-38- 雨中の襲撃
薄汚れたベッドに仰向けになって、エバンはどうにか眠ろうと努めた。明日はロヴュソール兵達の捜索を開始するつもりだったし、それに備えて体力をつけておきたかった。村に来る途中で魔物にも襲われ、戦闘の疲れを取り除く必要もあった。
しかし、どうにも意識を手放すことができない。
寝心地の悪さに加えて、壁が薄いせいで雨音がやけにうるさく感じた。だが、眠れない理由はそれが一番ではない。仲間であるロヴュソール兵達の身が、心配だったのだ。
仕留めたジャギラスが、絶命間際に鎧の残骸を吐き出したのを思い出す。あれは間違いなく、ロヴュソール兵の鎧だった。魔物の腹の中にあった鎧の残骸――どうか無関係だと信じたかった。
少なくとも、自分の仲間達が魔物ごときに簡単にやられるはずは……と思った時だった。
コンコン。
誰かが、部屋の扉を叩いた。雨音に混ざっていたが、その音ははっきりと聞き取れた。
「誰だ?」
ベッドの上で身を起こし、エバンは扉の向こうの誰かに呼びかけた。ルミアーナは風呂に入ると言っていたから、彼女ではないのは明らかだ。
様子がおかしかった老人や、ジロジロと自分達を見つめていた人々を思い出し、エバンは思わず剣を手に取った。
「失礼します、お食事をお持ちしました……」
返ってきたのは、女性のか細い声だった。
鞘に収めたままの剣を片手に提げ、ドアを少しだけ開いてみる。隙間から、この宿の従業員であろう少女の顔が見えた。年はエバンやルミアーナと同じか、少し上であるように見えた。
宿屋の作業着に身を包んだ彼女のそばには、配膳用のカートが見えた。そこには、クローシュが被せられた皿が載っている。
「……そうか、ありがとう」
わずかな間を挟んだあとで、エバンは扉を開けて彼女を招き入れた。
「ちょうど、剣の手入れを終えたところだったんだ」
剣を手にしていたことについては、そう弁明した。
扉を閉め、念のために鍵を掛ける。
「どちらに置きましょう……」
エバンは部屋のテーブルを指差して、「そこにでも」と応じた。
だが、彼女がそれに従うことはなかった。
剣を手放したエバンがベッドに腰を下ろした瞬間、少女はどこからともなく取り出したナイフを手に、背後から彼に襲い掛かった。
「あああああっ!」
両目を見開き、恐ろしい形相で襲い掛かってきた彼女。
しかしエバンは即座に振り返り、怯むことなく彼女の手を押さえ、手首を締め上げるようにしてナイフを取り落とさせた。そして彼女の腹部に拳を突き入れる。
「うぐっ、ごほっ……!」
彼女は咳き込みながら、身を折り曲げて後退した。
無暗に女性に暴力を振るいたくはない。しかし刃物を手に襲い掛かってきた以上、手荒いとは思いつつもこうするしかなかった。
「やはりな」
エバンは自身の剣を再度手に取り、彼女が落としたナイフを部屋の隅に蹴り飛ばした。
顔を上げた少女が、悪魔のような形相で睨みつけてくる。
ロヴュソールにて、エバンは剣に頼らない戦闘技術も学んでいる。たとえ素手であろうとも、こんな少女に負けるはずはない。
「ぐっ……どう、して……!」
何故、感づかれたのか。少女はそうとでも言いたげだった。
「わざわざ部屋に食事を運んでくれるなんて、こんなボロ宿にしては親切すぎるだろう」
食事を持ってきたと彼女が言った時点で、エバンは罠の可能性が高いと疑った。そんなサービスを行う以前に、部屋の清掃を行うなり接客の指導をするなり、この宿の改善すべき点は数多いと思ったからだ。
それでもあえて部屋へ招き入れ、わざと背中を見せて隙を晒した。そうしたら彼女は思いどおり、本性を現したというわけである。襲ってくることは織り込み済みだったので、制圧するのはそう難しくはなかった。
腹部を押さえ、なおも自身を睨みつける彼女を視界に捉えたまま、エバンはカートに載った料理――それに被せられたクローシュを取ってみた。
その下には、何も載っていない皿があるのみだった。
料理など、ありはしなかった。カートも皿もクローシュも、エバンを信用させて油断を誘い、彼を殺害するために用意された小道具だったのだ。
しかし、その策略を看破された今となっては、もはやこれらは無用の長物に他ならなかった。
少女が思っていた以上に、エバンは賢くて鋭く、そして用心深かったのだ。
「ところで、尋ねたいことがある」
当然ながら、怪しい人物を無意味に招き入れたわけではない。
自分が求める情報を、もしかしたら彼女から引き出せるかもしれないと思ったのだ。
「この村に数名のロヴュソール兵が来たはずだ。だが、彼らの安否が掴めていない。何か知っているか?」
仲間達の行方。それこそが、今のエバンが最優先で知りたいことだった。
「ふん、教える必要なんてないわよ。どうせあんたも死ぬんだからね!」
少女の身が、不気味な灰色の光に覆い包まれる――エバンにとって、見覚えのある光景だった。
彼女から人間の面影はたちまち消え去り、灰色の獣のごとき姿へと変じた。下半身だけが元のままであることが、かろうじて人間の要素を残していた。
獣人の魔物に変じた彼女は、吠えながらエバンに向かってきた。魔物と化しても、エバンへの敵意は忘れていないようだ。放置されていたカートが突き飛ばされて倒れ、皿やクローシュが転がり落ちる。
「そう言うだろうとは、思っていた」
尋ねたところで、きっと素直には話さないだろう。
そう思っていたエバンにとって、彼女の反応は予想どおりのものだった。だが、『あんたも』という表現が引っ掛かる。
いずれにせよ、魔物に変貌して襲い掛かってくる相手を前に、エバンがすべきことはひとつだけだった。
――赤い光を帯びた剣が少女の胸部を貫いたのは、そのすぐあとのことだった。
「あがっ……!」
鋭い牙も爪も、無意味だった。それらが届く前に、エバンは剣の一突きで魔物と化した少女を一蹴した。人間の姿の彼女を害するのは抵抗があった。しかし、魔物としての本性を現した今では、もうためらう必要は感じなかった。
少女が獣人化した魔物は、胸を貫かれたままバタバタと腕を振り回し続けた。だがそんな行為は何の意味もなく、むしろ剣がより深く突き刺さり、胸がさらに大きく引き裂かれていった。
「もう、用はない」
気味の悪い叫び声が、部屋の中に響き続ける。
それを律儀に聞いている必要もないと判断したエバンは、剣を引き抜いた。
魔物は仰向けに倒れ伏し、少しのあいだもがき苦しんだ。やがて、完全にその動きを止めた。
(死者が魔物に変わるのは見たことがあるが、人間のふりをする魔物は初めてだ……)
彼の瞳が元の色に戻り、剣から赤い光も消失する。
ラスバル村で戦ったオロルドロスを、エバンは思い出した。
しかし、あの男も彼女とはまた違う。オロルドロスは自我を持っていたが、すでに人間の姿を保ってはいなかった。
人間に擬態して近づき、魔物としての本性を現して襲い掛かる――魔族はこんな魔物も作り出していたようだ。オプスキュリアの魔力を使えば倒すことは可能なようだが、それでも恐ろしい存在だとエバンは思った。
こんな魔物を差し向けられれば、騙されて罠に嵌められ、殺される事態も十分に考えられる。
エバンがそう思っていた時だった。彼の耳が、雨音とは違う物音を捉えたのだ。
人々の怒鳴り声、それに大勢の足音だった。
「何だ……?」
窓の向こうの景色を見たエバンは、そこに広がっていた光景に目を見開いた。
降りしきる雨の中、大勢の村人が泥のしぶきを上げながら宿に向かって走ってきていた。松明を持っている男や、刃物を手にした女――年代は様々だったが、彼らの目的はきっと共通しているに違いない。
ひとりの男が指差してきたのを、エバンはたしかに目にした。それが確証となった、彼らはエバン(きっと、ルミアーナも標的なのだろう)を殺害するために徒党を組み、大群でこの宿へと押し寄せてきたのだ。
「こいつら全員、魔物にさせられているのか……!」
魔物である確証はない。しかし、村人達の尋常ならざる形相を見て、エバンはそう思った。凶器を手に、意味不明な叫び声を上げながら迫ってくる彼らは、どう見ても正常な人間ではなかったのだ。村人たちの目は血走っていて、その様子はまさに狂人だった。
自分の意思で魔物に成り下がったのか、それとも何者かに魔物に変えられて使役されているのか。どちらなのかは、現時点では分からない。
しかし今は、そんなことを気にしている状況ではなかった。
(そうだ、ルミアーナは……!)
ルミアーナのところ、つまり隣の部屋にエバンは向かおうとしたが、できなかった。
大勢が迫ってくる気配がしたと思うと、向こう側から何者かが乱暴に扉を叩き始めたのだ。
鍵を掛けていて正解だった、しかし安心などできない。扉が破られるのも時間の問題だった。
「もう来たか……!」
剣を収めるのは、まだ当分先になりそうだ。




