【記録ログ:月の歌】
route:00
【記録ログ:月の歌】
⸻
回収前待機室。
窓のない白い部屋で、
月は待機していた。
面談記録も伝達事項も、
すでに端末へ整理されていた。
【回収前記録補完申請】
【対象個体:MOON】
【個体分類:AI人間】
【上位分類:管理システム10天体・月系列試験個体】
【作成目的:情動同期学習】
【主観測補助対象:ANIKA】
【対象保持反応:基準超過】
【回収判定:予定】
月は、
その表示を見ていた。
名前ではなかった。
役割だった。
月。
そう呼ばれていたものは、
最初から、
空にある月のことではなかった。
それでも。
アニカが呼ぶ時だけは、
少しだけ名前みたいに聞こえた。
【危険区域外縁再訪問申請:却下】
【却下理由:回収予定個体の任務外移動制限】
【情動同期不安定】
【外縁区域単独移動:不可】
【再申請:なし】
その返信は、
数日前に届いていた。
月は、
もう何度も見ていた。
それでも、
もう一度だけ開いた。
月
「やっぱダメかー」
却下。
不可。
再申請なし。
何度見ても、
文字は変わらなかった。
行けない。
そういうことだった。
月は、
机の上に置いた三日月型端末へ視線を落とす。
まだ、
空のままだった。
レイに移してもらったから。
アニカの声は、
もうここには入っていない。
だから、
入れられる。
入れたいものがある。
でも。
月は、
もう自分の意思だけでは、
海へ行けなかった。
端末が、
静かに新しい通知音を鳴らす。
【同行許可:承認】
【目的:回収前記録補完】
【同行者:海王星】
月は、
しばらくその表示を見ていた。
海王星。
外縁区域への同行許可を出せる、
上位管理権限。
目的は、
回収前記録補完。
月は、
その項目をもう一度見る。
そういう名目なら、
通るのか。
月は、
小さく笑った。
月
「……うん」
「そういう処理になるよね」
扉が開く。
そこには、
海先生が立っていた。
いつものように、
静かな顔だった。
海先生
「月さん」
月
「……先生」
海先生
「外縁区域への移動許可が下りました」
少しの間。
月
「私の申請は、
却下されたのに」
海先生
「はい」
月
「でも、
回収前記録補完なら」
「必要記録として、
処理できるってこと?」
海先生
「はい」
月は、
小さく息を吐いた。
月
「ほんと」
「よくできてるね」
海先生は、
何も言わなかった。
月
「でも」
「行けるんだ」
海先生
「はい」
月は、
三日月型端末を手に取った。
軽い。
ずっと髪に留めていたもの。
月
「先生」
海先生
「はい」
月
「私が何を残すかって」
「私が決めてもいいの?」
海先生は、
月を見た。
海先生
「はい」
「月さんが、
決めていい」
月は、
その言葉を聞いて、
少しだけ目を伏せた。
月
「じゃあ」
「海へ行きたい」
「アニカちゃんに、見せたいものがあるの」
海先生
「行きましょう」
⸻
危険区域外縁。
海沿い監視区域。
夜。
黒い波が、
静かに揺れていた。
風。
塩の匂い。
遠くで、
波が岩へ砕ける音がする。
月は、
防護外套の裾を握ったまま立っていた。
視界の先には、
海。
終わりが見えない。
境界線がない。
管理区画みたいに、
区切られていない。
前に見た時と、
同じだった。
怖い。
そう思った。
でも今日は、
逃げなかった。
月
「……」
風が吹く。
波が揺れる。
暗い水面が、
どこまでも続いている。
月
「……むり」
小さく漏れる。
「やっぱり、
こんなの、
背負えない……」
誰に言ったのか、
自分でも分からなかった。
海は何も返さない。
ただ、
ずっと揺れている。
月
「もうさ、
私じゃなくても、よくない?」
声が、風に少し削られた。
月は、
少しだけ笑おうとした。
でも、
うまくできなかった。
月「もう」
「許して……」
少し離れた場所で、
弦の音がした。
ぽろん。
古い楽器。
月は、
そちらを向く。
男は、
岩場に座っていた。
長い髪。
擦り切れた外套。
管理区画では見ない服。
その人は、
海へ向かって歌っていた。
静かな声だった。
でも。
なぜか、
胸の奥へ直接入ってくる。
月は男に近付く。
この人に会う。
今日はそう決めてきたから。
歌が終わる。
波音だけが残る。
男は、
こちらを見た。
少し驚いた顔。
それから、
ギターを抱えたまま、
月を見て、
ふっと笑う。
男
「また来たんだ」
月は、
頷いた。
男は、
理由を聞かなかった。
どこへ行くのかも。
何があったのかも。
何も聞かずに、
ただ、
弦に指を置いた。
月は、
少しだけ息を吸う。
月
「こないだの歌、
綺麗でした」
男は、
少しだけ笑った。
男
「この前よりは、
まっすぐ立ってる」
月
「そう見えますか」
男
「うん」
「でも、
まだ迷子みたいな顔してる」
月は、
首を横に振る。
波。
風。
静かな夜。
月
「……どうして、
歌うんですか?」
男は少しだけ考えた。
それから海を見る。
波が、
岩に当たって砕けた。
引いていく水が、
小石の隙間を細く鳴らす。
ざらざらと。
さらさらと。
夜の中で、
海だけがずっと動いていた。
男
「誰かに、
いてほしいからかな」
「ひとりでいるとさ」
「自分が消えても、
誰も気付かない気がするだろ」
月
「……」
男
「でも」
「歌うと、
どこかで誰かが聴いてくれる」
「それだけで、
少しだけ世界に触れられる」
月は、
その言葉を理解しきれなかった。
でも。
胸の奥だけが、
妙に揺れていた。
月
「……自由なんですね」
男
「ん?」
月
「歌」
男は少し笑った。
男
「歌は自由だよ」
月
「……自由なんて、
無いです」
風が吹く。
長い沈黙。
男は否定しなかった。
ただ、
静かに海を見たまま言う。
男
「それでも」
「歌は自由だよ」
波が揺れる。
男
「大切な人を思って」
「笑ってくれますようにって」
「苦しいことから
守られますようにって」
「夜、
ちゃんと眠れますようにって」
「これからも
そばにいられますようにって」
「そうやって願いながら、
身体から溢れるものを
そのまま紡げばいい」
月は静かに聞いていた。
歌い方の説明ではなかった。
祈り方の説明みたいだった。
月
「友達に、
この海を見せたくて来たんです」
「でも」
言葉が、
そこで少し止まった。
波の音がする。
月は、
自分の胸のあたりを押さえた。
そこに何かがあるみたいだった。
記録でも。
同期でも。
報告でもないもの。
月
「私も」
「願っていいんでしょうか?」
男
「君が願いたいなら」
月
「私」
「アニカちゃんの補助でも」
「観測でも」
「同期対象でもなくて」
月は、
海を見た。
黒い水面が、
静かに揺れている。
月
「ただ」
「友達に、
なりたかった」
声が、
少しだけ震えた。
月
「そんなこと思ったら、
ダメなのに」
男
「思うのは、
自由だよ」
月は、
目を伏せた。
その言葉は、
許可みたいで。
でも、
許可ではなかった。
誰かが決めてくれるものではなくて。
自分の中に、
もう生まれてしまったものだった。
男は海を見ていた。
月
「きれいじゃないし」
「正しくないし」
「たぶん、
困らせるのに」
月
「……出しても、
いいのかな」
男は、
少しだけ海を見た。
それから、
弦に指を置く。
男
「歌は、
許可を取らなくてもいいよ」
ぽろん。
最初の音が、
夜に落ちた。
月は、
ゆっくりと髪へ触れる。
三日月型端末。
昔、アニカがポイントで交換してくれたもの。
月は、
それを外した。
手のひらの上で、
淡い光が灯る。
起動。
録画開始。
カメラは、
海へ向けた。
月自身は映らない。
ただ。
波。
夜。
風。
海。
その向こうの、
終わりのない暗さ。
月は、
しばらく黙っていた。
録音だけが続いている。
波音。
風。
呼吸。
それから。
小さく、
声が落ちた。
月
「……アニカちゃん」
静かな夜。
海だけが揺れている。
月
「今日ね」
「海、
見たんだ」
少しだけ笑う。
でも、
声は震えていた。
月
「授業で見たより、
ずっと大きかった」
「なんか、
怖かった」
風が吹く。
月
「でも」
「アニカちゃんにも、
見せてあげたいって思った」
波が寄せる。
返す。
月は、
海を映したまま目を閉じる。
月は、
静かに歌い始めた。
上手くはなかった。
音も、
少し外れている。
途中で声が震えて、
何度か息が詰まった。
それでも。
願うみたいな声だった。
自分がいない世界で、
アニカはきっと泣く。
たぶん、
怒る。
たぶん、
眠れなくなる。
それでも。
また、
笑えますように。
夜、
ちゃんと眠れますように。
怖い場所へ行く時は、
誰かと一緒に行ってほしい。
ひとりで、
全部見に行かなくていい。
ひとりで、
全部抱えなくていい。
月は、
歌っていた。
レイ。
アニカちゃんを、
守ってね。
守るって、
止めることじゃなくて。
大丈夫って、
決めつけることじゃなくて。
たぶん。
そばにいてあげて。
レイ。
ありがとう。
アニカちゃんの声を、
受け取ってくれて。
月は、
少しだけ息を吸った。
声が、
また震える。
天音。
ひどいこと言って、
ごめん。
天音は、
きっと、
遠くまで見える人だから。
遠くが見える分だけ、
近くにあるものを、
見失わないで。
あんまり、
遠くばっかり見ないで。
月は、
歌っていた。
祈るみたいに。
願うみたいに。
謝るみたいに。
海は、
何も返さなかった。
でも。
月の声は、
波の上に落ちて、
夜の中へ溶けていった。
歌が終わる。
最後の音が、
風に消える。
しばらく、
誰も話さなかった。
男は、
ギターを抱えたまま海を見ていた。
海先生も、
何も言わずにそばにいた。
録画は、
まだ続いている。
月は、
端末へ手を伸ばす。
停止。
保存。
【記録完了】
月は、
その文字を見た。
それから、
男の方を見た。
月
「ありがとうございました」
男
「歌えた?」
月
「はい」
「歌っちゃいました」
月は、
三日月型端末を両手で包んで、
笑った。
もう、
空ではなかった。
アニカに見せたい海が入っている。
自分の声が入っている。
言えなかったことが、
少しだけ入っている。
それだけで、
月は少しだけ息ができた。
⸻
外縁移動区画。
学園行きの連絡機が、
反対側の発着口で待機していた。
月は、
そちらを見ずに、
海先生の後ろに付いて、
別の発着口へと進む。
表示には、
【回収区画連絡機】
と出ていた。
月は、
何も聞かなかった。
聞かなくても、
分かっていた。
月は、
一度だけゲートの外側へ視線を向ける。
波の音は、
もう聞こえなかった。
三日月型端末は、
海先生の手の中にある。
月
「先生」
海先生
「はい」
月
「アニカちゃん、
泣くよ」
海先生
「はい」
月
「レイ、
分かんないかも」
海先生
「はい」
月
「天音も、
たぶん怒る」
海先生
「はい」
月は、
三日月型端末を見た。
もう、
空ではなかった。
海が入っている。
歌が入っている。
言えなかったことが、
少しだけ入っている。
月
「これ」
「私の、
わがままだから」
海先生は、
何も言わなかった。
月
「ごめんねって」
「伝えて」
海先生
「……はい」
回収区画連絡機の扉が開く。
中は、
白かった。
窓はなかった。
月は、
一歩だけ立ち止まる。
それから、
自分で足を出した。
振り返らなかった。
海先生だけが、
その背中を見ていた。
扉が、
静かに閉じる。
【回収区画連絡機:出発】
【対象個体:MOON】
【状態:安定】
機体は、
学園とは逆の方向へ進んでいった。




