異の柒 少年はその世界の現実を知る
アイギスさんに連れられて歩いたのは、宿を出てから十五分ほどだっただろうか。
俺達がたどり着いたのは、ほんの五歩先の足元も見えないほどに暗い、夜の森の中だった。
俺がこの世界で最初に目を覚ました場所に、よく似ている。
「あの、大丈夫なんですか? こんなところに来ても……」
狼のような化け物に食い殺されかけたことを、頭が勝手に思い出す。
あんな思いをするのは、もう嫌だ。
「普通の人なら、自殺しに来たようなものだろうね。この森は、いわゆる魔物の巣というやつだから」
「えっ!」
何でもないことのように言い放ったアイギスさんに対して、俺は思わず声をあげてしまった。
涼しい顔でなんてことしてくれるんだ、この人は!
喉をついて出そうになった悲鳴を、慌てて飲み込む。
それすらも、危ないと思ったからだ。
「ま、まさか、俺をここに置いていくつもりですか」
「もちろん、ちがうさ。君のことは私がきっちり守るから。ただ、それを見ていればいい」
頭の中に浮かんだ俺の最悪の予想を余裕のある微笑みで否定してから、アイギスさんは左手に持っていた盾を地面の上に置いた。
どういうことだろう。
化け物に爪や牙があるんなら、それを受け止められる盾は必要なはずなのに。
「その盾の上に乗ってくれ。そうすれば、魔物は君に手出しできなくなるからね」
「ええ、何ですかそれ」
アイギスさんの言っていることの意味が分からない。
乗れ、だって? 持て、を聞き間違えた?
俺は地面に置かれた盾に手をかけて、気がつく。
「なんだこれ、おっも!」
「持つのは無理だよ。それ、いわゆる伝説の盾ってやつだから。私はその盾に選ばれた、まあ、勇者ってところかな。持てなくても、その上に働く聖なる力の加護で弱い魔物を跳ねのけてくれる」
「伝説の……盾?」
言われてみれば、アイギスさんの盾の表面には金色の複雑な模様のようなものが描かれていた。
何を表しているのかはわからないけれど、凄い力を秘めていそうな雰囲気ではある。
伝説の武器や防具は、選ばれし勇者しか使えないっていうのはゲームなんかではよくある話だ。
「まあ、残念ながらまだ持っているのは盾だけでね。剣や鎧は、まだ探してる途中」
目の前の頼もしい女の人が、その勇者だっていうのか?
俺はアイギスさんの顔をまじまじと見つめてしまう。
歳は姉ちゃんと同じくらい。
でも、雰囲気が全然違う。
落ち着いている、というか、ちょっとやそっとのことじゃ揺るがない強さみたいなものを感じるんだ。
「……さあ、来たよ。今度こそ、盾に乗って」
周りをぐるりと見回して、アイギスさんが腰元に下げていた剣を抜いた。その時。
「あ、ああ、うああ」
聞こえてきた。化け物の、唸り声だ。
俺達を囲むように、四方八方から草木が揺れる音がする。
暗闇の中で動いている影の数は十匹じゃ足りないだろう。
俺を襲ったあの化け物みたいなのが、たくさんいる。
巣、という言葉の意味を、俺は今さら理解して息もできなくなった。
「やばいよ! こんなにたくさん! 逃げないと!」
「いいから。その上で動かず、見てるんだ」
アイギスさんは、縋りつこうとした俺の胸を手で押して盾の上に乗せた。
見る人を安心させるような、穏やかな表情をしていたのはそこまでのこと。
剣の柄を握りなおしたアイギスさんの目が、すうっと細く冷たくなる。
「そんなに長くは、かからないから」
アイギスさんの静かな呟きの後で、始まったこと。
俺は生まれて初めて、虐殺、という言葉が相応しい場面を見た。
アイギスさんの持っている剣が森の中に差し込む微かな光を受けて閃く度に、襲い掛かってきた化け物たちの前脚や後ろ脚が切り離されて宙を舞う。
首が跳べば、どす黒い血の飛沫が柱のように伸びる。
初めに聞こえていた唸り声や、咆哮は、途中から甲高い悲鳴に変わっていった。
自分のものではない血の中で、アイギスさんは踊るように剣を振るっていた。
淡々と、殺し続ける。
俺が見てるこれは、何だ?
これじゃ、どっちが化け物かわからない。
「ぐ、ごぉあああああっ!」
仲間をみんな斬り捨てられ、残された一匹が俺に向かって突っ込んできた。
だが、俺の目の前で見えない何かに阻まれたように動きを止める。
それがそいつの最後だった。
「残念だったな」
アイギスさんは一気に距離を詰めて、俺の前の化け物を袈裟斬りにしてしまう。
派手に飛び散った血が全身にかかるのを感じながらも、俺は声すらあげられなかった。
「すまない。汚してしまったね。帰ったら、風呂に入らないとな」
剣を一振りして鞘に収めた後、アイギスさんは自分の頬に着いた血を手の甲で拭って、俺を見る。
「こういう時、自分の髪が黒くて良かったと思うよ。血で汚れても、あまり目立たないからね」
ぬらぬらとした液体で湿った自分の髪の毛の先を、アイギスさんは眺めていた。
当たり前のものを見るように、気にした様子もなく、ただ汚れたとしか思っていないような目だった。
「は……はあ……う、うぅ」
生臭い。息をするたびに血の匂いが鼻から体の中に染み込んでくるみたいだ。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い!
吐きそうだ。
いや、吐いてしまった方が、楽になれるのかもしれない。
体の中から、この匂いを追い出してしまわないと、気が変になりそうだ。
「これで、わかっただろう」
口元に手を当てて俯く俺の背中をさすりながら、アイギスさんは言った。
「勇者なんて呼ばれているが、私が進むのは常に何かを殺し続ける道だ。全身、いつも血まみれさ」
まともじゃない、と、アイギスさんは息を吐く。
自分が勇者だという女の人の、何かを諦めたような呟きに俺は気づく。
これがゲームなら、画面から化け物が消えていって、経験値やらお金やらアイテムなんかを手に入れるところなんだろう。
だけど、目の前に広がっている、これは違う。
舌をだらりと垂らして、開いたままの目で狼の化け物の生首が俺を見ていた。
これが、現実なんだと。本当の姿なんだと、気がつく。
「私と一緒に来るということは、こういうことだ。クロウ、君にその覚悟はあるかい?」
念を押すように、アイギスさんが俺の目を覗き込んでくる。
血に汚れた、それでも静かな顔で。
無理だ。
俺には、できない。
弱いとか、強くなるとか、そういう問題じゃないんだ。
とても耐えられない。
こんなものを毎日見ていたら、心が死んでしまいそうだ。
「ごめんなさい。俺……」
やっぱり、あの村に残ります。
そう言おうとした。その時。
「……っ! なんだ!」
遠くから、音がした。
初めは何かが爆発するような大きく耳を貫くような音。
その後に、地面を這ってくるような低い音が響いてくる。
雷みたいだな、と思った。
「え、あっちって……」
思わず顔を上げるとすぐに、その音がどこからのものか分かった。
「これは、まずいな」
見れば、宿がある町の方角の空がオレンジ色に染まっていた。
あの光はなんだろう。
何か、燃えているんだろうか。
「敵だ。多分、襲撃されてる……こんな時に」
町の方角と、俺を見比べて、アイギスさんの表情が渋いものになる。
敵って、まさか魔物のことか?
「急いで戻らなきゃいけない。走るよ、クロウ。なんとかついて来い」
「え、ちょっと! 待ってくださいよ!」
言うが早いかアイギスさんは町に向かって猛然と走り出した。
嘘だろ。めちゃめちゃ速い。
置いていかれて、魔物にでも出くわしたら今度こそ死ぬ。
そう思って、俺は死に物狂いでその背中を追いかけ始めた。
この異世界チャプターの話数、格好つけて旧字体になんかするんじゃなかった!
めっちゃ面倒くさい!




