒薔薇を胸元に抱えていた。
「うっ、ううっ……」
美しく、穏やかだったエルマの寝顔に陰りが差す。苦悶の表情が浮かび、口から苦しげな声が漏れ出る。
「い……いやっ、やめて……やめてっ……!」
言葉の相手は、この部屋にはいなかった。
エルマが見ている夢の中に、彼女が必死に拒んでいる者がいるのだ。
金髪を乱しながら、エルマの頭が左右に振られる。その両目は固く閉じられたままだったが、彼女を恐怖に陥れている存在は夢の中で、今まさにエルマに襲い掛かっていた。
「来ないで、来ないでっ……いやっ、やめてよっ……!」
エルマの悲痛な声が、薄暗い室内に絶え間なく反響する。
黒薔薇を握る両手に力が入る。茎に生えた棘が突き刺さり、流れ出た鮮血がエルマの手を、手首を、それに純白のドレスを真っ赤に染め上げていく。
しかし、悪夢に苛まれている今の彼女は、痛みを感じなかった。痛みに気づくことすら許されなかった。
エルマ以外の何者にも見えない、恐怖の存在から逃げ惑うことで、精一杯だったのだ。
「助けて……助けて……!」
黒薔薇の鋭利な棘が、さらに深くエルマの手の平を突き刺していく。
閉じられた彼女の瞳から、一筋の涙が頬を伝う。
「助けて……エバン……!」
エルマの口から、あの少年の名が出た時だった。
《エルマ》
耳に届いた声ではなかった。しかし、眠っているエルマにはたしかに、魔妃オプスキュリアの呼びかけが届いていた。返事はしなかった――いや、できなかったものの、エルマはわずかに息をのんだ。
《そう案ずることはない》
オプスキュリアからの言葉は、たったそれだけだった。
それでも、変化は劇的だった。
真っ赤になっていたエルマの手が綺麗に戻る。血液を吸い込んでいたドレスも、洗い清められたかのような白さを取り戻した。彼女の顔に浮かんでいた汗や、頬を伝っていた涙も跡形なく消え去り、元どおりの美しく穏やかな寝顔に戻っていた。
落ち着きを取り戻したエルマが、それ以降苦悶の声を発することはなかった。再び錯乱する気配はなく、安らかな寝息とともに静かな眠りへと戻っていた。もう、胸に抱いた黒薔薇を強く握りしめることもなく、鋭利な棘が手の平を突き刺すこともなかった。
しかし、これはあくまで一時しのぎでしかない。彼女は完全に悪夢から解放されたわけではない。オプスキュリアは、それを知っていた。
夢に見た恐ろしい記憶は今までもこれからも、まるで鎖のごとくエルマを縛りつけて苦しめ、苛み続けるに違いなかった。
《わらわの力をもってしても、お前をあの時の恐怖から解放することは叶わぬか》
エルマが目を開ける。しかし、彼女が目覚めたわけではない。
その瞳は青くなく、まるでさっきエルマが流した血のように赤かった。
オプスキュリアだった。エルマは眠ったままだったが、今は魔妃たる彼女がその身体を支配しているのだ。金髪やドレスを揺れ動かしながら、彼女は身を起こす。
「気配を感じるな。そろそろ、会いに来る頃合いか? デルフィオーネ……」
薄暗い部屋の中に、壁のどこかを睨むオプスキュリアの赤い目が浮かび上がっていた。
◎ ◎ ◎
雨はなおも降り続いていた。
無数の雨粒が全身に振りつける中、エバンは巨大嬰児に応戦していた。
ブルックスがいてくれたお陰で、どうにか戦う手段が残されていた。見上げるほどの大きさの魔物とエバンとでは、速さにおいては絶望的なまでの差がある。もしブルックスがいなければ、きっとエバンはとうに踏み潰されていただろう。死んでいった仲間達と、同じ道を辿っていたに違いなかった。
そう考えると、思わずエバンは騎士達の凄惨な遺体を思い出しそうになった。跡形もなくなるほどに踏み潰され、元は人間だったと信じられなくなるような肉塊――こんな状況にも関わらず気分が悪くなりそうで、慌てて意識を戦闘に向き直した。
あんな光景を目にして、気分が悪くならない者はいない。それでも今は、仲間達の仇を討つことが最優先だった。
エバンは、この魔物に何としてでも引導を渡さなければならなかった。
「くっ!」
オプスキュリアの魔力を使っている以上、巨大嬰児に手傷を与えることは十分に可能だと考えていた。
ルミアーナのように魔法を使えるわけではないエバンは、飛び道具を持ち合わせていない。つまり、攻撃を仕掛けるには魔物に近づく必要があった。
しかし、それも容易ではない。
下手に近づけば巨大な足に踏み潰されかねないし、巨大嬰児はその見た目に違わないかなりの質量を帯びているようだった。歩くだけでも地震のごとく周囲が揺れ動き、ブルックスが体勢を崩しかねなかった。ただでさえ雨で地面がぬかるみ、ブルックスも思うように走れないようだった。
「だめだブルックス、離れろ!」
エバンは、接近を中止するよう命じた。
このまま近づけば振動で身動きを取れないようにされてしまい、その隙に踏み潰される可能性が高いと判断したのだ。
ブルックスなしで巨大嬰児に立ち向かうのは無謀だった。騎士達もそうだったのだろうが、エバンの足でこの魔物の踏みつけをかわすのは不可能に等しい。
エバンかブルックス、どちらかが倒されようものなら、残る片方も死するしかなかった。
「あんな図体をしているんだ、隙はあるはずだ……」
距離を取ったブルックスは、様子を見るようにその場に留まる。
巨大嬰児はすぐに振り返って、あの不気味な声を発しながら近づいてきた。頭が割れるような声だったが、エバンには耳を塞ぐ余裕すら与えられはしない。
怨念を噴出するようなあの泣き声とともに、巨大嬰児は再びエバンとブルックス目掛けて突進してきた。
「来るぞ!」
雨で視界が悪い中でも、魔物は的確にエバンの位置を補足していた。もしかしたら、彼の魔力を目印にしているのかもしれない。とはいえそれは憶測でしかなく、エバンにはオプスキュリアの魔力を収めるという選択肢はなかった。
目の前にいるのは、非常に危険な魔物だとエバンの勘が告げていた。オプスキュリアの魔力なくしては、到底太刀打ちできる相手ではないと確信していたのだ。
這いまわる動作で、巨大嬰児は一直線にエバンに向かってきた。
迎撃という選択肢は浮かばなかった。エバンが取るべきは、もはや逃げの一手だった。
ブルックスもどうやら同感だったらしい。エバンからの命令を受けずとも、彼は主人の意思を察したように駆け出した。
ほんの数秒後だった。巨大嬰児がその身を叩きつけるかのような動作で、エバンとブルックスがいた場所を叩き潰した。
より大きな振動とともに、周囲に瓦礫が飛散する。大きな穴が開き、まるで空から巨大な岩でも降ってきたかのような有様だった。叩き潰されようものなら、まず命はないだろう。
図体に見合った破壊力を持ちながら、それなりの俊敏さも備えているようだった。
「簡単には、近づけない……!」
下手に接近するのは、自殺行為だった。
どうすればいい? そう思った時だった。
「エバン!」
発せられた呼び声に、エバンは視線を上げた。
杖に腰かけたルミアーナが、雨風を受けながら上空に浮かんでいた。
「ルミアーナ……!」
村人達の猛追を振り切り、この場に駆けつけてくれたようだった。




