月が見た海 後編
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21話「月が見た海 後編」
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海が見えた。
広かった。
あまりにも広かった。
空と水の境界が、
どこまでも続いている。
波が寄せる。
戻る。
また寄せる。
音が、
身体の中に入ってくる。
アニカは、
立ち尽くした。
海。
月が最後に見たもの。
海先生は、
少し離れた場所で止まった。
レイと天音が、
アニカの後ろに続く。
誰も、
先に言葉を置かなかった。
アニカは、
波を見た。
水。
水。
水。
こんなにたくさんの水。
こんなにたくさんあるのに。
アニカ
「……ここに」
声が震えた。
「ここに、
月ちゃんがいるんですか」
誰も答えなかった。
アニカ
「水に還ったって、
そういうことですか」
「循環したって」
「星へ還ったって」
「そういうことなんですか」
波が音を立てる。
それは返事みたいで、
返事ではなかった。
アニカ
「でも」
息が詰まる。
「月ちゃんは、
いないじゃないですか」
月の端末を握る。
爪が食い込む。
「こんなに、
こんなにたくさん水があるのに」
「月ちゃんはいない」
アニカの膝が崩れた。
砂と石の上に、
手をつく。
アニカ
「……返して」
声が、
波に消えた。
「……月ちゃんを返して」
「返してよ」
「ねえ」
「返して」
「月ちゃん」
涙が落ちる。
一度落ちたら、
止まらなかった。
アニカは、
泣いた。
声が潰れるまで。
息がうまく吸えなくなるまで。
胸の奥が、
割れてしまいそうになるまで。
海先生は、
動かなかった。
天音も、
何も言わなかった。
レイは、
アニカのすぐ近くに立っていた。
警告は出ている。
情動負荷、上昇。
呼吸乱れ。
姿勢保持困難。
脱水予測。
介入候補は、
いくつも表示される。
声をかける。
休息を促す。
身体を支える。
医療班を呼ぶ。
けれど。
レイは、
すぐには動かなかった。
卒業試験。
泣かせないことではない。
止めることでもない。
正しい言葉で、
早く終わらせることでもない。
壊れそうな個体を、
壊れたと判断せずに、
そばにいること。
レイは、
アニカの隣に立つ。
触れない距離。
でも、
離れてはいない距離。
レイ
「月ではない」
少し間が空く。
「でも、
ここにいる」
アニカは、
泣きながら顔を上げた。
アニカは、
何も言えなかった。
レイは、
それ以上言わなかった。
ただ、
そこにいた。
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どれくらい泣いたのか、
分からなかった。
声が枯れていた。
涙は、
まだ出るのに、
身体はもう動かなかった。
空の色が変わっていた。
太陽が、
水平線へ近づいている。
赤。
橙。
金。
海の上に、
細い光の道ができていた。
アニカは、
ぼんやりとそれを見た。
太陽が沈んでいく。
少しずつ。
少しずつ。
やがて、
太陽は海の向こうに消えた。
そこに、
太陽はもういなかった。
でも。
水平線が一際明るく光った。
太陽は、
沈んだあとに、
いちばん空を明るくするのだと。
アニカは、
この日初めて知った。
まるで、
残していくものへの
最後の祈りのように。
アニカは、
息を止めた。
綺麗だ。
そう思ってしまった。
その瞬間、
胸の奥がひどく痛んだ。
アニカ
「……なんで」
また涙が出た。
「なんで、
綺麗だって思うの」
「月ちゃんがいないのに」
「こんなに苦しいのに」
「なんで」
アニカは、
自分の胸を押さえる。
「そんなこと思ったら、
だめなのに」
「月ちゃん」
「ごめん……ごめんね」
レイは、
水平線を見た。
光。
太陽は存在しない。
しかし、
残光は確認できる。
存在消失後も、
光は遅れて届く。
記録としては、
説明できる。
けれど、
アニカの問いへの返答にはならない。
レイは、
沈黙した。
天音が、
少しだけ前に出て
アニカと同じ目線になるようにしゃがんだ。
天音
「悪くないよ」
アニカは、
顔を上げなかった。
天音
「綺麗だと思ったことは、
月を忘れたことじゃない」
「悲しいまま、
綺麗だと思っただけ」
アニカ
「そんなの、
分からない」
天音
「うん」
天音は、
空を見た。
「分からなくていい」
「たぶん、
分からないまま持っていくものだから」
アニカは、
泣いていた。
海先生が、
三人のそばまで近寄ってきた。
静かに口を開く。
海先生
「学園は、
正しさを積み上げる場所です」
波の音がする。
海先生
「判断」
「保護」
「損失回避」
「再現可能な行動」
「それらを積み上げた個体は、
次の場所へ進む」
アニカは、
海先生を見る。
海先生
「進級も、卒業も」
「年齢や時間では決まりません」
「正しさを積み上げた回数で決まる」
レイが、
静かに視線を向けた。
海先生
「でも、
正しさを積み上げた先で、
正しさだけでは抱えられないものに出会うことがあります」
海先生は、
アニカを見た。
海先生
「アニカさん」
「あなたは、
今日それを見た」
アニカ
「……私は」
「何もできなかった」
海先生
「はい」
その返事は、
優しかった。
「何もできなかった」
「月さんを戻すことはできなかった」
「悲しみを終わらせることもできなかった」
「それでも、
あなたは見た」
アニカは、
泣きながら首を振る。
海先生
「月さんがいない海を」
「それでも光る水平線を」
「綺麗だと思ってしまった自分を」
「目を逸らさずに見た」
アニカ
「……見たくなかったです」
海先生
「はい」
「それでも、
見てしまった」
波が寄せる。
戻る。
また寄せる。
海先生
「もう、
学園で学ぶことは多くありません」
アニカは、
息を止めた。
海先生
「正しさの中で守られる段階は、
終わりに近づいています」
「これからは、
あなたが抱えたものを、
世界へどう返すのか」
「それを考える段階に入ります」
アニカ
「返す……?」
海先生
「悲しみを、
そのまま誰かへ渡すのではありません」
「怒りを、
そのまま世界へぶつけるのでもありません」
「でも、
無かったことにもしない」
海先生は、
太陽が沈んだあとの、
まだ明るい水平線を見る。
「あなたが見てしまったものを」
「あなたが苦しいまま綺麗だと思ったものを」
「どういう形で世界へ戻すのか」
「それが、
あなたの次の課題です」
アニカは、
答えられなかった。
月の端末を握る。
歌は、
今は流れていない。
でも、
そこにある。
手の中に。
胸の奥に。
海の音の中に。
アニカは、
泣き疲れた顔で、
もう一度だけ水平線を見た。
綺麗だった。
苦しかった。
許せなかった。
でも。
見なかったことには、
できなかった。
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帰還時刻。
外縁移動区画。
アニカは、
歩くことができなかった。
レイが、
近くに膝をつく。
レイ
「移動補助を申請する」
アニカは、
返事をしなかった。
レイ
「拒否しない場合、
補助を実行する」
少しの間。
アニカは、
ほんの少しだけ頷いた。
レイは、
アニカを支えた。
代替ではない。
修復でもない。
ただ、
帰るために必要な支え。
天音が、
少し後ろを歩いている。
海先生は、
前を歩いている。
月の端末は、
アニカの手の中にあった。
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外縁ゲート内帰還処理室。
端末に、
静かな通知が表示された。
【卒業判定照合中】
【対象個体:REI】
【試験項目:未分類情動個体の非介入見届け】
【結果:達成】
レイは、
表示を見た。
処理に遅延はなかった。
けれど、
すぐには閉じなかった。
続いて、
別の表示が灯る。
【卒業判定照合中】
【対象個体:ANIKA】
【観測項目:正しさ外反応保持】
【喪失対象に対する非削除記録】
【結果:照合継続】
アニカは、
眠っていた。
月の端末を握ったまま。
レイは、
画面を閉じる。
そして、
アニカが眠る椅子の横に立った。
夜が来る。
窓から見える空は曇っていて、
月が見えなかった。
目に見えていないだけで、
満ちていたものは、
もう欠け始めていた。
それでも。
レイは、
その暗い空を見た。
観測ではなく。
見る。
月は、
いない。
けれど。
月がレイに残したデータは、
まだ消えていない。
削除対象から除外。
返却条件は未定。
依頼文言。
絶対なくさないで。
レイは、
帰還処理が終わるまでの間、
静かに窓の外を見ていた。




