【記録ログ:傾く月】
route:00
【記録ログ:傾く月】
⸻
翌日。
月は、講義に出なかった。
ただ、
起き上がれなかった。
部屋の照明は、
昼間の基準値まで上がっている。
端末には、
通知が三件。
月向けに抽出された本日の講義情報。
天音からの未読通知。
アニカからの未読通知。
どれも、
まだ開けていない。
月は、
ベッドの上で丸くなっていた。
三日月型端末は、
枕の横にある。
月は、
少しだけそれに触れた。
昨日のことを思い出す。
アニカの顔。
自分の声。
天音に言ってしまった言葉。
レイが追ってきた足音。
いつも通りに、
笑って返せるはずだった。
「ごめんね」
って言って。
「大丈夫」
って笑って。
いつもの月に、
戻れるはずだった。
でも。
出来なかった。
月は、
小さく笑った。
笑うところじゃないのに、
笑ってしまった。
その時、
端末が鳴った。
【任務照合:危険区域外縁観測補助】
【海沿い24居住区外部小区画】
【対象幼体保護申請:受理】
【任務目的】
【居住区維持適性幼体の確認】
【対象幼体の保護回収補助】
【周辺個体の情動反応記録】
【回収補助担当候補:月】
【理由:前回接触記録における幼体安心反応上昇】
月は、
画面を見つめた。
前回接触記録。
泣き止んだ顔。
安心反応、上昇。
その記録が、
今回の任務理由になっていた。
月は、
画面を閉じた。
天音の通知も、
アニカの通知も、
まだ開いていない。
開いたら、
返さなければいけない気がした。
返したら、
いつもの月に戻らなければいけない気がした。
だから、
開かなかった。
月は、
ベッドからゆっくり起き上がる。
正しい月であるために。
いつもの月であるために。
出発は、
二時間後。
問題が無ければ、
夜には帰ってこられる。
帰ってきたら。
そう思って、
そこで止めた。
アニカへは、
連絡しなかった。
⸻
二時間後。
月は、
制服のポケットに黄色い星を入れた。
開かなかった。
押さなかった。
任務開始時刻。
危険区域外縁ゲート、通過。
⸻
月は、
子どもを抱いていた。
小さな体だった。
軽い。
でも、
腕の中で何度も暴れるから、
落とさないように力を入れなければならなかった。
子どもは泣いていた。
「おかあさん」
「おとうさん」
「やだ」
「かえりたい」
泣き声が、
月の肩に当たる。
耳のすぐそばで、
何度も何度も、
同じ言葉が繰り返される。
月の端末が、
腕元で小さく反応した。
【対象幼体:情動反応上昇】
【分離反応:想定内】
【身体損傷:なし】
【呼吸状態:正常】
【回収継続:推奨】
異常なし。
異常は、
なかった。
全部、
想定内だった。
だから月は、
足を止めてはいけなかった。
⸻
少し前。
外部小区画の中央広場。
月は、
その子に会っていた。
前回、
丸い石を転がした子。
ころん。
ころん。
泣いていた顔が、
少しだけ笑った子。
今日も、
その子は広場の端にいた。
母親の服の裾を掴んで、
月を見ていた。
月はしゃがんで、
少しだけ手を振った。
月
「こんにちは」
子どもは、
すぐには泣かなかった。
母親が、
子どもの背中に手を添える。
母親
「覚えてる?」
子どもは、
小さく頷いた。
月
「ころん、した子だ」
子どもは、
少しだけ目を丸くした。
それから、
ほんの少しだけ笑った。
月も笑った。
月
「覚えてるよ」
そう言った時、
母親の顔が少しだけ歪んだ。
月は、
それに気付いた。
けれど、
すぐには記録しなかった。
⸻
今回の申請は、
母親個体から提出されていた。
【申請内容】
【対象幼体のみ居住区内保護希望】
【親個体継続同伴:不可】
【申請理由:外部小区画内における安全維持困難】
【父親個体:接触注意】
【過去記録:近隣衝突/威嚇行動/情動制御困難】
【対象幼体:居住区維持適性あり】
【初期教育接続可能性:高】
【情動安定補助適性:要支援】
【回収補助担当:月】
【補足:前回接触時、対象幼体の安心反応上昇】
対象幼体のみ。
親個体同伴不可。
月は、
その文字を見た。
そして、
自分の名前を見た。
回収補助担当。
月。
丸い石。
ころん。
泣き止んだ顔。
優しかったから、
選ばれた。
そう思った。
でも、
すぐにその考えを打ち消した。
違う。
適性があったから。
接触成功率が高かったから。
幼体の情動反応を下げられるから。
だから、
選ばれた。
それだけ。
それだけのはずだった。
⸻
母親は、
月を建物の裏手へ案内した。
広場から少し離れた場所。
木の柵がある。
古い布が干してある。
水を入れた桶が、
壁際に置かれている。
生活の匂いがした。
土。
火。
布。
少し古い木。
月は、
その全部を記録できる。
でも、
何と呼べばいいのかは分からなかった。
母親は、
子どもの肩を抱いていた。
その手が、
少し震えている。
月
「申請内容を確認します」
母親は頷いた。
月
「対象幼体のみ、
居住区内保護を希望」
母親
「はい」
月
「親個体の同伴は不可」
母親
「はい」
月
「申請後の取り消しには、
再審査が必要です」
母親
「分かっています」
月
「対象幼体は、
回収後、保護観測機関へ移動します」
母親
「……はい」
風が、古い布を揺らした。
子どもは、
母親の服を握ったまま、
月を見ていた。
月は、
その手を見た。
小さい手。
強く握っている。
母親は、
その手を見ていなかった。
見てしまったら、
離せなくなるから。
たぶん。
月は、
そう思った。
けれど、
記録には入れなかった。
月
「お母さん」
言ってから、
少しだけ迷った。
記録上は、
母親個体。
でも、
目の前の子どもは、
この人をお母さんと呼んでいた。
月
「本当に、いいんですか」
母親は、
すぐには答えなかった。
遠くで、
波の音がした。
海は見えない。
でも、
音だけが届く。
母親
「いいわけ、ないでしょう」
声は小さかった。
怒っているようでもあった。
泣いているようでもあった。
母親
「でも、ここにいたら、
この子はここで大きくなる」
月は黙った。
母親
「ここは、悪い場所じゃない」
「でも、守れる場所でもない」
母親は、
子どもの髪を撫でた。
子どもは、
母親を見上げている。
何かを察している顔だった。
でも、
理解はしていない。
まだ、
してはいけない顔だった。
母親
「この子だけでも」
言葉が、
途中で崩れた。
母親
「この子だけは、そちらで」
「お願いします」
月は、
何も言えなかった。
言える言葉は、
あった。
申請は受理されています。
保護機関へ接続します。
対象幼体の安全を優先します。
どれも、
正しい。
でも、
どれも違う気がした。
月は、
ただ頷いた。
⸻
その時だった。
遠くで、
何かが倒れる音がした。
木材。
金属。
足音。
低い声。
母親の表情が、
一瞬で変わった。
端末が反応する。
【周辺個体接近】
【照合中】
【父親個体:帰還】
【情動反応:高】
【接触注意】
母親
「来た」
小さな声だった。
子どもが、
母親の服をさらに強く握る。
母親はしゃがんだ。
子どもの両肩に手を置く。
母親
「行って」
子ども
「やだ」
母親
「行って」
子ども
「おかあさんも」
母親の顔が、
歪んだ。
でも、
手は離さなかった。
母親
「先に行って」
子ども
「やだ」
母親
「お願い」
月は動けなかった。
端末は、
すでに行動推奨を表示している。
【対象幼体確保】
【最短退避経路へ移動】
【父親個体との接触回避】
【回収優先】
回収優先。
月は、
その文字を見た。
母親が、
月を見た。
母親
「行ってください」
月
「でも」
母親
「行って!」
声が、
強かった。
泣きそうなのに、
強かった。
子どもが泣き始める。
子ども
「おかあさん」
「おかあさん」
母親は、
子どもの手を剥がした。
一本ずつ。
ゆっくり。
でも、
確実に。
子ども
「やだ」
母親
「ごめんね」
子ども
「やだ!」
母親
「ごめん」
月の胸の奥が、
ひどく狭くなった。
それでも、
月は子どもを抱き上げた。
軽い。
小さい。
あたたかい。
子どもは暴れた。
月の肩を叩く。
髪を掴む。
服を引く。
子ども
「はなして」
「おかあさん」
「やめて」
月は、
腕に力を入れた。
落とさないように。
守るように。
奪うように。
⸻
男の声がした。
父親
「なにしてる」
低い声だった。
荒い。
怒りが、
最初から含まれている。
端末が反応する。
【父親個体:視認】
【過去記録照合】
【近隣衝突多数】
【暴力反応履歴あり】
【情動制御困難】
【児童への接触継続:危険判定】
月は、
振り返らなかった。
振り返ったら、
足が止まる気がした。
母親が叫ぶ。
母親
「行って!」
父親
「おい!」
子どもが泣く。
母親も泣く。
父親が怒鳴る。
月は走った。
⸻
足元の土が、
濡れている。
木の根がある。
石がある。
前回通った道。
退避経路。
最短。
安全値、低。
でも、
選択肢の中では最も高い。
月は走る。
子どもを抱いたまま、
走る。
子ども
「おとうさん」
「おかあさん」
「やだ」
「かえりたい」
月
「落ちないで」
子ども
「はなして」
月
「落ちないで」
それしか言えなかった。
大丈夫だよ。
とは言えなかった。
お母さんも来るよ。
とは言えなかった。
すぐ会えるよ。
とも言えなかった。
月は、
嘘をつく訓練を受けていない。
慰める言葉は、
たくさん知っている。
でも、
今使える言葉は、
ほとんどなかった。
月
「落ちないで」
子どもは泣く。
月は走る。
遠くで、
波の音が鳴っている。
海は見えない。
でも、
音だけが追いかけてくる。
寄せて。
返して。
寄せて。
返して。
まるで、
帰れないものを何度も取り返そうとしているみたいだった。
⸻
外縁連絡地点。
認証灯が見えた。
月は、
息を乱さない。
訓練済みだから。
身体は、
ちゃんと動く。
足も。
腕も。
視界も。
対象幼体の保持姿勢も。
問題なし。
認証領域へ入る。
青い光。
警戒音。
ゲートが開く。
月は、
子どもを抱えてゲートを進んだ。
ゲートの内側は、
明るかった。
土の匂いはしない。
波の音も、
ほとんど届かない。
床は乾いていて、
照明は一定で、
空気は整っていた。
子どもの泣き声だけが、
そこに合っていなかった。
奥から
保護観測機関のアンドロイドが
こちらに二体向かってくる。
アンドロイド
「対象幼体を引き渡してください」
月は、
子どもを抱いたまま止まった。
子どもは、
月の服を掴んでいた。
あれほど離してと言っていたのに、
今は離さなかった。
月は、
その手を見た。
小さな指。
強く握っている。
月
「対象幼体、身体損傷なしです」
アンドロイド
「確認します」
月
「分離反応、継続中です」
アンドロイド
「想定内です」
月
「呼吸状態、正常値です」
アンドロイド
「確認します」
月
「情動反応、高い状態です」
アンドロイド
「保護後、安定化処置へ移行します」
月
「よろしくお願いします」
月は、
子どもを見た。
子どもは、
涙でぐちゃぐちゃの顔をしていた。
月の服を握っている。
母親の代わりではない。
父親の代わりでもない。
でも、
今ここで掴めるものが、
月しかなかった。
月は、
ゆっくり子どもの手を外した。
一本ずつ。
さっき母親がしたように。
子ども
「やだ」
月
「……ごめん」
声が、
小さく出た。
アンドロイドが、
対象幼体を受け取る。
子どもは泣いた。
月へ手を伸ばす。
子ども
「かえりたい」
「おかあさん」
「おとうさん」
月は、
息を止めた。
ころん。
丸い石。
前回、
泣き止んだ音。
月は、
その子を見ていた。
子どもは、
アンドロイドの腕の中で泣いている。
アンドロイド
「対象幼体、回収完了」
「安定化処置へ移行します」
ゲートが閉まる。
青い光が消える。
子どもの泣き声が、
扉の向こうへ遠くなる。
遠く。
さらに遠く。
聞こえなくなる。
⸻
任務は成功した。
児童個体、回収完了。
身体損傷なし。
保護成功。
文明維持接続率、高。
将来居住区適性、良好。
教育可能。
安定可能。
保護対象として妥当。
月は、
その報告を送信した。
【送信完了】
完了。
完了。
完了。
⸻
でも。
子どもは、
泣いていた。
「おかあさん」
「おとうさん」
「かえりたい」
月は、
その声を記録しなかった。
できなかった。
記録項目に、
なかった。
⸻
帰還後。
月は、
外縁区画の洗浄室にいた。
洗浄室は、
白かった。
水音だけが、
規則正しく響いていた。
危険区域から戻る個体が、
外のものを内側へ持ち込まないための場所。
外の土も、
服についた匂いも、
すぐに落とせるように作られている。
腕に、
子どもの爪の跡が残っていた。
赤い線。
細い。
浅い。
【処置不要】
【痛覚反応、軽微】
月は、
その跡を見た。
保護対象。
回収完了。
身体損傷なし。
安定化処置へ移行。
その全部が、
正しい。
正しいのに。
月の腕には、
小さな爪の跡が残っていた。
月は、
そこに指を置いた。
少しだけ痛かった。
⸻
月は、制服に着替えた。
ふとポケットに手を入れた。
黄色い星があった。
小さな星。
角が丸い。
子ども用のおもちゃみたいな星。
押したら、
光るらしい。
光ったら、
見つけてくれるらしい。
月は、
それを握った。
開かなかった。
押さなかった。
任務は成功していたから。
月の端末が危険値を検出していなかったから。
まだ、
帰還できるから。
だから、
押さなかった。




