二十八 その言葉はまた届かない
昼飯を取ってから四時間くらい、俺達は約束通り図書館で勉強をした。
いや、俺の勉強を付きっきりで見てもらった、という方が近いか。
数学を中心に、時間の許す限り中学校の内容をふり返っていった形になる。
おかげでだいぶ理解できるようになった……はずだ。
「いやー、それにしても久郎がここまで勉強できないことになってるとは思わなかったなあ」
図書館を出て、その横にある大きな公園の中を並んで歩いていた時、妻崎がそう言って笑った。
確かに妻崎にとっては大した勉強にはならなかっただろうからな。
長々と付き合わせて申し訳なかった。
「悪い。やっぱり、迷惑だったな」
「ちがうちがう。ただ、あんたがお勉強のことじゃ、しばらくあたしに頭が上がんないかなって思っただけ」
にひひ、と冗談めかすように妻崎がふんぞり返る。
良かった。
流石にうんざりしたんじゃないかと心配だったが、杞憂だったらしい。
こいつは面倒なことは面倒だと、はっきり言うからな。
「感謝してるよ。妻崎歩美様」
「おうおう、くるしゅうない。おもてをあげい、クロの字よ」
素直に下げた俺の頭をぽんぽんと妻崎が叩く。
くそ、やっぱ背が高いな。
これはちょっと悔しい。
「それにさ……」
「ん?」
俺の頭から手を放した妻崎の声の調子が変わった。
思わず、その顔を見てしまう。
「仕方ないよ。中学、まるごといなかったんだもんね」
妻崎の目は、どこか遠くを見つめていた。
何かを思い出すように、振り返るように。
その声は少し沈んで聞こえる。
それを俺が居なかった五年間のせいだと思うのは、自惚れだろうか。
「なあ、中学ってのは、どんな感じだったんだ?」
この二週間で妻崎とはたくさんの無駄話をしたが、決してその頃の話には触れてこなかった。
妻崎自身の話もだ。
こいつなりに、気を遣ってくれていたんだと思う。
俺のことは話せない。
だから、せめてこいつの話を聞きたいと思った。
「そうだなあ。あたし、基本的に部活ばっかだったからさ。あんまし参考にならないかもしれないよ?」
むむむ、と唸りながら腕を組んで、妻崎が眉根を寄せる。
「それでも構わない。聞かせてくれ」
「んー、なんていうかねぇ、小学校の時よりも色々、自分で決めなきゃいけないことが増えた? みたいな感じだったかなあ。勉強にしても、部活にしても、クラスのあれこれにしても、先生の言いなりってのは減ったと思うよ」
言いながら、首をひねる妻崎。
自分の中でも上手くまとめられていないと感じたのかもしれない。
「自由にできることが増えたってことか?」
「自由にっていうか、自己責任っていうほうがしっくりくるかも。楽しいことも、しんどいことも、自分で選んでいく感じ」
「……そういうもんか」
いまいち、ピンとこない話だった。
それはまあ、置かれていた状況が違い過ぎたせいでもあるだろう。
俺にとって何かを選ぶ時はいつも、追い詰められた時だったから。
こうするしかない、これしかない、という日々の中に現れた選択肢は、間違えば命を落とすような二択ばかりだったように思う。
やりたいことなんて、なかった。
やるしかないことばかりだったから。
「今だから言うけどさ。あたし、あんたのこと忘れちゃおうって思ってた時期があったんだ」
妻崎が呟いたその言葉が、ぽつりと俺の中に小さな染みを作る。
「そうか。まあ、仕方ないよな」
突然いなくなって、五年もそのままだ。
死んだと考えるのが普通だろう。
そのことは分かっているはずなのに、心がひどくざわつく。
「でもね、無理、だったんだ」
それを言った瞬間の妻崎の感情を、俺は読み取れなかった。
泣きそうで、笑い出しそうで、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。
あともう少し何かが加われば崩れ出してしまいそうな、そのバランスを保ちたくて、俺は何も言えなくなった。
「中学の入学式の日、張り出されたクラス分けの紙にあんたの名前がないか、探してた。部活が本格的に始まった時、あんたは何部に入りたかったんだろうって考えた。体育祭とか、文化祭とか、修学旅行とか、楽しいイベントの前になるとね。早く帰ってこないと、終わっちゃうぞっていっつも思ってた」
俺が、放り込まれた世界で必死になって生き延びようとしている間、こっちの世界でも時間は流れていた。
知らず知らずのうちに、見ることができなかった何か、失ってしまった何か、変わってしまった何かが、山ほどあったんだろう。
妻崎は、それを教えてくれる。
勉強と、同じように。
「卒業式の日に、ようやく、もう会えないんだって諦められたのにさぁ」
震えだしたその声を聞いて、まっすぐに俺を見つめるその目に浮かんだ涙を見て、なんだよそれと思う。
俺だって、帰ってきたかった。
一日だって早く。
家族に会いたかった。
友達に、お前にだって、会いたかった。
向こうの世界にだって良い事はあったけど、良い人達と出会う事だってできたけど、得たものだってあったはずだけど。
だけど!
こっちの世界のことを忘れたことなんて、一日もなかったんだ。
「おっそいんだよぉ、バカくろぉ」
とうとう、妻崎の目から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
いつもは気の強そうな目が赤くなって、口元がへの字に曲がっている。
ひどい顔だと思った。
でも、そうさせたのは、俺だった。
「ごめんな」
これでも、精一杯急いだんだ。
許してくれ。
俺にできるのは、うなだれて謝ることだけだった。
どんなに悔やんでも時間を巻き戻すことはできない。
たとえやり直せたとしても、またあの世界で生き抜くことができるかさえ自信がなかった。
「あたしこそ、ごめん。帰ってきてくれたから、もういいよ。許す。けど!」
妻崎は頭を振って、ごしごしと目元の涙を両手で拭う。
そして。
「またいなくなるのだけは、ナシだからね!」
そう言って、明るく笑おうとしてくれた。
だいぶ不格好ではあったけど、何とか笑顔には見えるその表情に俺は救われる。
「ああ……わかった。約束する」
頷いて答えながら、俺は何故か、昨日いろはに指摘されたことを思い出していた。
あいつの言う通り、こっちの世界で居場所を見失うほど俺は変わってしまった。
だけど、元通りの生活に、ただの高校生としての橋爪久郎に戻りたい気持ちは確かにあるんだ。
毎日学校に行って、妻崎だけじゃない他の友達も見つけて遊んだり、勉強したりして、部活で体を動かすのもいいかもしれない。
そして、一日の終わりには家族が待っている家に帰る。
それはとても幸せなことのはずなのに、想像すると心の底の方が落ち着かなくなる。
いいのか。と。
お前が本当にしたいことは何だ。
できることは何だ。と。
そんな疑問が浮かんでは、答えを出す前に沈んでいく。
何かを忘れているような満ち足りなさを感じるのは、俺の心が歪んでしまったからなんだろうか。
「……あの、さ、久郎。五年前、あんたが居なくなった日、何してたか覚えてる?」
黙り込んでいた俺をじいっと見つつ、妻崎が下の方で自分の手を組んで歯切れ悪く訊いてきた。
「俺が居なくなった日…………ああ、確か、お前と一緒にデパートで買い物してたんだったな」
妙な光に飲み込まれる前、俺達はショッピングモールに居たのだ。
いろはの話では俺が居なくなった後、あの場所で魔族が暴れたことになるが、今も店はやっているんだろうか。
俺が武器を揃えるために行った学校近くのショッピングモールは、似たような雰囲気だったが。
「あれが三月のことだったから、そうだ、ホワイトデーだ。お前、バレンタインには女子から山ほどチョコ貰ったもんな。俺もついでに渡されてたから、二人でお返しを買いに行ったんだっけか」
その後の出来事が衝撃的過ぎて、記憶から抜け落ちていたが、どうにか思い出すことができた。
面倒見が良くて快活な妻崎は、小学生の頃、女子に人気があった。
こいつとよく一緒にいた俺も、そのおこぼれに義理チョコを大量に渡されていたのだ。
「いやあ、でも、小学生ながらに女子ってのは凄かったよな。義理のチョコでもがっつり手作りだったし」
「……あたし、あんたのそういうとこだけは昔っからホント嫌い」
「は?」
「ほら、そういうところ。いつか叩き直してやるから、まあ、今はいいよ。とにかく、覚えてるんだね」
「お、おう。大丈夫だけど」
なんでお前は凄みをきかせてこっちを睨んできてるんだ?
たじろぐ俺にわざと聞かせるように大きく溜息を吐いて、妻崎が腰元に手を当てる。
「あのさ、あたし、あの日、あんたに言いたいことがあったんだ」
「はあ、そうなのか」
何故かわからないが、妻崎はまだ怒っているらしい。
俺と視線を合わせず、そっぽを向いている。
しかし、五年も前に言おうとしてたことを覚えてるなんてな。
律儀な奴だ。
「その……あのね! あたし、あんたにチョコのお返しすんのやめようって言おうと思ってたの」
「何で? 返す量が多すぎて、金が足りそうになかったのか?」
「違う! あーもう! わっかんないかな! あたしはっ、あんたにっ! お返ししてほしくなかったの!」
「いや、全然意味がわからないんだが」
そんな頬や耳まで真っ赤にして怒るほどのことだろうか。
あの時、妻崎がそう言っていたら、俺はお返しを止めていただろう。
もしくは適当に袋詰めのお菓子でも買って、最低限の礼儀を通したくらいか?
そんな話を五年も経った今、わざわざ蒸し返す必要なんてあるだろうか。
「だからあ、あたしは小学生の時から、あんたに、あんたのことがさ……」
妻崎がピンと伸ばした両手を反り返らせて、ぎゅっと目を閉じ、何かを言いかけた時だった。
「妻崎歩美だな」
背骨の辺りを、冷たい何かが伝っていくのを感じた。
聞きなれない声と共に怖気と呼ぶべき感覚が、背後からやって来る。
「うわ、びっくりした! 誰っ?」
突然割り込まれて驚いたのは、妻崎も同じだったんだろう。
俺の後ろにいる誰かを見て、素っ頓狂な声をあげた。
「……あんた、何者だ」
ふり返って、俺はそいつと妻崎の間を遮るよう微妙に体の位置をずらす。
後ろに立たれるまで、全く気がつかなかった。
誰だかわからないが、多分、通りすがりの人間じゃない。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
深くて暗い青色のパーカーを着ていて、フードを目深にかぶっている。
そのせいで顔は下半分しか見えなかった。
身の丈は妻崎よりやや高いくらいだろうか。
肩幅が広く、パーカーの袖や胸の布地を押し上げる筋肉を見る限り、相当動ける奴なのがわかる。
「妻崎歩美、お前に用がある。俺について来てもらおうか」
男は間に立つ俺を丸っきり無視して、後ろの妻崎に話しかけた。
静かだが、重みのある声だ。
ちょっと待て。
ねらいは、俺じゃないのか?
この手の輩に襲われる心当たりはある。
だが、人質としてではなく、真っ直ぐ妻崎を連れていこうとする意味が分からない。
「え……何言ってんのこの人。怖い」
怯えた声と同時に、妻崎が俺の服の裾を掴んだのがわかった。
そりゃ見ず知らずの、それもフードを被った不審者について来いと言われれば怖いだろう。
「黙ってついてくれば、連れのチビには何もしない」
その一言で、男が俺をどうでもいいと思っていることがわかった。
口ぶりからすると、いろはや、グレムリンとか、俺が妙な格好で不良を退治していることには気づいていないようだが。
「ナンパなら他を当たってくれないか。こいつは、そういうことには興味がない」
「お前には関係ない。怪我をしたくないなら、黙って消えろ」
「…………」
駄目だ。
話が通じる相手じゃなさそうだ。
こいつは妻崎を連れていくためなら手段を選ばないだろう。
だとしたら、俺もそのつもりで動くしかない。
まずは妻崎が逃げる時間を稼ぐ。
そして、こいつと一対一になってから、戦って倒す。
目的を聞き出すのはその後でいいだろう。
俺が男の様子を窺い、どう行動するか算段をたてていた時。
「行くぞ」
男が躊躇なく、こっちに向かって一歩踏み込んできた。
俺を無視し、妻崎に向かって手を伸ばす。
「おい、ちょっと待て……」
「警告はしたからな」
「!」
止めようとした俺の目の前で、何かが破裂した。
妻崎を掴もうとした手とは逆の、男のかざした手の平から閃光がほとばしって、爆ぜる。
急激に膨らんだ空気が、猛然と襲い掛かってきた。
この感じ、魔法か!
足が地面を離れ、全身を浮遊感に包まれながら俺は何が起こったのかを察する。
殴られたり、投げ飛ばされたりしたんじゃない。
間違いなく、何かが爆発した。
目には見えない力をエネルギーにした攻撃。
そんなものが、こっちの世界にあるはずがない。
「ぐ、ううう……っ!」
飛ばされた体が地面に落ちる。
上手く着地することなんてできない。転がって勢いを逃がすので精一杯だった。
あちこちの肌が擦れて裂ける痛みが走ったが、気にしている暇はない。
「くそ、このくらいで」
「寝てろチビ」
膝をついて顔を上げた瞬間、男がまた俺に向かって手をかざしているのが見えた。
まずい。
この体勢からじゃ、避けられない!
そう思ったのと、顔面に平たい何かで殴られたような衝撃が走ったのは同時だった。
「か、は……つま、さ」
手足に力が、入らない。
体が勝手にのけぞって、倒れていく。
ふざけるな。今、気を失うわけにはいかない。
わかっているはずなのに、視界が端の方から黒く染まっていく。
「久郎! 久郎!」
薄れていく意識の中で俺が最後に見たのは、泣き叫ぶ妻崎を軽々と担いで飛び去る青いフードの男の姿だった。
またやられてるよ、この主人公。




