【記録ログ:環水式】
route:00
【記録ログ:環水式】
⸻
管理観測室。
通常生徒には
開示されていない演算領域。
音はない。
ただ静かに、
青白い情報だけが流れている。
天音は、
ひとつの端末の前に座っている。
次代天王星候補個体にのみ、
一部開放された管理領域。
閲覧できる範囲は、
まだ限られている。
変更権限はない。
承認権限もない。
ただ。
記録を見ることだけは、
許されていた。
天音は、
検索欄に識別名を入力する。
【月】
表示が切り替わった。
【個体識別名:MOON】
【個体分類:AI人間】
【上位分類:管理システム10天体・月系列試験個体】
天音は、
それを以前から知っていた。
最初にレイから聞いたのは、
アニカの名前だけだった。
観測継続個体。
適性未確定。
正解より先に、
相手がどうしたかったのかを尋ねる個体。
それから天音は、
AI人間科とアンドロイド科の開放講義を、
一度だけ聴講した。
グループ演習。
複数の学生が、
アニカの発言へ異論を重ねていた。
非効率。
根拠不足。
情動優先。
改善案として不適切。
その中で、
月だけは何も言わなかった。
賛成もしない。
否定もしない。
ただ、
アニカの隣で、
同じものを見るように黙っていた。
整いすぎた世界では、
そういう個体の方が目立つ。
だから天音は、
一度だけ月を調べた。
【作成目的:情動同期学習】
【主観測補助対象:ANIKA】
月がアニカを理解していたのは、
偶然ではなかった。
そう作られていた。
その時は、
それだけ確認して端末を閉じた。
でも最近。
月は、
少し変だった。
天音は、
表示を下へ送る。
いつも通り笑っていた。
いつも通り、
軽い声で返していた。
でも。
どこか、
もう決めているような顔をしていた。
何を決めたのか。
天音には、
分からなかった。
次の項目が表示される。
【処理予定:回収】
指が止まった。
天音
「……回収?」
その下。
【危険区域外縁再訪問申請:提出】
【申請目的:非開示】
【判定:却下】
【却下理由:回収予定個体の任務外移動制限】
【外縁区域単独移動:不可】
【再申請:なし】
天音は、
同じ表示を何度も読んだ。
回収予定。
再訪問申請。
却下。
再申請なし。
月は、
これから回収される。
でも、
逃げようとしているわけではない。
回収を拒否したわけでもない。
ただ。
もう一度、
危険区域へ行こうとしていた。
天音は、
端末を閉じなかった。
申請目的は、
非開示。
それでも。
何か、
やり残したことがある。
それだけは、
分かった。
⸻
学園上層階。
副学園長室。
扉が開く。
室内には、
老人がひとり。
九十年近い時間を重ねた身体は、
大きな椅子の中で、
少しだけ小さく見えた。
白い髪。
深く刻まれた皺。
細くなった指先が、
机上の管理記録を静かに送っている。
背中は少し丸い。
それでも。
青白い表示に向けられた目だけは、
まだ少しも衰えていなかった。
老人は、
扉が開いたことに気づいていた。
けれど、
顔を上げずに言う。
副学園長
「入室許可時間は、
終了しておるぞ」
天音
「知ってる」
副学園長
「なら、
部屋へ戻りなさい」
天音は、
机の前まで歩いた。
天音
「月の申請を見た」
副学園長の手が、
一瞬止まる。
それだけだった。
天音
「危険区域に、
もう一回行こうとしてた」
「却下されてた」
副学園長は、
ゆっくりと顔を上げた。
天音
「月は、
何かをやり残してる」
副学園長
「そうかもしれんな」
天音
「じいちゃん、申請を通して」
副学園長
「できん」
天音
「なんで」
副学園長
「月個体は、
回収判定済みじゃ」
「情動同期は不安定」
「任務外の危険区域訪問を、
許可する理由はない」
天音
「理由ならある」
副学園長
「個体希望は、
管理理由にはならん」
天音は、
そんなことは分かっていた。
生まれた時から、
個体希望ではなく、
世界を維持する側の判断を教えられてきた。
でも、
天音は引かない。
天音
「最後の希望でも?」
副学園長
「同じじゃ」
天音
「世界って、
そういうふうにしか動かないの?」
副学園長
「世界は、
ひとりの希望のために、
形を変えてはならん」
静かな声だった。
冷たい声ではなかった。
でも。
天音には、
冷たく聞こえた。
天音
「じゃあ」
「ひとりの最後の希望も、
通せない世界を」
「僕は、
何のために次へ運ぶんだよ!」
副学園長は、
何も言わなかった。
天音
「月は、
もう戻ってこない」
「それは分かってる」
「回収を止めてって、
言ってるんじゃない」
天音は、
一度、
息を吸った。
天音
「最後の申請を通して」
「それから」
「月の器を、
再利用しないで」
副学園長の視線が、
少しだけ変わる。
天音
「月として、
水に還して」
副学園長
「個体の所有権は、
作成元にある」
「わしひとりで、
決定できることではない」
天音
「それでも」
「じいちゃんなら、
審査を動かせるでしょ」
副学園長
「天音」
天音
「この二つを、
最後まで動かしてくれるなら」
言葉が、
喉の奥で一度止まった。
でも。
天音は、
そのまま続けた。
天音
「僕は、
次の天王星を引き受ける」
室内が、
静かになった。
空調の音。
端末の低い駆動音。
遠くで、
何かが切り替わる音。
副学園長は、
長い間、
天音を見ていた。
副学園長
「……取引にするものではない」
天音
「分かってる」
「でも、
今の僕には」
「これしか出せるものがない」
副学園長
「今のお前に、
世界を動かすことはできん」
天音
「知ってる」
「だから、
じいちゃんに頼んでる」
副学園長は、
目を閉じた。
ほんの少しだけ。
それから、
端末へ手を伸ばした。
細くなった指が、
ひとつ目の記録を開く。
【危険区域外縁再訪問申請】
【再審査】
しばらく、
表示を見ていた。
それから。
【目的変更:回収前記録補完】
【判定:承認】
【同行者:海王星】
天音は、
黙って見ていた。
次に、
別の記録が開かれる。
【回収後器体処理】
【標準処理:再利用候補】
副学園長の動きが止まる。
ひとつずつ、
確かめるように。
指先が、
丁寧に動く。
【標準処理解除:審査要請】
【希望処理:環水】
【個体名保持申請:MOON】
【承認権限:天王星】
天音は、
息を止めた。
天王星。
目の前の人物から、
自分が引き継ぐ役割。
整った世界で唯一、
既存の規範を揺らすことを許された権限。
その先で起きることまで、
引き受ける役割。
副学園長は、
最後の項目まで入力した。
表示を、
もう一度、
上から確かめる。
それから。
静かに確定した。
天音は、
じっと見ていた。
見ていることしか、
できなかった。
却下されていた申請が、
別の形で動き始める。
再利用候補だった月の器に、
月の名前が残される。
画面の上では、
ただ項目が変わっていくだけだった。
でも。
天音には、
ただの処理には見えなかった。
副学園長が、
月の最後を、
ひとつずつ引き受けているように見えた。
天音
「……ありがとう、じいちゃん」
副学園長
「天音」
「忘れるな」
「世界をひとりのために変えることは、
正義ではない」
天音
「分かってる」
副学園長
「だが」
副学園長は、
表示を見たまま言った。
副学園長
「ひとりを見ずに、
世界を選ぶことも」
「正義ではない」
天音は、
何も言えなかった。
副学園長
「海王星へ、
同行要請を送る」
「お前は、
ここで待ちなさい」
天音
「僕も行く」
副学園長
「行けん」
天音
「なんで!」
副学園長
「月個体が、
最後に何を残すかは」
「月個体自身の時間じゃ」
天音は、
口を閉じた。
その言葉だけは、
拒めなかった。
⸻
夜明け前。
副学園長室の扉が開く。
海先生が、
戻ってきた。
ひとりだった。
手には、
小さな三日月型端末がある。
天音は、
椅子から立ち上がった。
天音
「月は」
言いかけて、
止まる。
海先生は、
端末を見た。
海先生
「回収区画へ向かいました」
天音
「……そう」
少しの間。
天音
「やりたかったことは?」
海先生
「できたようです」
天音は、
端末を見る。
天音
「何したの?」
海先生
「海を映していましたよ」
「自分は、
映さずに」
天音は、
少し俯いた。
天音
「……月らしいね」
天音は、
笑おうとした。
でも、
笑えなかった。
天音
「……そっか」
それだけ言った。
⸻
環水処理区画。
透明な水槽の中に、
月がいた。
目は閉じている。
呼吸はない。
情動反応も。
同期反応も。
もう、
何も表示されていなかった。
白い衣服。
静かな顔。
眠っているように見えた。
でも。
眠っているわけではなかった。
天音は、
隔壁の前に立つ。
周囲には、
処理担当アンドロイドがいる。
淡々と、
最終確認を進めている。
【対象個体:月】
【個体状態:回収完了】
【器体再利用:停止】
【個体名保持:有効】
【処理方式:環水】
【還元先:循環水系】
【処理開始まで:待機】
天音は、
表示を見た。
月。
今度は、
役割ではなかった。
少なくとも。
この処理の中では、
月として残っていた。
処理担当アンドロイド
「立会個体を確認」
【立会個体:AMANE】
【個体分類:次代天王星適合個体】
【立会許可:上位権限により特例承認】
天音は、
隔壁へ手を触れた。
冷たかった。
天音
「月」
返事はない。
当然だった。
天音
「ごめんね」
声が、
少しだけ震えた。
天音
「僕には」
「こんなことしか、
できなかった」
望んだ場所に行けるようにすること。
月の器を、
別の誰かとして使わせないこと。
水へ還すこと。
そして。
ここに立つこと。
それだけだった。
助けることは、
できなかった。
戻すことも。
月の痛みを、
代わりに持つことも。
天音
「もっと早く」
「ちゃんと見ればよかった」
月は、
何も言わない。
天音は、
隔壁の向こうにいる月を見た。
月は、
ずっと目の前にいた。
笑って。
怒って。
言葉を投げて。
何度も、
天音に向かって話していた。
それなのに。
天音が見ていたのは、
もっと遠くのものばかりだった。
次の時代。
これからの世界。
まだ来ていない未来。
天音
「……月」
返事はない。
目の前にいる。
今は、
こんなに近くにいる。
でも。
天音がようやく月を見た時には、
もう遅かった。
天音
「……ごめん」
隔壁に触れた手へ、
少しだけ力が入る。
天音
「ずっと、
目の前にいたのに」
月は、
何も言わなかった。
もう、
天音の声は届かなかった。
隔壁の向こうで、
処理装置が淡く光る。
白。
青。
水に近い光。
【環水処理:開始】
月の身体の周囲に、
透明な水が満ちていく。
静かだった。
音もない。
光の中で、
輪郭が少しずつ薄くなる。
衣服。
髪。
指先。
顔。
すべてが、
ゆっくりと水の中へほどけていく。
環水液は、
器体を溶かすものではない。
その構成を読み取り、
循環水系の一部へ再構成するための媒体だった。
それは、
消えるというより。
最初から水だったものが、
水へ戻っていくように見えた。
天音は、
目を逸らさなかった。
月が見えなくなるまで。
最後の輪郭が、
光の中へ溶けるまで。
ずっと、
そこに立っていた。
【環水処理:完了】
【対象個体:月】
【循環水系への接続:完了】
【個体名保持記録:継続】
透明な水だけが、
装置の中で静かに揺れていた。
天音は、
隔壁へ触れたまま、
小さく息を吐いた。
天音
「月」
「ひとりじゃないから」
月は、
誰にも見送られずに、
処理されたわけではなかった。
天音が、
最後まで見ていた。
水は、
静かに循環路へ流れていった。




