とても嬉しかったんです
「できること、ですか」
リールは鴇の顔をじっと見返す。普段は伏せられがちな顔には微かな怯えと強い意志が見えた。
「立ってする話ではないですね。中に入りましょうか」
◆
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
リールからお茶の入ったカップを受け取る。緊張で冷たくなった指先にお茶の熱が伝わっていく。鴇は下を向いて何度目かになる深呼吸をした。リールにできる事はないかと尋ねてから、鴇の心臓はどこんどこんと暴れてうるさい。
「それでは改めて。主のためにできることを探している、でしたか」
「……はい」
今更ながら自分がとんでもなく大それた、分不相応な事を口にしたと思い知る。何もできないくせに、と心に深く根を張った言葉がじくじく動いて自意識を締め付けた。しかし、それでもシーゲルのためにできる事をしたいというのは本音だし本心だ。鴇は何もできないと言った。シーゲルは何もできなくていいと言った。それでいいのかといえばきっと駄目だ。シーゲルは亡霊を殺したいという願いを叶える助力を鴇に頼んだ。鴇を選んだ。だったら、頼みを引き受けた鴇も相応の行いが必要だろう。幸いと言うべきか、亡霊を殺すのは今すぐではないらしい。それなら、鴇にも何か準備する時間はある。
「先生が亡霊を……その、殺すために、私にできる事って、あるでしょうか」
殺すという言葉はやはり口にするのに躊躇いがある。そんな鴇の様子は特に気にせず、リールはうむと考えた。
「主は何か言っていましたか?」
「私が何もできませんと言ったら、何もできないならできなくていい。側にはいるようにと言われました。やっぱり止めると言い出したら早くやれ、と言ってほしいと」
もう半月近く前の記憶だ。要は側にいて発破をかけろという事なのだろうが、未だに釈然としない。
「ではまず、トキ様はご自分を守れるようになった方がよいのではないでしょうか」
調子に乗るなと手厳しい事を言われても仕方ないと思っていたが、それを除いてもリールの返答は予想外のものだった。
「自分を守る、ですか……」
「はい。主がトキ様に側にいてほしいと言ったのでしたら、トキ様が主のためにできる、するべきなのは主の側にいる、居続ける事ではないかと考えます。世の中には様々な危険があります。主も、当然わたしも、トキ様が危険に脅かされないよう力を尽くします。ですが絶対に危険が及ばないとは言い切れません。主やわたしがいない時でも自分の身を守れるようになる。それが、いま主のためにできる事ではないでしょうか」
淡々としたリールの声はすんなり鴇の胸に落ちていく。ともすれば冷たい、素っ気ないとも感じそうなリールの口調は、できる限り無駄を省いたが故だと鴇は思う。リールは率直で、誠実だ。そうでなければ、鴇の要領を得ない問いにここまで真摯な答えをくれるものか。
「おや、どうしましたか? 体の調子が悪いのでしょうか」
「え、あれ」
視界が滲んでいた。頬を濡らしていくものがある。気づくと鴇は泣いていた。指先で目元を触ると、大粒の水滴がぼろぼろ落ちる。
「どこか痛む所はありますか、目眩や吐き気はありませんか」
「ちが……違うんです。どこも悪くありません」
鴇の側に移動してきたリールを手で制す。
「無理はいけません。慣れない生活が続きましたから、疲れが溜まっていたのではないでしょうか。今日はもう休みましょう」
違います違うんですと何度否定してもリールは聞かない。このままではいつかのシーゲルのようにベッドの中に押し込まれる。鴇は半ば引きずられながらこれは嬉し泣きだと白状した。
「嬉し泣き……知っています。人間は嬉しい事があった時、喜ばずに泣く事があると。今のトキ様はその状態なのですか?」
「はい」
鴇が頷くと床に涙がいくつも落ちて染みを作る。未だに止まる気配もない涙に当人も不安になってきた。
「トキ様にとって何か良いことがあったのですか?」
「リールさんが親身に相談に乗ってくれたのがとても嬉しかったんです」
「成程。では本当に体調は問題ないのですね?」
「はい。全く問題ありません。むしろ毎日元気です」
あっさり解放された鴇は座り直すと程よく冷めたお茶をごくごく飲む。飲んだ端から涙に変わっていく気がする。
「自分の身を守れるようになるといっても、何をしたらいいんでしょうか」
鴇に武術の心得はない。中学校時代、体育の授業で剣道をやったくらいだ。
「まず体を作る所から始めるのはどうでしょう」
「わかりました、体鍛えます」
「いきなり鍛えるのではなくて、体力作りから入るのがいいと思います」
「はい、運動します」
とりあえず腹筋から始めよう。
「リールさん、ありがとうございます。相談に乗ってもらえて凄く助かりました」
「こちらこそ、ありがとうございます」
なぜ礼を言われたのか分からず、鴇は目を瞬いた。
「どうしてリールさんがお礼を言うんですか?」
「あなたに感謝しているからです」
面と向かって謝意を伝えられて鴇は面食らう。鳩の豆鉄砲ならぬ鴇の豆鉄砲だ。
「トキ様が主に協力する筋合いはありません。本来、無関係なのだから当然だと思います。ですが、トキ様は主のためにできる事はないかと言ってくださる。それがとても、とても嬉しいのです」
リールの表情がいつもと違う。平時の無表情が緩み、仄かな笑みが溢れていた。席を立ったリールは鴇の手からカップを取ると手にしたポットから中身を足した。熱を取り戻したカップが鴇の手に戻される。
「わたしもできる限り手伝わせて頂きます。どうかあの人間を宜しくお願い致します」
深く頭を下げるリール。この世界は不思議な場所だ。
◆
シーゲルは大きな両開きの扉を押し開けた。木で作られた扉は歴史を感じると言えば聞こえはいいが、実の所古びてあちこちガタがきている。今だって片方開けるのにシーゲルが全身で押さなければ開かないし、軋む音がひどい。
「誰かと思えば、シーゲル殿ではないですか。どうされたのです」
迎えたのは城の魔術師たちを束ねる老人だ。奥には広いテーブルを囲んで話し合う魔術師たちの姿がある。シーゲルは扉を押した肩の痛みに顔をしかめた。
「魔術師長、扉を取り替えて欲しいって王に頼んだ方がいいんじゃないかな。何なら僕からも口添えするよ」
「若いのもおりますから、今の所何とかなっております。それよりどうしたのです。あなたからここに来るなんて珍しい」
「星占の解読に手間取ってるって聞いて手伝いに来たんだけど……余計なお世話かな」
「その事でしたか。余計なお世話なんてとんでもありません。今しがた、力を貸して頂けないかと手紙を届けに行かせた所です」
「そうなんだ。その人に無駄足に踏ませちゃったな」
「あなたに大層憧れているので頼みましたが、かわいそうな事をしました。じき戻ってくるでしょうから、少し話してやってください。カシューという若者です」
「僕に憧れたって何にもならないけどね、それくらいはお安いご用だよ」
「シーゲル殿も弟子を取られたそうで。まだ子供くらいの歳だとか。どんな風の吹きまわしですか」
「僕ってどんな風に思われてるのかね。そうだ、そのカシューって子、何歳かな」
「まだ二十かそこらだと思いますが……それが何か?」
「僕の弟子と歳が近いなら、話し相手になってもらえないかなあと思ってね」




