月が見た海 前編
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19話「月が見た海 前編」
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朝。
アニカの部屋の窓が、
ゆっくり明るくなる。
起床時間に合わせて、
照度が少しずつ上がっていく。
端末が、
自動ニュースを読み上げ始めた。
「先日観測された上弦月に伴い、
生活改善支援プログラムでは、
習慣再編成期間への移行が推奨されています」
「現在、
不要化した行動パターン、
適合率の低い反復習慣、
旧分類に基づく自己保持傾向の見直しが
各居住区で進められています」
アニカは、
半分眠ったまま聞いていた。
いつもの朝のニュースだった。
誰かのために流れているようで、
誰のためでもない声。
「過去に適応していた補助線が、
現在の個体状態に適合しない場合、
継続ではなく、
再選択が推奨されます」
「旧経路から新経路へ」
「停滞反応から成長方向へ」
「不要なものを手放し、
現在必要な行動へ移行してください」
アニカは、
小さくまばたきをした。
月は、
隣で静かに寝息を立てている。
端末の声だけが、
いつも通り続いていた。
「半分の月は、
未完了を示すものではありません」
「満ちる途中の形です」
「切り替え途中の個体は、
一時的な不安定さを示す場合があります」
「支援が必要な場合は、
各自端末より申請してください」
アニカは、
ぼんやりと天井を見た。
意味のある言葉のようで、
意味のない言葉のようだった。
月が、
小さく寝返りを打つ。
アニカは、
端末を止めなかった。
朝は、
いつも通り始まっていた。
⸻
月
「行ってくるね」
それは、
いつもの声だった。
いつもの実習に向かう月。
いつも通りの制服。
いつも通りの足取り。
いつもより少しだけ、
不貞腐れていない顔。
月の右耳の上には、
いつもの小さな三日月型端末。
アニカは、
その場所を少しだけ見てから、
笑った。
アニカ
「うん。
行ってらっしゃい」
月
「帰ってきたら、
また甘いものね」
アニカ
「うん」
月
「約束だからね」
アニカ
「約束」
月は、
満足そうに頷いた。
それから、
少しだけ照れたように目を逸らして、
いつものように手を振った。
月
「じゃあ、
行ってきます」
アニカ
「行ってらっしゃい」
扉が閉じる。
足音が遠ざかる。
その日も、
ただの実習日になるはずだった。
五日後には帰ってくる。
月は、
そう言っていた。
だからアニカは、
その言葉を信じた。
⸻
五日後。
月は、
帰ってこなかった。
実習延長。
通信制限。
観測遅延。
報告処理待機。
アニカは、
端末に表示される言葉を何度も読んだ。
どれも、
意味は分かる。
でも、
どれも月の声ではなかった。
六日目の朝。
月の部屋が、
開放された。
【居住個体:回収済】
【居住状態:居住者なし】
アニカは、
その表示を見た。
何度も見た。
文字は変わらなかった。
回収済。
居住者なし。
回収。
誰が。
いつ。
なんのこと。
月の部屋の扉は、
静かに開いていた。
開けっ放しの部屋。
誰かが出ていったあとの部屋ではない。
もう戻る個体がいないと、
判断された部屋。
アニカは、
中へ入った。
いつもなら、
ここにいるはずだった。
机の前で端末を見ているか。
寝台の上で、
不機嫌そうに丸まっているか。
アニカに気づいて、
少しだけ笑うか。
でも、
どこにもいなかった。
机。
椅子。
寝具。
端末置き場。
まだ月の形をしているものが、
部屋の中に残っていた。
でも、
月はいなかった。
テーブルの上に、
小さな星型のキーホルダーが置いてあった。
それから。
アニカが渡した端末。
三日月型の録音端末。
月の右耳の上に、
いつも付いていたもの。
アニカは、
震える手でそれを取った。
アニカ
「……なんでここに」
軽かった。
こんなに軽かっただろうか。
あんなに、
月が大事そうに持っていたものなのに。
アニカは、
再生ボタンに触れる。
少しだけ、
音が揺れた。
それから。
歌が流れた。
月の声だった。
小さくて。
少し震えていて。
それでも、
ちゃんと月の声だった。
「~♪」
アニカは、
息ができなくなった。
月の声。
月の声。
月の声。
ここにあるのに。
部屋の中に響いているのに。
回収。
器は残る。
記録は消える。
そういう説明を、
どこかで聞いたことがある。
でも。
それが月に起きたことだとは、
思えなかった。
回収済。
月はもういない。
いつ?
なんで?
アニカは、
端末を握ったまま膝をついた。
涙が落ちる。
床に落ちる。
止まらない。
月が歌っている。
月がここにいるみたいに。
でも、
いない。
アニカ
「……月ちゃん」
声にならなかった。
端末から、
月の歌だけが続いていた。




