【記録ログ:お星さまのお守り】
route:00
【記録ログ:お星さまのお守り】
⸻
夜間管理区画。
学園外縁廊下。
月は、ひとりで立っていた。
正確には、ひとりではない。
廊下の天井には、監視用の小型端末がある。
角を曲がった先には、夜間巡回用のアンドロイドが通る。
外縁扉には、危険区域接続防止の認証壁が張られている。
だから、ひとりではない。
でも。
月は、ひとりみたいだと思った。
外の空気は、もうない。
土の匂いも。
湿った草の匂いも。
遠くで鳴っていた波の音も。
知らない人の歌も。
ここには、ない。
学園の空気は整っている。
温度。
湿度。
照度。
警戒値。
全部、基準内。
端末には、そう表示されていた。
【個体情動反応:安定】
【睡眠不足:軽度】
【追加観測不要】
月は、その表示を見て、小さく笑った。
「便利だねえ」
声は、廊下に吸い込まれた。
「安定って、出るんだ」
右手の中には、三日月型の録音端末があった。
アニカの声が入っている。
月を呼ぶ声。
再生しようとして、やめた。
今聞いたら。
たぶん、戻れなくなる。
どこへ。
それは、分からなかった。
⸻
「お姉ちゃん」
声がした。
月は顔を上げた。
廊下の少し先に、
小さな子どもが立っていた。
制服ではない。
夜間許可証も見えない。
所属識別タグも、ない。
月は瞬きをした。
それから、慌てて周囲を見る。
「え、ちょっと待って。
お名前は?
所属タグ、持ってる?」
子どもは答えなかった。
ただ、月を見ている。
月は一歩近づいた。
「迷子? 夜間区画だよ、ここ。」
「危ない……ことは、まあ、学園内だからそんなに危なくないけど」
子どもは首をかしげた。
「お姉ちゃん、泣いてるの?」
月は止まった。
「泣いてないよ」
即答だった。
子どもは、じっと月を見ている。
月は、少しだけ頬を拭った。
濡れていなかった。
たぶん。
「ほら。泣いてない」
「じゃあ」
子どもは言った。
「さびしいの?」
月は笑った。
「なにそれ」
「かなしいの?」
「違うよ」
「帰りたいの?」
月は、すぐには答えなかった。
外縁廊下の窓の向こうに、黒い空があった。
月は、そこを見ないようにして言った。
「帰ってきたところだよ」
子どもは、少しだけ考えるように黙った。
それから、うん、と頷いた。
「じゃあ、帰ってきたのに、帰れてないんだ」
月の指が、三日月型端末を強く握った。
「……変なこと言うね」
「うん」
子どもは、にこっと笑った。
「よく言われる」
月は、子どもの前にしゃがんだ。
視線を合わせる。
「名前は?」
子どもは答えない。
「所属は?」
答えない。
「迷子登録する?」
子どもは、首を横に振った。
「迷子じゃないよ」
「じゃあ、どこから来たの」
「下」
月は、廊下の床を見た。
「下?」
「うん。ずっと下」
「地下区画?」
「もっと下」
月は、困った顔をした。
「それ、夜間管理に言ったらたぶん怒られるやつだよ」
子どもは笑った。
「怒られないよ」
「なんで」
「ぼく、怒られ慣れてるから」
「それ、怒られない理由じゃないよ」
月は、少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で少し驚いた。
⸻
子どもは、両手を背中に回した。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「これ、あげる」
差し出されたのは、小さな星型のキーホルダーだった。
黄色い星。
角が少し丸い。
子ども用のおもちゃみたいだった。
月は、それを見た。
「……なにこれ」
「お守り」
「お守り?」
「うん。なんでもひとつだけ願いを叶えてくれるお守り」
子どもは得意そうに言った。
「ぼくが作ったんだ」
「ここが開くの」
子どもは、
星の縁を少しだけずらした。
かち、と小さな音がして、
中央のくぼみが少し浮いた。
「ここを押したら、光るんだよ」
月は、思わず笑った。
「すごいねえ」
「すごいでしょ」
「ほんとに叶うの?」
「叶うよ」
「なんでも?」
「ひとつだけ」
月は、星を受け取らなかった。
「じゃあ、
自分で持ってた方がいいんじゃない?」
「ぼくは、いらない」
「どうして」
「ぼくは、願いを叶える方だから」
月は、また止まった。
子どもは、何でもないことみたいに笑っている。
月は、少しだけ眉を寄せた。
「ほんとに変な子だね」
「うん」
子どもは嬉しそうだった。
⸻
月は、星型キーホルダーを受け取った。
軽かった。
あまりにも軽い。
世界を変えられるようなものには、
見えなかった。
「ここ」
子どもが、星の中央を指した。
「ここを押したら、光るんだよ」
「へえ」
「光ったら、見つけられるの」
月は、星を見つめた。
「何を?」
子どもは、月を見た。
「お姉ちゃんを」
廊下が、少しだけ静かになった気がした。
月は、返事をしなかった。
子どもは続ける。
「こわくなったら、押していいよ」
「こわくないよ」
「さびしくなったら、押していいよ」
「さびしくないよ」
「帰れなくなったら、押していいよ」
月は、星を握った。
「帰れなくならないよ」
「うん」
子どもは頷いた。
「でも、押していいよ」
月は、星を押さなかった。
「今は、大丈夫」
そう言った。
子どもは、少しだけ目を細めた。
「うん」
月は、星を制服のポケットにしまった。
「ありがとう」
「なくさないようにするね」
子どもは、満足そうに頷いた。
「うん」
⸻
遠くで、巡回アンドロイドの足音がした。
月は振り返る。
「ねえ、やっぱり、夜間管理に……」
言いかけて、戻った時。
子どもはいなかった。
廊下には、誰もいない。
白い照明。
整った空気。
基準内の温度。
基準内の湿度。
月は、しばらくそこに立っていた。
端末が遅れて反応する。
【周辺個体照合:該当なし】
【夜間通行記録:該当なし】
【未登録個体反応:検出不能】
月は、小さく息を吐いた。
「……迷子じゃなかったのかな」
ポケットの中で、星が少しだけ揺れた。
月は、その上から手を添えた。
「変な子」
そう言って、少しだけ笑った。
外縁廊下の窓の向こうで、夜が静かに広がっていた。
満月ではなかった。
けれど、月は空を見なかった。
ポケットの中の小さな星だけが、
押されないまま、
暗いところで眠っていた。
⸻
居住区画。
月の部屋。
室内照明は、
夜間基準まで落とされていた。
月は、
制服のポケットから
黄色い星を取り出した。
机の上に置く。
それから、
端末を開く。
本日の未送信記録。
⸻
【対象個体:ANIKA】
【反応項目】
・親個体分類への疑義
・幼体観測表現への違和
・保護対象と維持候補の並列表示に反応
【観測継続】
⸻
月は、
その表示を見つめた。
送信。
指が、
少しだけ遅れた。
でも。
押した。
⸻
【送信完了】
⸻
画面の光が、
月の顔を白く照らす。
月は、
端末を伏せた。
机の上には、
黄色い星。
押せば、
光るらしい。
光ったら、
見つけられるらしい。
月は、
それを押さなかった。
ベッドに入る。
三日月型端末は、
枕の横に置いた。
再生は、
しなかった。
アニカの声を聞いたら、
たぶん眠れなくなる。
そう思った。
⸻
部屋の照明が、
さらに落ちる。
月は、
目を閉じた。
机の上で、
黄色い星だけが、
開かれないまま、
押されないまま、
眠っていた。




