異界と現世の境界生線
行かなきゃならない。
エニグマ、とかいうあの魔族、あいつを止めなきゃ。
わかっているのに、身体は動いてくれなかった。
流れ出た血の量が多すぎたのかもしれない。
刺された腹が重い。
中に鉛でも詰められているみたいだ。
頭もはっきりしない。
閉じた瞼さえ、開くことができないんだ。
もう、どうしようもないんだろうか。諦めて、死ぬのを待つしかないんだろうか。
俺には、何もできない。
そう思った時だった。
「大丈夫だよ。クロウ」
声が、聞こえた。
耳をくすぐった懐かしい誰かの、優しい息遣いを感じて、俺は暗い闇の底から引き戻される。
「ここは……」
俺が立ち上がったその場所は、燃え盛る町の中だった。
見覚えのある場所だ。
忘れることなんてできるわけがない。
もう随分と昔に感じるのに、頭の中にしっかりと刻まれた場所。
自分が死にかけた場所。
だけど、初めて、自分の力で生き延びた場所だ。
そっと頭の左側に触れた指先に、血がついた。
そうだ。これはあの日できた傷。
化け物の爪で引き裂かれて、痕が残ってしまった。
向こうの世界で最初の大怪我だ。
「やあ。久しぶりだね。クロウ。元気だったかい?」
また柔らかい声に話しかけられて顔を上げ、俺は自分の目を疑った。
目の前に、そこに立っていたのは。
「……勇者様? アイギスさん、どうして……」
記憶のままの姿の彼女は、俺の問いかけには答えなかった。
ただ微笑んで、俺の顔に手を伸ばしてくる。
「この傷を見ると、思い出すな。君がどんな奴なのかわかった、あの日のことを」
髪をかき上げるようにして傷口をなぞられ、俺は顔をしかめた。
焼け付くような痛みが呼び覚ますのは、恐怖と、絶望、そして、生き延びることができたという確かな喜びだった。
「この傷を負った日、君は自分の意志で一人の人を救い、そして自分の命も守った。何の力もなかったのに、誰の手も借りずに、ね。私は言う事を聞かなかった君に驚いたし、呆れたし、腹が立ったよ。まったく」
アイギスさんは怒った顔を作ってみせ、不満そうに息を吐く。
あの日、宿のお姉さんを助けようとして化け物に追いかけまわされた俺は、偶然助かった。
襲い掛かってきた熊のような怪物の爪を躱しきることができず、大怪我こそしたものの、勢い余ったあいつは俺の後ろで燃えていた木材の山にバランスを崩して突っ込んだのだ。
その隙をついて、命からがら逃げた。
本当に運が良かった。
あそこで死んでいても、おかしくはなかったと思う。
「君が助かったのは諦めなかったからだよ。そして、君はあの日、それまでの自分とは違う何かになった」
「…………どういう、意味ですか」
「私と、同じだよ。たった一人にとってではあったけれど、君はあの日、勇者になったんだ」
そんな。と思う。
俺が、アイギスさんと同じなわけがない。
あなたはもっと、俺とは比べられないくらいに凄い人なんだ。
強くて、優しくて、格好良くて。
俺なんかとは、全然違う。
「おいおい、クロウ、君に悪気がないのは知ってるが、それ地味に傷つくんだからな? 私だって一応は年頃の女の子なんだぞ。怖い物だってあるし、迷うことも、もう無理だと全部投げ出したくなったことだってある」
ほんの少し頬を膨らませて、アイギスさんは心外だと言わんばかりに腰元に手を当てた。
そして、すぐに悪戯っぽく笑って、ぴんと伸ばした人差し指で俺の胸をついてくる。
「でもな。そんなふうに挫けそうな時、使えるおまじないがあるんだ。それを教えてあげるよ」
ああ、そうだ。思い出した。
これも、俺の記憶だ。
アイギスさんのおまじない。
確かに俺は、教えてもらっていた。
折れかけた心を支える、とっておきの方法だ。
「目を閉じろ、クロウ。そして、自分の名前を頭の中で繰り返し呼ぶんだ。何度も、何度もね。すると、聞こえてくる。はじめはぼんやり、でもだんだんはっきりと聞こえてくる。ほら、どうだ?」
名前というのは、自分の口から出ることは少ない。
他の誰かに使ってもらって初めて価値を持つ言葉。
誰かとの繋がりを表す言葉なのだと、アイギスさんは教えてくれた。
「自分の名前を呼ぶたくさんの声に、耳を傾けるんだ。さあ、誰の声が聞こえてくる?」
久郎、久郎、久郎、と、繰り返すうち、味気なかった響きが変わっていく。
いつか、どこかで、誰かに呼んでもらった記憶が、懐かしく、湧き上がってくる。
久郎、クロくん、クロ兄、久郎、橋づ……久郎! 橋爪、ねえ、久郎、と。
母さんが、姉ちゃんが、遠華ちゃんが、父さんが、犬走が、梶さんが、そして、妻崎が。
俺を呼ぶ声が、聞こえてきた。
そうだった。
俺は、一人じゃない。
まだ寝てられない。
やるべきことがあるじゃないか。
「変わってしまった自分が許せない時があるんだろう、クロウ。だけど、大丈夫だ」
アイギスさんの声が、言葉が、頭に、心に染み込んでくる。
胸の底から温かい何かが沸き上がってくる。
「君がどんな奴なのか、理解してくれる人がいる。どれだけつらい思いをしても、傷つき、ねじれてしまったと感じても、君の優しさや勇気を、そして泣き虫だったことを、私は覚えてる。君を大切に想ってくれている人達だってきっと、そうさ」
俺は変わった。
あの世界で、違う人間みたいになってしまった。
だけど、それでも繋がりを持とうとしてくれる人たちは居て、一人にならずにすんだ。
「大切な人達が、私を勇者にしてくれた。挫けそうになったら、想え。誰かを守りたいと願う気持ちが君を支えていく。何本も何本も束になって、真っ直ぐな芯になる。それがわかっていれば君は大丈夫だ」
気がつけば、アイギスさんの後ろに三つ、人影が見えた。
俺より小さいのと、とにかく大きくて迫力があるのと、柔らかいラインを描いているのとが、それぞれ好き勝手に口を開く。
「さ! ここからが正念場です! 死中に活ありですよ、クロウ!」
「お前な、そんなもんかすり傷だろが。さっさと立って何とかしろグズ」
「二人とも、根性論だけじゃダメよ? ほーら、クロウくん。傷なら自分で塞げるはずでしょう。私が教えてあげたこと、忘れちゃったの?」
忘れてません。
あなた達に教わったことを忘れるわけがない。
俺は、弱かったから。
この人達の中で、一番弱い奴だったから。
だけど、五年間、俺は確かに。
すごすぎる勇者の、仲間だったんだ!
「その格好も、まあ、悪くないぞ。クロウ。さあ、もう行け」
ゴーグルに、マスクに、外套にと、向こうの世界でもこっちの世界でもおかしな格好をしている俺を見て、アイギスさんが笑っている。
その声が、遠のいていく。
これは、俺の記憶だから。
いつまでも縋ってはいられない。
寂しいけれど、背を向けて。
俺が乗り越えなくちゃいけない現実に、戻らなきゃいけないんだ。
聞こえてくる。
アイギスさんの代わりに、別の誰かの声が近づいてきた。
へにゃへにゃと情けなくて、半分泣いているのか震えていて、いつもはヘラヘラいひいひ笑っているくせに、こんな時ばかり、普通の女の子みたいになりやがって。
ああ、わかってるよ。
今、ちゃんと起きる。だから、安心しろ。
言ったはずだ。
俺は、負けないからさ。
名前を呼ぶおまじないは、私が小学生の時に先生から教わったものです。
寂しい時や、悲しい時、悪い自分に流されそうなときは、自分で自分の名前を呼んでみましょう。
そんなことを言われました。
りっぱなおばちゃん先生だったなと思います。




