三十九 仮初の幕引き
「ちょっと、待て! 頼むから、待ってくれよ!」
俺が腰元のホルスターからナイフを引き抜いたのを見て、尻もちをついた姿勢のままエニグマが叫ぶ。
怯え切った表情で無様に後ずさりをして、少しでも俺から逃げようとする。
「往生際が、悪いぞ。お前はここで殺す」
その覚悟はできていた。
こいつは生かしておけば、また同じことをするだろう。
自分のためだけに他の人を食いものにして、嘲笑い、たくさんの不幸を生み出すはずだ。
魔族というのは、そういう存在だから。
俺はエニグマの襟首を掴み、ナイフを持った手を振りかぶる。
誰かが、とどめを刺さなければ。
この優しい世界で、今それができるのは俺だけだ。
やるしかない。
その線ならとっくに踏み越えた。
「やめてくれ! 聞けよ! 仕方なかったんだ! 俺だってここまでするつもりはなかったんだよ!」
「……何だと?」
まさか、命乞いのつもりなのか?
この状況で、ここまでしておいて、仕方なかっただって?
こいつは一体、何を言い出すんだ。
「お前には分からねえかもしれねえがな! 俺はこことは別の世界でずっと虐げられてきたんだ! 親父は一番偉い奴だったけどよ、母親はそのおもちゃだったって理由でだ!」
魔族の一番偉い奴ということは、こいつの親は、あの魔王だってのか?
向こうの世界でアイギスさん達が死力を尽くして戦った相手だ。
本気を出せば、冗談抜きで世界を滅ぼしてしまえるような力を持った存在。
その子どもが、こんな奴なのかよ。
「俺の姿を変える力は、母親譲りなんだよ。クソ親父のおもちゃに選ばれた理由はそれだけさ! 見た目が自由に変えられるんなら色々遊べるからな! お遊びの結果生まれた俺に、居場所なんてなかった!」
ナイフの先端を突き付けられたエニグマが、悲痛な叫びをあげる。
俺も詳しくは知らないが、魔族にも序列とか階級みたいなものがあったらしい。
こいつはその中で苦しめられたということなんだろう。
踏みにじられ、思い通りにならないことばかりだったのかもしれない。
「だから、お前はこっちの世界にやってきたのか」
「そうだよ、その通りだ! 元の世界にいたんじゃどの道、殺されてた。こっちに逃げてくるしかなかったんだ! なあ、わかるだろ? 俺だって命は惜しいんだよ!」
同情の余地は、あるのかもしれない。
こいつが人を殺すことさえ何とも思わなくなるほど歪んでしまった理由も、なんとなく納得できた。
だけど、一つだけ疑問がある。
「こっちの世界にやってきてすぐ、お前は暴れ回ったんだろう。あれは、どうしてだ」
向こうの世界から逃げてきたのなら、こっちで静かに暮らし始めれば良かったはずだ。
返り討ちにあうほど、力を振るった理由が俺にはわからなかった。
だから、訊く。
「……それは、それはなっ……」
エニグマは苦しそうに顔を歪め、俯き、そして。
「ああ、駄目だわ。なーんも思いつかねえや」
はははっと、息を吐いて、楽しそうに笑い出した。
その顔を見て、鳥肌が立つ。
こいつ、まさか、今、話をしたことは全部。
「やりたかったからやりましたあ。だってよお、平和ボケしたゴミがうじゃうじゃいるんだぜ? ちょっとビビらせてやろうかなって気分になるだろ。邪魔くせえ他の魔族もいねえわけだしよお」
「お前!」
「おおっと、待てよゴーグルくん! 俺を殺す前に思い出した方がいい事があるぜ?」
話を聞いた俺が馬鹿だった。
ナイフを突き出そうとした手を、エニグマが握ってくる。
構うもんか。もう耳は貸さない。
こいつは、この場で力任せに息の根を止める。
そう思ったのに。
「俺の顔、よーく見ろよ。さあここで、もう一問楽しいなぞなぞの時間だ。この可愛い顔とエロい体の持ち主は、今どこで何してるでしょうか?」
「!」
エニグマの顔が、妻崎のものに変わっていた。
それを見て、俺は息を呑む。
そうだ。
こいつは妻崎を攫った。
居場所はまだわからない。こいつを殺せば手がかりが無くなってしまう。
「ははっ、良いリアクションだ! ちなみに言っとくがよ、俺が死ねばこの女も死ぬか、もっと酷い目にあっちゃうことになってる。不良仲間にはそう伝えといたからなあ」
「でたらめだ! 聞くな!」
少し離れた所から叫ぶ、オーガの声が聞こえた。
だけど、俺は動けない。
手が震える。
指先まで流れる血が凍り付いたように、冷たい。
怖いんだ。
こいつの言葉が嘘じゃなかったらと思うと、怖くて動けない。
「ああ、でたらめだよ。お前を騙すためのはったりさ。いや……でも、本当だったかもしれないな? まあ、これからお前に殺される俺にはどっちでもいい事か! なあ、ゴーグルくん」
「ふざ、けるな!」
「やだね。最後くらいふざけさせろよ」
胸倉を掴む手にさらに力を込め、ナイフを浅く喉元に突き立てた。
だが、エニグマはどこ吹く風。にやにやと笑いながら、べろりと赤くて長い舌を出す。
「俺を、ここで殺すんだろ?」
エニグマは何もできない俺を真っ直ぐ見つめ、楽しそうに囁いた。
「人でも、物でも、常識でも、大切に抱えようとするから、重いんだよ。自分を余計なもんで装うから窮屈だ。何をすべきかなんて考えなくていい。やりたいように、やりゃあいいんだよ。俺なら、そうする」
ぷつり、とエニグマの喉元にナイフの先端が刺さり、血が滲みだすのが見えた。
「さあ、やりなよ。覚悟は、決まってるんでしょ?」
エニグマの声色が変わる。
妻崎の真似にしたってお粗末だ。それなのに。
「そうすれば俺は、この顔で、この声で、一生お前の記憶に残るような悲鳴をあげてやるからよ」
目の前に居るのは妻崎じゃない。
こいつは、妻崎じゃないんだ。
姿形は同じでも、あいつはこんなふうに笑わない。
知ってるだろ!
この化け物を野放しにしておけば、きっとまた誰かが傷つく。
ろくでもないことになる。生かしておくわけにはいかないんだ。
ここで終わりにしなきゃいけないはずなんだ!
わかってる。わかっているはずなのに。
「……くそっ!」
俺はエニグマの喉元からナイフを離し、地面に叩きつけていた。
殺すことが、できなかった。
「ぶっ、ははっ、ははははははははははははっ! あいててててっ! 腹が! やめてくれよ! マジで笑い殺されちまうっての! はははははははっ!」
腹を抱えて、エニグマが心底可笑しそうな声をあげる。
どれだけ不愉快だと思っても、軋むほどに歯を食いしばっても、俺には何もできない。
妻崎が無事だとわからない限り、こいつには手を出せない。
「人間は大変だな! 本当かどうかは問題じゃないもんな! 俺を信じるしか、ねえもんなあ!」
胸倉を掴んでいた手を振り払われた。
そのことに気付いた時には、もう遅い。
「だから、勝てないんだよ」
エニグマが俺に向かってかざした手の平が光るのが見えた。
体の前で空気が爆発し、吹き飛ばされた俺はなすすべなく地面を転がった。
轟音に貫かれたせいで生まれた激しい耳鳴りの中でも、エニグマの高笑いだけが消えずに聞こえてくる。
「また会おうぜ! ゴーグルくん!」
はははははっ、と響き渡る笑い声が遠ざかっていくのがわかった。
駄目だ。そんな。
「待て! くそっ! 待てよ!」
悲鳴をあげる体を無視して立ち上がった俺の前にはもう、エニグマの姿はなかった。
嘘だろ。
逃げられた。あそこまで追い詰めたのに。
妻崎がどこにいるのかも聞き出せなかった。
これだけ必死で、やったってのに!
助けられなかったのか。俺は。
「ああああああああああああっ!」
力一杯地面を殴りつけても、何も変わらなかった。
アスファルトが微かに震える情けない音がして、打ち付けた拳の皮が裂け、骨が軋むだけ。
それでも何かに当たり散らすのを止められなかった。
怒りと、無力感と、絶望で、心が埋め尽くされている。
壊れそうになる。
そう思った時だった。
「久郎くん!」
いろはの声が聞こえた。
無線からじゃない。すぐ近くからだ。
どうして、と声のした方を見れば、ショッピングモールの屋上に上がってくる入り口から、いろはと、犬走と、梶さんが駆け寄って来ていた。
ここまで来たのか。
だけど、今はお喋りなんてしている時間はない。
行かなきゃ。
妻崎を探しに行かなきゃ、いけないんだ。それなのに。
「……はなしてくれ」
腕をいろはに掴まれてしまった。
なんのつもりだ、これは。
状況はお前もわかってるだろう。
「駄目だよ。放さない。ちょっと落ち着きなよ、久郎くん」
「無理だ。すぐに妻崎を、探しに、行かないと」
「もう、いいから。久郎くん、もう、いいんだよお」
「邪魔するな! どけ!」
「どかしてみなよ! そんなボロボロで、私も払いのけられないくせに!」
無理矢理にでも進もうとしたところを、いろはに抱きしめられる。
鬱陶しい。
荒い息を繰り返しながら、腕に力を込め、脚を踏み出そうとするが、動けなかった。
俺はこんなにも非力だっただろうか。
「放せよ、頼むから! 俺はっ、行かなきゃ駄目なんだ! 助けなきゃ。あいつを、探しに行かせてくれ!」
「大丈夫だから。そのことなら、もう大丈夫なんだよ。久郎くん」
ぎゅうっと、いろはが俺を羽交い絞めにする手をさらにきつくする。
「妻崎ちゃんは、さっき警察の人が見つけてくれたみたい。この近くの倉庫で眠らされてたところを保護されたんだってさ。怪我もないし、酷いことをされた様子も、なかったって」
「…………本当か、それ」
「こんな時に嘘なんか吐かないよお。だから、終わり。久郎くん、もう頑張らなくていいんだよ」
「そうか。そう、なんだな。妻崎は、助かったんだな」
張り詰めていた心に、感情をせき止めていた壁に、穴が開くのを感じた。
もう、止められない。
勝手に力が抜け、膝から崩れ落ちそうになる俺をいろはが支えてくれた。
そのひんやりとしていて、柔らかい感触につい甘えて、身を任せてしまう。
「久郎くん。すごい臭いだよ? 血と、汗と、埃の臭い。すっごく、頑張った人の臭いだあ」
耳元ですんすんといろはが鼻を鳴らすのが聞こえた。
普段なら抵抗するところだが、今は、まあ、いいか。
「お前は、いい匂いだな。特に髪が、すごく、落ち着く匂いだ」
「ふええ! ちょっ、やめてよお! 久郎くん! 変態さんみたいだよ!」
俺も大きく息を吸い込んで、感想を言ったら突き飛ばされてしまった。
思ったことを口に出しただけなんだがな。いろはは白い肌を赤くして、ぐしゃぐしゃと自分の髪の毛をかき混ぜている。
先にやったのはお前だろうに。
そんなに嫌だったのか。
「……そうだ。犬走、ここに居た奴を臭いで追いかけられないか?」
「多分、厳しいと思う。建物が崩れかけてるせいで、臭いもごちゃごちゃしてるし」
俺の思いつきに、犬走が頭を横に振った。
やっぱり駄目か。
あと一分、妻崎の無事を知るのが早ければ、エニグマを取り逃がすこともなかった。
掴みかけて、すり抜けていった時の歯がゆさはどうしても拭えない。
「いろはちゃんがどうしてもって言うから来てみたけどよ。こりゃ俺らにできることなさそうだな」
瓦礫とひび割れで惨状と化した屋上を見回して、梶さんが難しい顔で唸る。
確かにその通りだ。
ここで俺達にできることはもうない。
これから騒ぎも大きくなるだろうし、誰かに見つかって面倒なことになる前に逃げるのが吉だろう。
「どれだけ体を張っても、無駄になる。こんなことばかりだ。俺達の側はな」
「……! あんた」
低い声をかけられて振り返ると、そこにオーガが立っていた。
魔物の状態を解いて、肌の色も戻った青いパーカーの男が、手にした俺の外套を差し出してくる。
「ああいう奴は、世の中のルールじゃ裁けない。だから俺が報いを受けさせてきた。だが、こういうもので正体を隠しても、最後に決断を下すのは自分の人としての部分だ」
オーガにとっての青いパーカーのように、俺にとってはこのゴーグルと梶さんに作ってもらった服が決意の証になる。
これを身に纏っても、忘れてはいけないこと。
目の前の男が伝えようとしている何かを、外套と一緒に俺は受け取った。
「結果だけ見ればお前のしたことは正しくなかったが、人間らしかった。今日はそれで良しとするんだな」
そう言い残し、オーガは俺達に背を向けて走り出した。
そして、当たり前のように屋上から飛び降りて、見えなくなる。
結局、あいつが誰なのかは確かめられなかった。
凶暴で、恐ろしい存在なのは間違いないが、悪い奴ではないんだろう。
「こっちはボロボロで、本物の悪人は野放しのまま、か」
俺は顔を覆っていたマスクと、ゴーグルを外して、深く息を吐く。
ほんの少しの涼しさを感じた後、夜の闇が落ちた町に赤いパトカーの光が行きかっているのが見えた。
このどこかにあいつが居る。
息を潜めて、今は逃げているけれど。
俺が捕まえられなかったあいつはまだ、自由のままだ。
「やっぱり、難しいですね」
あなたみたいに上手くはいきませんでした、と。
俺はゴーグルを握りしめて夜空を仰ぎ、遠い世界に居るあの人に話しかけた。
一応の決着です。
でも微妙に後味が悪い感じですね。
それが久郎達のこれからに繋がっていきます。




