異の捌 分かれ道
町が、燃えていた。
あちこちの家の屋根や、窓の中から、火の手があがっている。
そこから立ち上る黒々とした煙が、赤く照らされた夜の空に大きな影を作っていた。
「なんだよ、これ、ひどい」
森から一度も休まずに走って戻ってきたはずなのに、俺は荒い息をするのさえ忘れて、目の前で起こっていることの悲惨さに立ち尽くした。
くらくらと視界が揺れるのは、走りつかれたからというだけじゃないだろう。
熱さと煙たさ、そしてひっきりなしに聞こえてくる誰かの悲鳴で、胸が押し潰されそうになる。
「この感じ……魔物だけじゃない、どこかに魔族が居るな。さっさと見つけ出さないと」
アイギスさんが周囲を見回して、燃え盛る町の中に躊躇うことなく踏み込んでいく。
「クロウ、君はとりあえず宿に戻るんだ。おそらく、そっちに向かった魔物はリファとクライブが片付けているはずだから、下手にうろつくより安全だろう」
「え」
つまり、この状況で、アイギスさんと別れて行動するということだ。
宿までは普通に歩いたって、二、三分の道だけど、それが今の俺にとっては絶望的に遠く感じる。
「でもっ、その」
「怖いよね。だけど、私は行かなきゃならない。わかるね、クロウ」
思わず情けない声を出してしまった俺の両肩に手を置いて、アイギスさんがまっすぐな目で見つめてくる。
ああ、この人は戦わなきゃいけないんだな。ということが、俺にもわかった。
俺だけじゃなく、みんなのために、戦わなくちゃいけない。
選ばれた勇者だから、なんて理由で。
それがどれだけ重くて、恐ろしいことなのか、俺には想像もつかないことだ。
なら、せめて俺にできるのは自分のことを自分でやるくらいだろう。
「……気をつけるんだよ。もし魔物に出くわしたら、すぐ逃げるんだ」
頷き返した俺の肩から、アイギスさんの手の頼もしい感触が消えた。
背を向けて走り出し、どんどん小さくなっていくその背中を見送りながら、歯を食いしばって心細さに耐える。
追いかけちゃいけない。
ついて行っちゃ、駄目なんだ。
きっと、邪魔になる。
「ここからは、一人だぞ」
声に出して呟いて、自分に言い聞かせ、俺はアイギスさんとは違う方向に駆けだした。
燃え盛る炎のせいで、町の中は夜なのに明るかった。
そのおかげで、道の先に何があるのかはっきり見える。
どうか何もいませんように。見つかりませんように。と、角を曲がるたびにお願いをしながら、俺は走り続けた。
多分、俺の住んでいた世界なら交通事故に遭う方が難しいような距離だろう。
それでも、宿が見えてくるまでの道のりは永遠なんじゃないかと思うほど、遠かった。
「……やった、やったぞ。これで」
見覚えのある木造りの建物が、ようやく見えてきた。
あの中に入れば助かるんだ。
あそこで隠れていれば、アイギスさんや、クライブさんや、リファさんがなんとかしてくれる。魔物だかなんだか知らないけれど、みんなやっつけて、解決してくれるはずだ。
助かったら、この町で頑張って働こう。
全然知らない場所だし、友達も家族もいないけれど、死ぬほど怖い目に遭うより何倍もマシだ。
この町で暮らして、アイギスさん達がもとの世界に帰る手がかりを見つけてきてくれるのを、気長に待つんだ。
もう、それでいい。
それが、一番いいんだ!
そう思いながら、あと十数歩で宿の扉に手が届く所までたどり着いた。
その時だった。
「いやあああああああっ!」
誰かの悲鳴に、耳を貫かれた。
胸を抉られるような感覚に、足がすくむ。
なんだよ。
どうした。やっとここまで来たのに。
駄目だ。見るな。駄目だ、駄目だ見るな!
「はっ……はっ……」
それ、が見えた瞬間、心臓がドクンと強く跳ねたのを感じた。
悲鳴が聞こえてきたのは、宿の傍にある倉庫の方だった。
荷物を運ぶために使ったあのリヤカーなんかを中に入れてあるその入り口の辺りに、二本足で立つ大きな影が見えた。
毛むくじゃらの、熊みたいな姿をした化け物だ。
動物園なら間違いなく鉄の檻の向こうにいるような獣が、当たり前のようにそこにいる。
そして、その足元で、尻もちをついているあの人は。
「だれかあっ! お願い……助けて!」
朝方、一緒に働いた宿のお姉さんだった。
あのお姉さんが、今、目の前で殺されそうになっている。
それがわかったことで、心臓がさらに激しく跳ねる。
活発で、気の強そうだったお姉さんの顔は、目の前の化け物が怖いのか涙でぐしゃぐしゃになっていた。
きっと、手にも、脚にも力が入らないんだ。
俺も身をもって味わったから、わかる。
怖くて動けない。
死にたくないのに、動けない。
あの感覚を、俺はこの世界に来て知ってしまった。
「…………っ」
どうすればいいんだ。
なんでだよ。ここは安全だったんじゃなかったのか。
行くな。
見なかったふりをして、このまま宿の中に入って隠れているんだ。
そう思う自分がいる。
だけど、心のどこかで、もう一つの声が叫んでいた。
馬鹿じゃないのか。
何考えてるんだよと、罵りたくなるような声が、聞こえてくる。
なんで、助けなくていいのか、なんて、身の程知らずもいいところなこと考えてるんだよ!
「だれか! いやっ、こっち、くんなあっ! だれかあああっ!」
聞こえる。お姉さんが誰かを呼んでる。
助けを求めている。必死になって。
あの人が呼んでいる誰かはきっと、アイギスさんや、クライブさんみたいに強い人なんだろう。
俺みたいなチビで、弱っちい子どもなんかじゃない。
あの人を助けられる誰かのはずだ。
でも、ここには、俺しかいない。
見ているのは、動けるのは、俺しかいないんだ。
「ごめん、ごめんなさい……」
助けたいのに、体が動かない。
たった一日一緒に過ごしただけの相手だろう。
俺のことを役に立たないと言った相手だろうなんて、諦める理由をつけ始めている自分が、悔しくて、情けなくて、涙が浮かんできた。
俺が何もしなければ、多分、あのお姉さんは死ぬ。殺される。
でも、何かしたら、間違いなく俺が死ぬ。
もしかしたら、殺される人の数が二人になるだけかもしれない。
だったら、助けようとする意味なんてあるのか。
命をかけて、無駄に死ぬ。
そんなの、嫌だ!
時間はない。
今決めなきゃ、いけないんだ。
俺が、自分で選ばなきゃいけない。
「…………」
駄目だった。
やっぱり、脚が動かない。
俺にはできっこないよ。
俯いた俺の足元に、折れた木材が転がっているのが見えた。
近くで燃えている建物のどこかから転がってきたんだろう。
ぱちぱちと、音をたてながら燃えている。
火が、木を炭に変えていくように、心の隅っこの方から黒い染みがじわじわと広がっていくのがわかった。
ごめんなさい。許してください。
俺は、あなたを助けられそうにありません。
そう思って、俺は最後にお姉さんの方へと視線を向けた。
ここが久郎にとってのターニングポイントです。




