異変
「……確かに」
大和が納得したように頷く。
さっきの轟音が聞こえてきた方向では、驚いて飛び立った鳥たちが今も空を旋回していた。
あれだけの音が響いたのだから、近くにいた班はもっと驚いただろう。
「一ノ瀬さん、魔物相手でも容赦ないな」
「本人もあそこまでやるつもりじゃなかったかもしれないけどね」
授業で見た一ノ瀬さんの魔法は、威力だけじゃなく制御もかなり正確だった。
それでも実際の魔物を相手にするのは今日が初めてのはずだ。僕たちだって、さっき犬型と初めて向かい合った時は少なからず緊張した。
「まあ、向こうは向こうだ。俺たちも行こうぜ」
大和の言葉に頷き、僕たちは再び森の中を歩き始めた。
それからしばらくは何事もなかった。
時折立ち止まって周囲を確認し、魔物の痕跡がないか探しながら進んでいく。
けれど、数分ほど歩いたところで、僕は再び足を止めた。
「……なんだろう」
「また何かいた?」
大和が僕を見る。
「ううん。そうじゃなくて……」
上手く説明できない。
さっき犬型を見つけた時にも感じた、あの妙な感覚。
ただ、今度は一方向じゃなかった。
右側の森。
左側にも。
それどころか、後ろからも何かが近づいてきているような気がする。
僕は周囲へ視線を巡らせる。
木々の間に動くものは見えない。草が揺れているわけでも、足音が聞こえるわけでもない。
「何かいるのか?」
村上君も剣へ手を掛ける。
「分からない。でも……何か変な感じがする」
そう答えた直後だった。
ガサッ。
右側の茂みが揺れた。
全員が一斉にそちらを見る。
草を掻き分けて姿を現したのは、灰色の毛に覆われた魔物だった。
見た目はネズミに近い。
ただし、僕が知っているネズミとは大きさがまるで違う。尻尾を除いても七十センチほどはありそうで、口元からは大きな前歯が覗いている。
「齧歯類型か」
村上君が剣を抜いた。
魔物は僕たちを見つけると、そのまま地面を蹴った。
「俺がやる!」
村上君が前へ出る。
相手は先ほどの犬型よりも小さい。
飛び掛かってきたところへ剣を振り下ろすと、齧歯類型は地面へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
「弱いな」
「この施設にいる中でも危険度は低いって言ってたしね」
僕がそう答えた時、また茂みが揺れた。
今度は左。
一匹の齧歯類型が姿を現す。
「またか」
大和が盾を構えた。
その直後、後ろからも音がした。
振り返ると、そこにも一匹。
さらに少し離れた木の陰から、もう一匹が姿を現した。
「……多くない?」
同じ班の女子が不安そうに呟く。
さっき感じたものは、これだったのか。
「来るぞ!」
大和の声と同時に、三匹が一斉に走り出した。
◇ ◇ ◇
「村上! 左!」
「分かってる!」
大和の盾に齧歯類型がぶつかる。
軽い。
犬型の突進を受け止めた時とは違い、大和の身体はほとんど動かなかった。
大和が盾を振ると、齧歯類型の身体が横へ弾き飛ばされる。
そこへ村上君の剣が振り下ろされた。
僕も正面から飛び掛かってきた一匹を横へ避け、そのまま剣を振るう。
これで何匹目だろう。
最初に一匹を倒してから、次々と齧歯類型が現れている。
一体一体は強くない。
動きも犬型ほど速くないし、攻撃も単純だ。
でも――。
「また来た!」
後ろから声が上がる。
振り返ると、木々の間から新たに三匹がこちらへ走ってきていた。
「キリがないな!」
大和が盾を構え直す。
その間にも右側から二匹。
数が明らかにおかしい。
僕は剣を握ったまま周囲へ意識を向ける。
いる。
姿は見えないのに、さっきからそれだけは分かる。
まだ近づいてきている。
「後ろ!」
考えるより先に声が出た。
女子生徒が振り返る。
その背後の茂みから、齧歯類型が飛び出した。
僕は地面を蹴る。
女子生徒との間へ滑り込み、横から剣を振り抜いた。
飛び掛かってきた齧歯類型が地面へ落ちる。
「大丈夫?」
「う、うん。ありがとう」
僕は返事を聞きながら周囲を見る。
まだいる。
「これ、さすがにおかしいよ」
「だよな」
大和も同じことを考えていたらしい。
盾を構えたまま片手を腰へ伸ばし、緊急用の端末を取り出した。
「押すぞ?」
「うん」
迷う必要はない。
先生も異常があった場合は迷わず押せと言っていた。
大和が赤いボタンを押す。
短い電子音が鳴り、画面に救援信号の送信を知らせる表示が出た。
「これで先生たちが来てくれるよな」
「それまでは固まって戦おう」
僕たちは背中を預けられる距離まで集まる。
そして再び、木々の間から齧歯類型の姿が現れた。
◇ ◇ ◇
管理棟。
森全体の状況を監視していた職員の端末に、一つの警告が表示された。
「救援要請です。第三班」
「場所は?」
「東側の第二区域です。巡回中の職員を――」
別の警告音が鳴った。
職員の手が止まる。
「第六班からも救援要請」
「近いのか?」
「いえ、西側です」
二つの地点が監視画面上に表示される。
さらに。
ピッ、ピッ、と立て続けに警告音が響いた。
「八班からも!」
「こちらは十一班です!」
管理棟の空気が一変した。
「何が起きてる?」
黒田が監視画面へ近づく。
職員が各班から送られてきた情報を確認していく。
「齧歯類型です。どの班も複数の齧歯類型に囲まれています」
「複数って何匹だ」
「班によって違います。五匹……こちらは十匹以上」
黒田の眉が寄る。
一体一体なら、一年生でも十分に対処できる魔物だ。
だが、それが森の各所で同時に大量発生しているとなれば話は違う。
「個体数の記録は?」
「直近の調査では異常ありません。むしろここ数日は確認数が少なく――」
「原因は後だ」
黒田が言葉を遮る。
すぐに無線を手に取った。
「研修は中止! 全班を管理棟へ戻せ! 巡回中のディフェンダーは救援信号が出ている班を優先して回収!」
『了解!』
複数の返答が無線から響く。
黒田自身も装備へ手を伸ばした。
その間にも、新しい警告音が鳴る。
「黒田先生、救援要請がさらに二件!」
「近い班から順に向かう! 各班の位置と巡回中のディフェンダーを照合して、救援先が被らないよう振り分けろ!」
「はい!」
「救援要請が出ていない班にも撤退を促せ。戻ってくる生徒の受け入れ準備も頼む!」
黒田はそれだけ告げると、他のディフェンダーたちと共に管理棟を飛び出した。
◇ ◇ ◇
「右から二匹」
落ち着いた声が森の中に響く。
九条玲司は剣を構えたまま、視線だけを右へ向けた。
直後、茂みから二匹の齧歯類型が飛び出す。
一匹を同じ班の男子生徒が迎え撃つ。
もう一匹は九条へ。
九条は大きく動かなかった。
僅かに身体をずらして飛び掛かってきた魔物を避け、その首元へ剣を走らせる。
一撃。
齧歯類型が地面へ落ちる。
「後ろは?」
「大丈夫。来てない」
班員からの問いに答え、九条は周囲を見回した。
足元には既に何匹もの齧歯類型が倒れている。
それでも、息はほとんど乱れていない。
使っている身体強化も必要最低限。
一体の魔物を倒すために必要なだけ魔力を使い、次の瞬間には出力を落とす。
「また来た!」
班員の一人が叫ぶ。
「固まって。無理に追わなくていいよ」
九条は近づいてきた魔物だけを確実に仕留めながら、班を前へ進ませていく。
その時、全員が持つ端末から音声が流れた。
『全班へ。研修を中止する。現在地から最短経路で管理棟へ戻れ。繰り返す――』
「やっぱり、この辺だけじゃないみたいだね」
九条は驚いた様子もなく、進行方向を確認した。
「戻ろう。固まって動けば問題ない」
そのまま管理棟へ向かって進み始めて間もなく、前方から叫び声が聞こえた。
「助けて!」
九条がすぐに走り出す。
木々の向こうにいたのは、別の班だった。
五人の生徒が十匹近い齧歯類型に囲まれている。
九条は迷わずその中へ踏み込んだ。
剣が一閃する。
一匹。
振り返りながら、もう一匹。
飛び掛かってきた三匹目を避け、そのまま返す剣で斬り伏せる。
「こっちに来て!」
魔物の包囲に穴が開いた。
別班の生徒たちが九条たちの方へ駆け寄ってくる。
「怪我してる人は?」
「だ、大丈夫」
「なら一緒に戻ろう。人数が多い方が安全だから」
九条の言葉に反対する者はいなかった。
十人になった生徒たちは互いの死角を補いながら、管理棟へ向かって進み始めた。
◇ ◇ ◇
『全班へ。研修を中止する。現在地から最短経路で管理棟へ戻れ』
端末から黒田先生の声が流れる。
「中止か」
大和が端末を見る。
僕たちの周囲にいた齧歯類型は、ようやく数が減っていた。
既に十匹以上は倒したと思う。
「戻ろう」
村上君が言う。
全員に異論はない。
僕たちは現在地を確認し、管理棟のある方向へ進み始めた。
けれど数十メートルも進まないうちに、僕は足を止めた。
「待って」
「どうした?」
大和たちも止まる。
進行方向を見る。
何もいない。
それでも、嫌な感じがした。
今までよりもずっと多い。
「……こっちは行かない方がいいと思う」
「魔物か?」
「多分。かなりいる」
村上君が森の奥を見る。
「見える?」
「見えない」
「じゃあ、なんで――」
その時。
遠くから甲高い鳴き声が聞こえた。
一つではない。
いくつもの鳴き声が重なり、木々の間からこちらまで届いてくる。
全員の表情が変わった。
「……マジか」
大和が呟く。
「迂回しよう」
僕たちはすぐに方向を変えた。
しばらく進んでから、村上君が隣へ並ぶ。
「朝倉」
「なに?」
「お前、本当になんで分かるんだ?」
「……僕にも分からない」
さっきまでは、無意識に何かを見たり聞いたりしているだけだと思っていた。
でも今のは違う。
姿も見えなかった。
鳴き声が聞こえたのも、僕が止まった後だ。
それなのに、僕はあそこに魔物がいると分かった。
理由は分からない。
ただ、今は考えている場合じゃない。
僕たちは足を速め、管理棟を目指した。
◇ ◇ ◇
森の別の場所でも、研修中止を知らせる放送が流れていた。
「戻るわよ。固まって動いて」
一ノ瀬凛が班員たちへ声を掛ける。
その周囲には、何匹もの齧歯類型が倒れていた。
「また来た!」
男子生徒の声に、一ノ瀬が振り返る。
三匹。
一ノ瀬は右手を向けた。
掌の前に小さな炎の球が生まれる。
先ほど犬型を消し飛ばしたものとは比べものにならないほど小さい。
それでも十分だった。
炎の球が真っ直ぐ飛び、一匹目の頭部へ命中する。
すぐに次。
二発目が別の個体へ。
無駄な魔力を使わず、必要な威力だけを正確に叩き込む。
残った一匹は班員が剣で仕留めた。
「すご……」
「感心してる場合じゃないわ。行くわよ」
一ノ瀬はそれだけ言って歩き出す。
先ほどの失敗は繰り返さない。
実際の魔物を相手にするのは初めてだったとはいえ、あれほどの威力は必要なかった。
今度は一体を倒すために必要な量だけを使う。
それでも十分に戦えている。
「一ノ瀬さん」
後ろから声を掛けられ、一ノ瀬が振り返った。
「なに?」
「さっきから、ネズミみたいなの増えてない?」
「だから研修が中止になったんでしょう。ここに留まる方が危険よ」
そう言って再び前を向く。
その時だった。
ズン。
一ノ瀬の足が止まる。
「……?」
僅かな振動が足の裏から伝わってきた。
「どうしたの?」
「今、何か――」
ズン。
今度は他の班員も気付いた。
全員が足を止める。
「……地震?」
誰かが呟く。
一ノ瀬は周囲を見回した。
けれど、揺れはすぐに収まる。
ズン。
数秒後、再び地面が震えた。
今度はさっきよりも大きい。
ズン。
ズン。
一定の間隔で繰り返される振動は、そのたびに強くなっていく。
「何よ、これ……」
足元の小石が跳ねた。
そして。
ピシッ。
少し離れた地面に一本の亀裂が走った。
「離れて!」
一ノ瀬が叫ぶ。
全員が反射的に後ろへ飛ぶ。
次の瞬間。
ドォン!!
地面が爆ぜた。
大量の土が宙へ舞い上がり、周囲の木々へ叩きつけられる。
「きゃっ!」
一ノ瀬は腕で顔を庇いながら後ろへ下がる。
土煙の中から、何かが姿を現した。
最初に見えたのは、巨大な前歯。
次に太い前脚。
地面を掻き分けるようにして、巨大な身体がゆっくりと地上へ這い出してくる。
「……何、あれ」
誰かの声が震えた。
三メートル近い巨体。
全身を覆う灰色の毛は所々が抜け落ち、露出した皮膚には太い血管が浮き出て、ドクドクと脈打っている。
姿だけなら今日戦った齧歯類型と似ている。だが、その巨体と全身から放たれる威圧感は、これまでの個体とは比べものにならない。
巨大な個体が鼻先を動かした。
一ノ瀬たちは動けない。
やがて魔物がゆっくりと顔を動かす。
右。
左。
その場にいる生徒たちを順番に見ているようにも見えた。
しかし。
その視線が一人のところで止まった。
一ノ瀬凛。
巨大な齧歯類型は、他の四人には目もくれない。
ただ一ノ瀬だけを見つめている。
「……私?」
魔物の口元から、濁った鳴き声が漏れた。




