異界と現世の境界死線
化け物がすぐそこにいて。
怯えるお姉さんと目が合った。ただそれだけ。
でもそれだけで、頭にあったごちゃごちゃしたものが消えて、身体が勝手に動き出していた。
足元に転がっていた火のついた木材を拾い上げて、走り出す。
お姉さんの前に立っている熊のような化け物はまだ俺に気づいていない。
そのままだ! お願いだから、こっちを向くな!
化け物の背後まで駆け寄った俺は目を閉じて、その脇腹に燃える木材を突き付けた。
「グォ、ゴ、アアアアアアアアアアアア!」
ジュウッっと、肉の焼ける音がして、化け物が驚きと痛みで震える感覚が手から直接伝わってくる。
自分の意志で生き物を傷つけるのなんて初めてだ。
でも、仕方がない。
ごめんなさい。これで終わってください。許してください。
願いながら、俺は木材をさらに捻って体重をかけながら、化け物へと押し付け続ける。
「はっ……はっ、はあっ、はあ」
化け物が吠えた後、動きを止めていたのは本当に短い時間だった。
木材の先の火が消えて、ぶすぶすと黒っぽい煙が漂って、肩で息をするたびにむせ返りそうになる悪臭が口や鼻から入り込んでくる。
「ウゥ……? グルゥゥッ!」
熊のような化け物の視線がゆっくりと、自分の脇腹から、木材、そしてそれを握りしめている俺へと移ってきた。
何が起こったのかを徐々に理解したみたいだ。
その目が見開かれ、怒りで歪んでいく。
駄目だった。全然、効いてない。
まだ、こいつは動ける。
やってしまった。
馬鹿なことをした。
今ので完全に、こいつの狙いは俺になってしまった。
「うわ、ああ……やだ、いやだ……」
手の震えが、カチカチと歯が鳴るのが、止まらない。
握っていた木材が地面に落ちて、転がる。
こんなものでどうにかできるわけなかったんだ。
後退りする俺へと、牙をむき出しにした化け物が体を向けてくる。
「あんた……なんで……?」
視界の端っこの方に、尻もちをついた宿屋のお姉さんの驚いたような顔が見えた。
なんで、なんてどうでもいいだろう!
ぼうっとしてないで、今度は俺を助けてくれよ!
「ゴアアアアアアアアアアアアアッ!」
本当に命の危険を感じた時、人間はひいぃっ、なんて悲鳴をあげるらしい。
俺は目の前の化け物が涎を撒き散らしながら咆哮したその瞬間、背を向けて走り出していた。
殺される。
しゃれにならない。逃げるしかない。
走れ走れ走れ、なんでもいい、腕を振って足を動かして、速く速く速く、逃げるんだ!
死にたくない、怖い、嫌だ、まだ俺は!
こんなところで、死にたくないよ!
「だれっ、誰かあああっ! アイギスさん! クライブさん! 誰か! 助けて!」
がむしゃらに走りながら、喉が裂けるくらいに叫ぶ。
二人がどこにいるのかはわからない。
でも運よく気づいてくれれば、助けてもらえるはずだから。俺は自分を救えそうな誰かを必死に呼ぶ。
情けなく、格好悪く、涙と鼻水を拭くこともできないまま、叫ぶしかなかった。
全力で走っているはずなのに、後ろからダダタッダダタッと一定の調子で跳ねるような足音と、化け物の低い唸り声が張り付いてきている。
やばい。まっすぐ走ってたんじゃ追いつかれる!
俺は燃える町の中を、曲がり角でできるだけ不規則に曲がり、目につく狭い道を選んで走り続けた。
もう助けてくれる人なんて贅沢は言わない。
せめてどこかに、隠れるところくらいないのかよ!
必死に探してはみたけれど、化け物が俺を見失ってくれるような都合のいい物陰みたいなものは見つからなかった。
どこの家の扉も閉まっているし、それを開けている時間すらないんだから。
それでもなんとか逃げ続けられたのは、ほんの少しの間のことだったと思う。
「…………そんな」
飛び込んだ道の先が、塞がっていた。
火事のせいで道の脇の家の壁が崩れ、燃え盛る木材が何本も横倒しになっている。
これじゃ、進めない。
追いかけられているんだから、後ろにも戻れない。
逃げ道がなくなった。
そのことを理解して、頭が真っ白になる。
「嘘だ……なんでだよぉ」
俺は良い事をしたはずなのに。
人を助けたはずなのに。
それなのに、こんなのありかよ。
こんなのは、あんまりだ。神様、おかしいじゃないか。
自分の顔がぐしゃぐしゃに歪んでいくのがわかった。
漏れる声は自分のものじゃないみたいに弱くてか細い。
まるで赤ちゃんみたいだ。
「グォォ……ウゥゥ」
「!」
地を這うような声がして思わずふり返ったら、そこにはやっぱり化け物が居た。
優しさとか理性なんてものが欠片も感じられない二つの目が、俺を見据えている。
どう殺してやろうか。
できるだけ痛く、酷く、長い時間をかけて、殺す。
そんなことを考えているのがわかる目だった。
「……嫌だ……まだ、死にたくない」
こんなわけのわからない場所で、こんなわけのわからない化け物に食い殺されるなんて、嫌だ。
お腹の底から、怖さとは違う気持ちが沸き上がってくる。
こっちにやってきた最初の夜、クライブさんにいいようにやられていた時によく似たあの感じだ。
「倒さなくて、いい。勝とうなんて思わなくて、いい」
クライブさんが言っていたことを思い出す。
たった一つのことだけを考えろと自分に言い聞かせる。
何もしなければどの道死ぬんだ。
生きたいなら、生き抜きたいなら、やるしかない。
俺みたいに弱い奴は集中するしかない。
生きることに、自分の命を守ることに集中するんだ。
「ゴアアッ!」
熊のような化け物が吠えながら二本足で立ち上がったその時、震えが止まった。
こいつよりクライブさんの方が強い。
あのおっさんの方が怖いはずだ。
だったら、どうにかなる。
襲い掛かってきたら避ける。
避けて、こいつの横を駆け抜ければいいんだ。
深く息を吐いて、俺は前を向く。目の前に立っている敵を見据える。
「…………こいよ。来い!」
叫んだ俺に向かって化け物が右腕を振り上げて近づいてきた。
上からだ。
黄ばんだ色の爪が見える。
俺の顔に向かって斜め上から引き裂くようにして、迫ってくる。
そっちから振り下ろしてくるなら、避ける方向は!
――左だ! 首を左に倒せ!
繰り出されたその一撃をすんでのところで躱せたのは、ほとんど運だった。
理由や根拠のない、ただの勘だ。
だが、結果が全てだ。
当たらなかったという事実が、俺がまだ生きているという事実が全て。
「はアアッ!」
側頭部を掠めていったオーガの拳から視線を外し、身体を回して全力の蹴りを放つ。
しなりを利かせた一撃がオーガのがら空きの胴を打ち据える感触を足が捉えた。
「……今のを避けるか」
「ぐっ!」
それでもオーガの反応は薄かった。
脇腹に埋まった脚をすぐさま掴まれる。
しまった、と思った時にはもう投げ飛ばされていた。
目の前の世界が回り、全身に浮遊感が襲ってくる。
「がっ、はあっ!」
そのまま背中から壁に叩きつけられ、地面に落ちる。
視界の端にチカチカと光がちらつき、肺が潰されたせいで息ができない。
どうにか膝立ちの姿勢になるのでやっとだった。
やっぱり、普通の攻撃では駄目か。
あの強靭な筋肉相手じゃ、生半可な打撃は意味がない。
「はあっ……はっ……ふ……ふー」
呼吸を整えながら、意識を自分の右手へと移す。
オーガにダメージを与える方法ならある。
梶さんといろはの協力のおかげで温存できた魔力を使えば、可能ではあるんだ。
だが、その切り札を使うにはどうしても一瞬、溜めを作る時間が必要だ。
その一瞬をどうやって作り出すかなんだが。
『もしかしなくても苦戦してる、よね? 久郎くん』
「……まあな」
どうするかな、と思って立ち上がったところにいろはからの通信が入った。
しかし、のんびりお喋りしているわけにもいかない。
俺はオーガから距離を取りながら、小声で返事をする。
そうだ。思いついた。
いろはの力を借りればおそらく、オーガの動きを止められる。
「いろは、頼みがある。一回しか言わない。聞き逃すなよ」
『うん。任せて。私は何をすれば、いいのかな?』
「オーガの視界を奪う。狙うのは発電機だ。さっきのアレ、やってくれ」
我ながら雑な指示だとは思うが、オーガの追撃をどうにかやり過ごしている今、細かい指示を出している余裕はない。
動き回りながら、こっちの狙いを悟られないように注意を払わなきゃならない。
『……わかったよ。多分、大丈夫』
「ああ。任せた。お前にかかってるからな」
『うっひゃあ、なんかこの阿吽な感じ夫婦感あってドキドキしちゃ……』
「うるさい。集中しろ」
一応、俺の命を預けたつもりなんだが、その辺わかってるんだろうかあのワカメ女は。
こっちの意図をきちんと察してくれることを願うばかりだ。
ただまあ、軽口は叩くがあいつ、根っこのところは真面目らしいからな。
救われたこともある。
信じても、大丈夫だろ。
「行くぞ、いろは」
『了解だよ、久郎くん』
俺はオーガの猛追から逃げていた脚を止め、向き直った。
ここからは守ってやり過ごす時間じゃない。
こっちから攻めて、勝ち筋を掴みにいく。大切なのはタイミングだ。
最善の瞬間を作り出すまで、しんどくても怖くても我慢をする。
何をしたいのかを相手に気取られずに淡々と好機を狙うんだ。
姑息だろうとなんだろうと、俺の一番得意なやり方でやる。
俺が外套の下から投げナイフを抜いた瞬間、紫色の光が腕の先に向かって走っていくのが見えた。
正解だ、いろは。それをやって欲しかった!
「シッ!」
間髪入れずにいろはの力が宿ったナイフを投げる。
部屋の隅で動き続けていた、発電機めがけて。
「なるほど。そうくるか」
カツン、と硬い音がして発電機にナイフが刺さった瞬間、部屋の明かりが消える。
いろはがやったんだろう。
黒く染まった視界のどこかで、オーガが感心したように呟いたのが聞こえた。
「残念だったな。俺は夜目が利く」
「俺もだよ!」
暗闇の中でオーガの瞳の銀色の光が線を引き、迫ってくるのが見えた。
あの光のおかげであいつは俺を目で追えるんだろう。
こっちは薄っすらと輪郭を捉えるので精一杯だが関係ない。
衣擦れ、響く足音、呼吸音、気配を感じ取って、目で足りない分は補えばいい。
使うナイフは二本。
俺は腰元のホルスターから両手で一本ずつ抜き取る。
まず投げるのは左手の方だ。狙いはオーガの右目。
その投擲はこれまでと同じように避けられてしまうが、予想通りだ。
オーガが首を左に倒し始める前に、俺は時間差で二本目を投げていた。
回避する方向を予測したそのナイフはいくら反射神経が図抜けていても躱せない。
風を切って飛んでいったナイフはオーガの顔面に迫り。
「チッ」
軽く頭を下げたオーガの角によって弾かれた。
火花が散って、勢いを失ったナイフが虚しく宙を舞う。
だけど、それでいい。
その動きは俺が『させた』ものだ。
低くなった姿勢から、すくいあげるような動きでオーガが拳を振るってくる。
速いが、俺の避け方はもう決まっていた。
半身になってその一撃をやり過ごす。
腕を上に振り抜いたオーガの姿勢、これを狙ってたんだ!
「ぐ、おおっ!」
俺はオーガの角の一本を掴み、力一杯下に引き、その鼻っ面に膝蹴りを叩きこむ。
だが、まだ終わりじゃない。
角を握ったままの腕に力を込めて勢いをつけ、地面を蹴って跳ぶ。
オーガの肩を踏み台にして、さらにもう一段高く、身体を回しながら跳ぶ!
空中で背面のバックパックから丸い鉄の球を取り出す瞬間、オーガと目が合った。
銀色の瞳はしっかりとこちらを追ってきている。
そうだよな。
お前にはそれができる。
こっちの攻撃をよく見て、避けてくる。
だから!
「いろは!」
鉄球を握った手を振るった瞬間、閃光が迸った。
梶さんが準備してくれた閃光弾が炸裂したのだ。
「くぅう……っ!」
視界を焼かれたオーガが目元を抑えて苦悶の声をあげる。
夜目が利くという事は、それだけたくさんの光を拾うことができるということ。
鋭すぎる感覚が自分に牙を向くこともある。
対する俺はこの暗闇の中ゴーグルをかけている。
眩しいのは間違いないが、目を閉じてやりすごせないほどではなかった。
微かにだが、見える。
目を開ければオーガを見て行動できるんだ。
「はああああああああっ!」
着地までの時間に、右腕に意識を集中させる。
細い糸のような魔力を全身から集め、一本一本を捩じり結い上げていくようなイメージで、太くできるだけ強く、一つにしていく。
足が地面に触れた瞬間、自分の右腕が青白く光っているのがわかった。
渦巻く魔力が外に漏れ出している。
組み上がった。
この一瞬を作り出せた。
俺はオーガの懐に一歩で踏み込む。
お前の体は頑丈だ。殴っても、蹴っても効きやしない。
だから、手の形は拳じゃなく開いたままで、全身を捩じりながら筋肉を隔てた向こう側まで。
衝撃を内側に、通す!
「ブチ、抜けろ!」
「……ッ!」
こっちの肘まで跳ね返ってくる手応えと同時に、オーガの体が微かに宙に浮いた。
俺の掌底が突き刺さったその腹の内側は、爆ぜた魔力に蹂躙されているはずだ。
体の表面を殴ったのとは違う。
動けない。
どれだけ強くても、今だけは絶対に。
その今だけで、十分だ!
腰のホルスターから両手でナイフを抜いて逆手に持ち、体重をかけてオーガの両太腿に突き立てる。
手に伝わってくるのは肉に刃が埋まり、吹き出した血で濡れる感触。
容赦のない、本当に久しぶりで、懐かしく、恐ろしい感覚。
それでも、まだだ。ここで確実に仕留める。
もう一組ナイフを抜き出して、今度はオーガの両脇の下から刃を抉りこむ。
「が、ああああああああっ!」
飛び散った血がゴーグルのレンズを汚し、マスクの表面を生温かい飛沫がたたいたのがわかった。
俺は刺さったままのナイフから手を放し、悲鳴をあげるオーガを蹴り倒す。
そして、これで、ここまでやってようやく。
「終わりだ!」
俺は、仰向けに倒れたオーガの上に跨って、喉元にナイフを突きつけた。
過去の記憶と現在の状況が重なって切り替わる演出、やってみたかったのです。
もしかして分かり辛かっただけでしょうか。
じゃないといいのですが。




