-42- BOSS RAID 巨大嬰児
湖に何があるのかは、分からなかった。
しかし崖崩れによって引き返す道を塞がれた以上、進むしかなさそうだった。この先に何か別の道があり、ルミアーナと合流できるかもしれない。
とはいえ、注意する必要があった。
さっきのトラバサミのように、どこかに罠が仕掛けられているかもしれない。それにエバンは、さっき村人が『ここで死ね』と叫んだのを思い出した。察するに、彼を殺害するための何かが、この近辺に存在すると考えて間違いないだろう。
さらなる罠なのか、あるいは村人が大勢集まって待ち伏せでもしているのか。それはエバンには分からない。
しかし、用心する必要がある状況なのは間違いなかった。
あえてブルックスには乗らず、手綱を引いて徒歩で進行することにした。
(連中がいる気配は、ないな……)
雨音以外に物音は聞こえず、周囲に村人が潜んでいる様子はなかった。
ここにいったい、何があるのだろうか? そう思いつつエバンが周囲を見渡していた時、ブルックスが小さく鳴き声を発した。首を動かして、どこかの方向を指し示しているようだった。
「どうかしたのか?」
とても勘の鋭い馬だ、何かに気づいたに違いない――ブルックスの視線の先を追ってみて、エバンはその残骸を目にした。
銀色の金属片の山――それもひとつやふたつではなく、複数個が存在する。その金属片には、肉のようなものが混ざっており、周囲が真っ赤に染まっていた。
「っ……!」
鼻をつくような腐敗臭、同時にエバンは嫌な予感が胸に込み上がるのを感じた。
恐る恐る歩み寄ってみて、それらが単なる金属片ではないことを確認する。
――鎧ごと叩き潰された、幾人もの死体だった。肉や臓器のらしき物体が飛散したその場は、一面が血の海になっていた。雨がそこに打ちつけ、赤い飛沫が絶え間なく跳ね上がっていた。
「まさか……!」
エバンはすぐに、鎧に刻まれた薔薇を象った紋章に気づく。
それはロヴュソールの国章に他ならず、そしてこの場に散乱した肉片がすべて、彼と同じロヴュソール兵士だったことの証明だった。ジャギラスは、この死体を漁って鎧の欠片を持ち出したのかもしれなかった。
兵士達の死体は完全に叩き潰されており、誰なのかの区別もできない有様だった。
(惨すぎる……村人の仕業じゃなさそうだ)
強烈な腐敗臭、それに仲間をまるでゴミのように殺された事実を突きつけられ、エバンは吐きそうになった。幾度も死体を目の当たりにする経験があったとはいえ、決して何も感じなくなっているわけではない。
村人がこのように、鎧ごと人を叩き潰せるとは思えなかった。ならば罠にでもかけられたのかと思ったが、周囲を見渡してもその痕跡は見つからない。
慌ただしく身動きするブルックスを、エバンは撫でてどうにか落ち着けた。
いったい、誰がこんなことを?
そう思った時、何かの声がエバンの鼓膜を揺らした。
「ブルックス、静かに……!」
鳴き声を上げ続けるブルックスを宥め、エバンは耳を澄ます。
気のせいかと思ったが、そうではなかった。その『声』は雨音に交じって、間違いなくどこかからか発せられていた。
オンギャア、オンギャア、オンギャア……
赤ん坊の声?
そう思ったが、それにしてはあまりにも低くて、野太くて、そして不気味な声だった。赤子らしい愛らしさや無邪気さは微塵もなく、まるで怨念を噴出するかのようなおぞましい声だ。
(この声は……?)
湖のほうに向かったエバンは、すぐにそれを見つけた。
灰色で大きなその物体、一瞬大きな岩だと思った。だが、岩が動くはずがないので、すぐに岩ではないことが分かった。
湖から這い出るように姿を現したその怪物は、見上げるほどに巨大だった。ラスバル村で遭遇したオロルドロスと同格か、それ以上の大きさであるようにエバンには思えた。
オンギャア、オンギャア……
また、あの声が発せられる。
大きさに見合った重量を有するであろう怪物、その巨体が蠢くと湖の水が激しく揺らぎ、まるで津波が立つようだった。
皮膚がドロドロになっているように見えて、目がどこにあるのかすら分からなかった。しかし、怪物はどうやらエバンの存在を察知したらしい。辛うじて見える口を開け、これまで以上に大きな声を発した。
オギャアアアアア……!
脳が揺れそうになるほどの大声で、エバンは思わず頭を抱えた。
「うっ!」
危うく、剣を取り落とすところだった。
(なんだこの声、頭が割れそうだ……!)
しかし、いつまでも悶えているわけにはいかなかった。
怪物は巨大な四肢を使い、這うようにしてエバンに向かって突っ込んできた。
声といい仕草といい、やはり赤子を思わせる魔物だった。しかし、愛らしさなどあるはずがない。その魔物はとてつもなく醜かった。外見だけでなく、その心までもが醜く思えた。
地鳴りを響かせながら迫ってくるその姿を見て、エバンは確信した。
肉塊のような有様になっていたあのロヴュソール兵達は、この魔物に踏み潰されて絶命したのだ。
「なんだ、こいつは!?」
探っている暇はなかった。
エバンはブルックスの手綱を手放し、横へと飛び退いた。立ち止まっていては、あのロヴュソール兵達と同じ道を辿ることになる。あの巨大な嬰児のごとき魔物に踏み潰され、血まみれの肉塊にさせられ、野鳥や魔物の餌になるだろう。
巨大嬰児の突進は直線的で、見切るのは難しくなかった。
しかし巨体であるがゆえに、避けるには全力で走る必要があった。
(いつまでも逃げ続けてはいられない……!)
逃げようとしても、ここに続く道は塞がれてしまっている。
そもそも、あの魔物の速度から逃げ切るのは不可能だと思えた。あのロヴュソール兵達も、逃げようとしたところを追撃され、踏み潰されたのかもしれない。
逃げられないならば、戦うしかない。
剣を持ち直したエバンのところに、ブルックスが駆け寄ってきた。
「頼むぞ……!」
機動力では圧倒的に不利なエバンだったが、ブルックスがいるならば勝機もあるように思えた。少なくとも、逃げられずに踏み潰されるという事態は回避できるだろう。
ブルックスの背中に飛び乗るエバン、彼の視線の先で、巨大嬰児はゆっくりと振り返っていた。
おぞましい声が、また発せられる。完全にエバンを獲物として認識しているのだろう。エバンを虫のように弄び、殺害することに快楽を見出しているか。それとも彼に対して、何かしらの怨念を持っているのか、それは分からない。
分からないが、仲間を複数人も殺害した恐るべき魔物であることに疑いの余地はない。
絶対に倒さなければならない。
エバンは改めて、そう決断を固めた。
「仇は討つ……!」
殺害の現場を目の当たりにしたわけではない。しかし、エバンには仲間達がこの魔物に追い回され、生きたまま残酷に踏み潰される光景が目に浮かぶようだった。
彼らの中には結婚しており、家族がいる者もいる。どう考えようとも、あんなゴミのように殺されていいわけがない。兵士である以上、命を失うことは彼らも覚悟していたかもしれないが、あんなふうに断ち切られていい命など、ただのひとつも存在しない。
手加減する理由はないし、本気を出さなければ倒せないと感じていた。
だから、エバンはオプスキュリアの魔力を使うことに決めた。
彼の両目、それに剣が赤い光を帯びる。それは、眷属として授かったオプスキュリアの魔力を発揮している証だった。
「進め、ブルックス!」
降りしきる雨の中、仲間達を弔う戦いが始まった。




