三十五 違和感
動きは完全に封じた。
この体勢、この状況なら、いつでも殺せる。
こいつを、オーガを追い詰めた。
「……躊躇、なしかよ、クソガキが」
一度だけ体を起こしかけたオーガが、俺の握ったナイフから逃れられないのを悟ったのか、全身から力を抜くのがわかった。
忌々しそうに呟いたその視線とゴーグル越しに目が合う。
「どうした? なんで殺さない?」
「お前にはまだ、聞くことがある。妻崎はどこだ? お前が誘拐した女だ! 言え!」
オーガの肌の表面にナイフの切っ先を僅かに押し付けながら、俺は今にも手に力を込めそうになるのを堪える。
殺してはいけない。
たとえ相手は人殺しでも、命だけは奪うなと自分に言い聞かせる。
どうすることもできない状況だ。
ここまでやればオーガも口を割るはず、そんな確信があった。
そのはず、だったのに。
「だから、お前は何の話をしてるんだ? 俺が、誰を誘拐したって?」
返事は俺が望んだものではなかった。
喉に食い込むナイフなど眼中にないかのように、オーガは鬱陶しそうに吐き捨てる。
「どうしても、シラを切るつもりか……っ!」
「切ってねえよ。何の話かわからないと、言ってるだろうが」
「お前が! 俺達グレムリンの名前を騙って妻崎を攫った! 警察が俺達を探して捕まえるよう仕向けるためにだ! 違うか!」
「……あ? 何でそんなまどろっこしいことをする必要がある? 俺はただ、調子に乗った馬鹿なガキを潰そうとしてただけだ。お前はそうなる前に、先手を打ちに来たんだろ? わざわざこっちのアジトに踏み込んでまでよ」
……何を、言ってるんだ。こいつは。
全く話が噛み合わない。
嘘や誤魔化しじゃなく、本当に自分がした悪事を理解していないようなこの態度。
「俺が、先手を打ちに来た、だって?」
「お前こそ嘘を吐くのは止めたらどうだ? はっきり言えばいい。俺を殺しに来たんだろう? 影でコソコソコソコソ、尾長の奴を殺した時みたいにだ!」
そう吼えた瞬間のオーガの表情は、怒りに染まっていた。
心の底から尾長の死を許せないと思っているかのような、激情を俺にぶつけてくる。
怒りどころか、悲しみさえ感じているようなその様は、とても演技には見えなかった。
「…………どういう、ことなんだよ」
おかしい。
根っこの部分から、何かが違うんだ。
俺は間違いなく尾長を殺していない。
そのことはオーガが犯人なら一番よく分かっているはずだ。
本人に直接罪を擦り付けることなんてできないのは百も承知のはず。
なら、どうしてこんなことを言う?
オーガの態度が俺を混乱させるための悪あがきでないとしたら?
追い詰められて、出まかせをまくし立てているのではないとしたら?
なんだよ、この気持ちの悪い感じは。
何か大切なことを見落としているような、焦りは。
いろは、と、俺が通信で全てを聞いているはずの司令塔に話を聞こうとした、その時だった。
「誰か……そこに、誰か、いるんですか?」
聞き覚えのある声が、耳をくすぐった。
恐る恐る話しかけるような口調に、いつものような明るさはない。
だけど、この声は、間違いなく。
「妻崎?」
抑えつけたオーガから視線を外した先に、背の高い女の子が立っていた。
ほんの数時間前に助けられなかった時と同じ、いつもとは違う私服姿の妻崎が、脅えたような表情でこっちを見ている。
「無事、だったのか」
格好は少し汚れてしまっているようだったが、手荒なことをされたような様子はない。
そのことを確認して、俺は自分の胸に詰まっていた何かが、ごっそりと抜け落ちていくのを感じた。
ああ、よかった。と。
助けることができたのだと。緊張と恐怖で強張っていた心が緩んでいく。
「えっと……あなたは?」
オーガの上から立ち上がって歩み寄る俺に、妻崎が不安そうな眼差しを向けてくる。
それもそうか。
俺の格好は、梶さんのおかげで多少マシになったとはいえ不審者そのものだもんな。
思わず笑いだしそうになったが、まだ気は抜けない。
とりあえずこいつを安全なところに連れていかないと。
「俺のことは、いい。ただ、助けに来たんだ。警察も、その、お父さんも、友達も、みんな君を探してくれてる。あいつに攫われたのは覚えてるよな? もう、大丈夫だから」
ここに妻崎がいるということは、やはりさっきのオーガの発言は嘘だったということらしい。
こっちを撹乱するためとはいえ、あんな支離滅裂な言い分をまくしたてるなんてな。
結局、ただの頭がおかしい殺人鬼だったのか。
俺は四肢にナイフを刺されたまま寝そべるオーガから視線を外して、妻崎の手を取る。
「あいつは危険だ。動き出す前に、さっさとここを出よ……う……?」
歩き出そうとした瞬間、妻崎がぐっと近づいてきた。
不意を突かれたせいで反応できず、俺はそのまま抱きしめられてしまう。
「良かったぁ、あたし、すごく心配でっ、不安で……たまんなくて」
「……気持ちは、わかる。しんどかったな」
体に回された手と、押し付けられた体の温かさ、微かに震えるその感触に、俺は頷いて答える。
自分の無力を感じた時の恐怖は知っている。
命を脅かされる苦痛がどれほど人の心を蝕むのかも。
「だけど、今は」
慰めるのは後でいい。
ゴーグルを着けた変人じゃなく、そういうのは橋爪久郎としての役割だろう。
そう思って、妻崎をそっと引き離そうとした時だった。
「あー、ほんと、良かったわあ」
耳元で楽しそうな声が、聞こえた。
「え」
今のは、誰の声だ?
いや、妻崎なのはわかってる。
でも、違う。
俺が知ってるあいつの声じゃない。
それに、なんだよ。これ。
どうなってるんだ。
「つ、まさき……お前」
俺は震える指先でそっと、自分の腹に触れた。
外套の下、黒い布地のスーツの隙間をすり抜けるようにして生まれた違和感の正体を確かめる。
そこに刺さっている何かの感触と、その何かを握ったまま笑顔を浮かべた妻崎の顔を見比べる。
「やー、あれだな? 怯えるヒロインを演じるってのも案外楽しいもんじゃねえか。こういう気弱な顔してりゃあ男がコロッと優しくなる。馬鹿みてえな話だけどよ、そりゃ美人に悪女が多いわけだ」
にこにことしながら、妻崎はまくしたてる。
早口で、聞いたこともない口調で。
「なあ、気分はどうだい? 色男さんよっ……とお!」
目元と口を吊り上げて笑う妻崎に、無造作に蹴り飛ばされた。
ずるりと、腹から何かが抜ける感触と共に、俺はなすすべなく後ろに倒れ込む。
「あっ……が、っはっ、あああああああっ!」
腹に穴が開いた。
途方もない痛みで、脳が体に起きた事実を理解する。
濁った悲鳴が自分の口から漏れるのを堪えることなんてできない。
俺は痛みの中心を手で押さえ、地面を転がった。
「はははっ、やっぱ刃物ってのはいいな。殺すのにちょいと手間がかかるのも、死ぬまで苦しんでる奴の姿を眺めていられると思えば良いところの一つになる。なんでもかんでも楽にやればいいってもんじゃあない」
床の上で芋虫のように悶える俺と、手の中でぬらぬらと赤黒く光る折り畳み式のナイフを色んな角度から、恍惚とした表情で眺める妻崎。
いや、違う。
妻崎のような誰か。
そこに居るのは、得体の知れない何かだった。
刃物で刺されるって、どのくらいの痛みを伴うのでしょうか。
試すわけにはいかないので、想像して書くしかありません。




