変異体
「……私?」
一ノ瀬の呟きに答えるように、巨大な齧歯類型が低い鳴き声を上げた。
その視線は明らかに一ノ瀬だけへ向けられている。
次の瞬間、巨体が沈んだ。
「一ノ瀬さん!」
魔物が地面を蹴る。
三メートル近い巨体からは想像できないほどの速さだった。
一ノ瀬は咄嗟に身体強化を使い、横へ大きく跳ぶ。
直後、さっきまで立っていた場所を巨大な前脚が抉った。
土が弾け、周囲へ飛び散る。
「っ!」
一ノ瀬は着地と同時に振り返り、右手を魔物へ向けた。
掌の前に炎が集まり、大きな火球を形作る。
少なくとも、先ほどの犬型なら一撃で仕留められるだけの威力はある。
火球が一直線に飛び、魔物の顔へ直撃した。
ドンッ!
炎が弾け、魔物の頭が大きく仰け反る。
だが――倒れない。
「嘘……」
確実に直撃した。
それなのに、目の前の魔物はすぐに顔を一ノ瀬へ向け直す。
「一ノ瀬さん、下がって!」
班員の男子生徒が横から斬り掛かった。
剣が魔物の脇腹を捉える。
浅い。
刃は毛皮の下へ僅かに食い込んだだけで止まった。
魔物が顔を動かす。
男子生徒が慌てて剣を構え直した。
しかし、魔物はそんな攻撃など気にも留めていないとばかりに、男子生徒を一瞥しただけで、すぐに一ノ瀬へ視線を戻した。
魔物が地面を蹴った。
その巨体が、再び一ノ瀬へ向かって弾ける。
一ノ瀬は身体強化を使って後ろへ跳びながら、右手を前へ向けた。
「それなら――!」
大量の魔力が一ノ瀬の周囲へ集まる。
その魔力が炎へと変わり、右手の先で急速に形を変えていった。
大きく広がる翼。
鋭く伸びる嘴。
炎で形作られた巨大な鳥が、一ノ瀬の前に姿を現した。
「これならどう!」
一ノ瀬が右手を振り抜く。
巨大な火の鳥が翼を広げ、迫る魔物へ向かって飛翔した。
魔物は正面から迫る炎を前にしても、速度を緩めようとはしない。
次の瞬間――。
ドォン!!
炎の鳥が正面から激突し、爆炎が魔物の巨体を包み込んだ。
その勢いに押され、巨大な身体が地面から浮き上がる。
そのまま後方へ吹き飛ばされ、太い木の幹へ激突した。
周囲へ枝や葉が降り注ぐ。
「や、やった?」
女子生徒が恐る恐る声を漏らす。
一ノ瀬は答えない。
魔物が吹き飛ばされた方向を睨んだまま、右手を下ろさなかった。
煙が晴れていく。
巨大な個体は倒れていた。
灰色の毛は焼け焦げ、脇腹には大きな傷ができている。
確実に効いている。
「さすがに倒しただろ……」
男子生徒が安堵したような声を漏らした。
その時、魔物の前脚が動いた。
「……まだよ」
一ノ瀬の声に、班員たちが息を呑む。
魔物は前脚を地面につき、ゆっくりと巨体を起こした。
「そんな……」
確実にダメージはある。
それなのに、立ち上がってくる。
一ノ瀬はその身体を睨む。
焼け焦げた毛の隙間から露出した皮膚。その表面に浮き出た太い血管が、先ほどよりも激しく脈打っていた。
ドクン。
ドクン。
「……何?」
一ノ瀬が眉を寄せる。
魔物が再び顔を上げる。
その目が捉えたのは、やはり一ノ瀬だった。
低い鳴き声を漏らし、再び地面を蹴る。
「また一ノ瀬さんを!」
班員の一人が声を上げる。
一ノ瀬は横へ駆け、迫る前脚を避けた。
巨大な爪が近くの木の幹を削り、木片が周囲へ飛び散る。
「なんで私ばっかり……!」
距離を取る一ノ瀬を、魔物が追う。
別の生徒が横から剣を振るっても、ほとんど反応しない。
そこで、一ノ瀬の頭に一つの考えが浮かんだ。
今日、この場所で自分が何をしたのか。
最初に犬型の魔物と戦った時、必要以上の魔力を込めた魔法を放った。
地面を大きく抉るほどの威力。
そして、この巨大な個体が現れたのはその後だ。
「……もしかして」
一ノ瀬は自分の右手へ一瞬だけ視線を落とす。
「あの魔法に引き寄せられた?」
確証はない。
だが、そう考えれば自分だけを執拗に狙っていることにも説明がつく。
「みんな、先に戻って」
突然の言葉に、班員たちが一ノ瀬を見る。
「え?」
「こいつが狙ってるのは私よ。あなたたちは先に管理棟へ戻って」
「そんなの無理だよ! 一ノ瀬さん一人じゃ――」
「あなたたちが残っていたら、私も好きに動けないの」
一ノ瀬は魔物から目を離さない。
「それに、先生たちにこいつのことを伝える人も必要でしょ」
班員たちは顔を見合わせた。
誰もすぐには動こうとしない。
「早く!」
強い声を上げると同時に、一ノ瀬は管理棟とは別の方向へ駆け出した。
その動きに反応するように、魔物も地面を蹴る。
やはり他の四人には目もくれず、一ノ瀬だけを追っていく。
「一ノ瀬さん!」
背後から声が聞こえる。
一ノ瀬は振り返らなかった。
「早く戻って先生たちに知らせて!」
走りながら右手を後ろへ向け、追ってくる魔物へ火球を放つ。
ボンッ!
火球が魔物の肩で弾け、その動きが僅かに鈍る。
その間に一ノ瀬はさらに距離を広げた。
背後から聞こえていた班員たちの声も次第に遠ざかっていく。
一ノ瀬は木々の間を駆けながら、時折後ろを確認する。
魔物はまだ追ってきている。
距離を詰められれば火球を放ち、その隙に離れる。
今は倒すことよりも、管理棟や避難している他の生徒たちから遠ざけることが優先だった。
ドォン!
少し威力を上げた火球が魔物の肩で爆発する。
一瞬だけ動きが止まる。
一ノ瀬はその間に距離を広げた。
「これなら……」
まだ十分に引き離せる。
そう思った直後だった。
背後から地面を蹴る音が聞こえた。
近い。
一ノ瀬が振り返る。
「っ!?」
魔物がすぐ後ろまで迫っていた。
一ノ瀬は身体強化を強め、咄嗟に横へ跳ぶ。
巨大な前脚が制服を掠める。
地面を転がった一ノ瀬は、すぐに立ち上がって魔物から距離を取った。
「……さっきより速くなってない?」
見間違いではない。
最初に襲われた時よりも、明らかに動きが速い。
一ノ瀬は魔物を見る。
毛皮は焼け、身体にはいくつもの傷がある。
それなのに、皮膚に浮かんだ血管は激しく脈打ち続けていた。
「何なのよ、こいつ……」
魔物が低い鳴き声を上げる。
一ノ瀬は再び森の奥へ駆け出した。
◇ ◇ ◇
「こっちなら大丈夫そうだな」
大和が前方を確認しながら言った。
僕たちは管理棟へ向かって森の中を進んでいた。
さっきまでいた場所からはかなり迂回している。
最短経路には大量の齧歯類型がいる。
あのまま進むより、遠回りでも安全な道を選んだ方がいい。
今のところ、その判断は間違っていなさそうだった。
「このまま行けば大丈夫そうだね」
僕はそう答えながら周囲を見る。
さっきまで何度も感じていた齧歯類型の気配も少なくなっている。
このままなら、時間は掛かっても安全に管理棟まで戻れるはずだ。
その時だった。
「……え?」
足が止まった。
「どうした?」
大和が振り返る。
僕はすぐには答えられなかった。
まただ。
何かを感じる。
でも、今までとは違う。
さっきまで森の中で感じていたものは、一つ一つが小さかった。
それがいくつも周囲に散らばっているような感覚。
今感じているものは、一つ。
なのに、比べものにならないほど大きい。
「……何だ、これ」
「また魔物か?」
村上君が剣へ手を掛ける。
「多分……」
自信はない。
そもそも、自分が何を感じているのかさえ分かっていない。
でも、いる。
この先に、今までとはまるで違う何かがいる。
いや――。
「違う」
「何が?」
「近づいてきてる」
僕の言葉に、大和の表情が変わった。
全員が武器へ手を掛ける。
その直後。
ドォン!!
森の奥から爆発音が響いた。
「今の!」
大和が音のした方向を見る。
僕も同じ方向を見た。
聞き覚えがある。
ついさっき森の中に響いたものほど大きくはない。
でも、よく似た音。
「……一ノ瀬さん?」
僕が呟く。
「またかよ!?」
「でも、さっきより近い」
村上君が周囲を見る。
その時、木々の奥から足音が聞こえてきた。
速い。
誰かがこちらへ向かって走っている。
「来る!」
僕たちは一斉に武器を構えた。
茂みが大きく揺れる。
そこから飛び出してきたのは――。
「一ノ瀬さん!」
制服の所々に土が付き、髪も少し乱れているが、間違いなく同級生の一ノ瀬さんだった。
「朝倉君たち!?」
一ノ瀬さんも僕たちを見て目を見開いた。
「なんであなたたちがここにいるのよ!」
「魔物が多くて迂回してたんだ!」
大和が答える。
一ノ瀬さんが何か言おうとした。
けれど、その表情がすぐに変わった。
「逃げて!」
「え?」
「早く! こいつが狙ってるのは私だから!」
その言葉とほぼ同時だった。
ズンッ!
大きな音が響く。
木の枝が折れ、葉が舞う。
一ノ瀬さんが出てきた方向。
木々の向こうから、巨大な影が姿を現した。
「……なんだよ、あれ」
大和の声が漏れる。
僕も言葉を失った。
三メートル近い巨体。
灰色の毛に覆われた身体にはいくつもの傷があり、その隙間から見える皮膚には太い血管が浮かび上がっている。
さっきまで何度も戦った齧歯類型。
姿だけなら、それとよく似ている。
でも、その巨体と全身から放たれる威圧感は、これまでの個体とは比べものにならない。
魔物は僕たちには目も向けず、一ノ瀬さんだけを見ていた。
「何してるの! 早く逃げて!」
一ノ瀬さんが叫ぶ。
けれど僕は、巨大な魔物から目を離せなかった。
怖くて動けなかったわけじゃない。
あの魔物を見た瞬間、身体の奥を今までとはまるで違う感覚が走った。
森の中で何度も感じたもの。
魔物がいると、なぜか分かったあの感覚。
それが目の前の巨大な個体からは――。
比べものにならないほど強く感じる。
「……何だ、これ」




