第二章-9
葉月はれんの容態が完全に安定したのを確認すると、いつのまにか寄ってきていた少女の仲間幽霊に後を託し、その場を離れた。
ハクにはだいぶ前に先に英一の助けに向かってもらっている。既に多量の血を使ってしまった自分に出来ることは少ないが、彼の身を案じる気持ちは抑えきれない。ふらふらと覚束ない足取りで、ベガの塔前に向かう。
だがその目に飛び込んできたのは──地獄のような光景だった。
「──い」
それは慟哭だった。
「いやああああ!」
葉月は絶叫しながら英一に駆け寄った。他の何も目に入らなかった。何も、何も。
「ああ、ああ」
彼女は英一を抱き上げた。軽い。とても軽かった。その背に自分をおぶってくれたことが信じられなくなるほどに。
だが幾度もあったその全てが、彼女にとって何物にも変えがたい大切な記憶なのだ。
「は、はづ……」
「喋らないで!」
彼女は泣き声で英一を諌めた。もう声を出せることすらおかしいくらいだったのだ。常人なら即死は免れない。ショック死しなかったのも英一の強靭な精神力によるものでしかない。
葉月に抱きかかえられた英一の身体には──下半身がなかった。腰から下の、その全てが無残にちぎれ、はらわたを曝け出していたのだ。
英一の全力の拳は、しかしベータには全く通用しなかった。彼の記憶からは既に消え失せていたが、高田の時と同じだった。ベータは英一を一瞥し、わずらわしげに眉を寄せると『女教皇《La Papesse》』を現出させた。この貴人は残酷でヒステリックではあるが、『吊られ男』よりはスマートな殺し方を好む。手にした『トーラの書』を開き、その中に宿る力を彼女が英一に向けると、それだけで彼の肉体は腹より真っ二つに裂け飛んだのである。
◇
そして英一の反応は途切れた。疑いようのない死だった。葉月は彼の上半身を四つんばいで下半身のそばへと運ぶと、ちぎれた部分同士を繋ぎ合わせようとする。勿論、そんなことをしても意味はない。ああ、ああ、と彼女の喉から魂が抜けていくような声が漏れる。滂沱の涙が両の目より流れ落ち、大量に流れた血のぬめりと交じり合う。
その有様を見て我を失った人間が、この場にはもう一人いた。それは意外な人物だったかもしれない。──ポラリス市長、比嘉宗平。重要な研究施設を根こそぎ奪われ呆然としていた彼だが、英一の死を目の当たりにするとその表情に激しい怒りを浮かべた。
「よくも、貴様ぁ!」
彼は拳銃をベータに向けて乱射した。後先のことは頭にない。シリンダーに収まっていた弾丸全てを撃ち尽くし、肩で荒い息を吐く。
しかし、今更ピストル程度が効く相手ではなかった。時間が巻き戻ったかのようだった。数瞬前と同じ格好で佇むベータは、ちらりと比嘉の持つ拳銃に目を向け、思考した。『卑小な武器でも、人は驕るのね』。
ベータは目の前で回転させているタロット群に手をかざした。すると、その半数程度が離れて空高く上っていく。遥か高みに集った10枚前後のカードは、次の瞬間四方へと飛び散った。
異変が起きたのは、その10数秒後のことだった。まず、比嘉の手にあった拳銃が忽然と消失した。だがそれだけではない。彼の耳に装着されている通信機が、遠く市庁舎や軍本部の混乱を矢継ぎ早に伝えてくる。
その報告内容は支離滅裂なものだった。現場でも事態を把握しきれていないのは明らかだった。だが断片的に聞こえてくる情報だけで、比嘉は全容を理解してしまった。
すなわちこの瞬間、ポラリスから全ての武器が一時に消え失せたのだということを。
「なんという、ことだ……」
比嘉は絶望に膝をついた。最早いかなる気力も残されていなかった。基地とは異なり人命に被害が及んでいない様子なのは救いだが、これで塔を破壊されればポラリスはあらゆる意味でなすすべがない。喪われたものの大きさを思うと立ち上がることも出来なかった。
その頃には、葉月はもう泣くことすら出来なくなっていた。地面に腰を下ろして膝に英一を乗せ、虚ろな目で中空を眺めている。
過負荷を受けて脳の神経が焼き切れてしまったかのようだった。彼女の頭の中では、その残滓が信号を発してかつての記憶を投射させている。英一と共に過ごした記憶だけを。
だが。
たった今、その記憶の一つが、現在の状況と重なった。
それは、突然のフラッシュバックだった。虚ろだった葉月の瞳に、かすかな光が宿った。
そうだ。自分はこれと似たような光景を見たことがある。
(あの時も、私は英一に対して──)
ぎゅっと唇を引き絞った葉月は、英一を膝に抱いたまま周囲を探した。どんなものでもいい、刃物が欲しかった。けれど辺りにはそれらしいものは一つもない。
だが一刻の猶予もなかった。彼女はハクに噛まれた自分の腕を見つめると、包帯を解いて間髪入れず歯を立てた。
一切の躊躇はしなかった。歯が折れようとも構わない。痛みなどとうに忘れた。肉を裂いて更にその奥へと歯を突き立て、深く傷が開けたところで噛む位置を横にスライドさせる。
がつがつと自分の腕を食らっているようにすら見える凄惨な行為だった。傷が残ることなど意識の淵に上らせてもいない。そうして溢れさせた大量の血を、葉月は英一の身体の上に落としていった。更には、勢いが足りないと悟るや噛み傷を吸って血を口に含み、口移しで彼の体内に流し込む。
(そうだ、あの時も私はこうしたんだ)
それは、二人の始まりとも言える記憶。
物心つく前の、その朧げなイメージを、彼女はこの時たしかに思い出していた。
◇
葉月の一族は、総じてある特殊な力をその身に宿していた。
この世ならざるものを顕現させる──神降ろしや式などといった異能と根源を近しくする、二千年以上も前から連綿と続いた力だ。
ただし彼女達のそれは、かつての西の都の闇と等しいほどに血生臭いものだった。実体を与えるために己の肉を霊に食らわせる──生贄や人身御供と何ら変わらぬ、凄惨なる対価を要求されるのである。
このような術であるため、現出した霊は例外なく人の肉の味を知る。ゆえに危険さは比類なきものとなり、葉月の両親は呼び出した霊に食われ亡き者となった。
だが幼い葉月の力は並外れていた。肉を与えずとも、血を飲ませるだけで霊を実体化させることが少女には可能だったのである。支配者層に対し多大な貢献をしてきた一族の唯一の生き残りであったため、施設に入れられてからも丁重に扱われた。強大な霊を対象とさせられることもなく、比較的穏やかな日々を過ごしていたと言って良いだろう。
だが葉月は施設の子供達には上手く馴染めなかった。他の子は皆、『星幽体』という霊に似たものを敵とみなして、嫌に目をぎらぎらさせている。けれど両親を殺したような悪霊は別として、彼女にとっては霊とは人間と変わらない近しい存在だったのである。かつて先祖が帝の命により召喚させられた霊はどれもが攻撃的だったらしいが、彼女は穏やかな霊にのみ血を与えていた。そうして顕現した霊は葉月を襲うこともなく、優しく抱きしめてくれたり手を握ってくれたりする、優しい隣人に過ぎなかったのだ。
そんなある日、葉月は施設の広場で何か騒ぎが起こっているのを目にする。それは──勿論この時の少女にはわかりようもなかったのだが──ピエレッタの両親が受けたと言われているものと同じ性質の、『悲劇』だった。
デネブへの『生贄』の収容にあたって、政府はベガ・アルタイルと同じ手はずを調えた。すなわち、生贄の女性の家族を目の前で殺害する計画である。夫の方は稀有な才を持つ研究者だということで紛糾したが、息子は星幽体を見ることが出来る以外はさしたる力を持たなかったため、反対する者はいなかった。
葉月が見たのはまさにその現場だ。軍が施設を計画実行の場としたのは、そこに女性の息子がいたため。星幽体研究に没頭していた夫が、息子の『力』を育てるために女性の反対を押し切って入所させたのだ。いわばこの施設は家族の和を乱した原因そのものであり、そこで更なる悲劇を女性に見せ付けるという極めて趣味の悪い演出を政府が目論んだのだった。
そして『悲劇』は遂行された。とりわけ女性の息子──英一への仕打ちは惨いものだった。彼は両親の目の前で、その身を上下真っ二つに切り裂かれたのである。人とは思えぬ叫びを上げていた夫の方も、その後、銃弾に斃れる。女性の悲嘆ぶりは正視に堪えないものだった。
そして葉月は、その一部始終を見ていた。未だ生と死の概念がわからない幼子ではあったが、『何かとても良くないものを見た』と本能で感じ取り、恐怖のあまりその場で動けなくなってしまった。
だが、そうして地面にへたりこんだ少女の前に、一つの影が降り立った。影というのは相応しくない表現かもしれない。なぜならそれは、うすぼんやりとした身体を白く半透明に光に透かした、いわゆる幽霊だったからである。
幽霊の正体は、英一だった。葉月には彼がどうしてここに現れたのかがわからない。ただそれは英一も同様だったようで、不思議そうに葉月やその周囲を見回していた。
どうしたの。と葉月は尋ねた。わかんない。と英一は答えた。彼もまた、この時は生死の別が理解出来ない年齢だったのだ。それゆえ、彼は自分が死んでいることに気付けない。ただ、酷い痛みの記憶と、腹部に横一直線に走った傷跡を幽霊となった体に抱えて、ふらふらとさまよい歩いていたのだった。
葉月はおそるおそる立ち上がり、英一と視線の高さを合わせた。殆ど話したことのない相手だったけれど、幽霊になっているおかげで怖がらずに近づくことが出来た。そして、きょとんとしている彼を見ながら、ふと思った。
(この子となら、おともだちになれるかな)
突然頭に浮かんだアイデア。それはとても素敵なことのように思えた。初めての施設での友人。なんとなく、そうなれそうな気がしたのだ。
(でも、それならはやくにんげんにもどってもらわないと)
葉月はいつものように指先に軽く歯を立てて、傷をつけた。ぷくりと浮かんだ血の玉を見つめてから、はい、と指を差し出す。
だが英一はその血を見て酷く怯えた。自分が軍にされたことを曖昧ながらも思い出してしまうのだろう。
考えあぐねた葉月は、指先を自分で舐めた。そして血を飲み込まずに口に含んだまま、英一に向けて唇を突き出した。
──はい、これがおともだちのけーやく。
そう声に出さずに伝える。少女はまだ、唇を合わせることの意味を知らなかった。ただ映画の中で仲のよさそうな男女がしているのを見て、真似してみただけだ。
英一もまた、同じだったのだろう。あるいはなんとなくつられただけだったのかもしれない。二人はこうして唇を交わし、そして、現在まで続く関係が形となったのである。
それが何を意味するのかを理解しないまま始まった、歪な関係が。
◇
このようにして『蘇った』英一を、施設は継続監視扱いとするに留めた。葉月からの定期的な血液の供給も黙認された。これは、葉月は先の理由で前線に立たせることが出来ない一方、戻ってきた英一には身体能力を大幅に増大させる力が宿っており、貴重な戦力として期待されたためだった。
だが、英一がなぜそのような能力を得るに至ったのかについては、謎が残る部分でもあった。物理的制約のない霊体である彼が自身の体を作り変え、その上で葉月の血を媒介に物質化する。纏めてしまえば以上のようなプロセスが行われているのだと推測されたが、本来は霊体であっても体を自由に変化させることは出来ない。精神面で何らかの呪縛を受けるのか、基本的には霊体は生前の姿から脱却出来ないのである。れんの『変化』もあくまで人間の子供の姿に見せかけているだけで、術が解ければ狐に戻るから、これには当てはまらない。
英一にそれが出来ている理由については、彼に自分が霊体であるという自覚がないためではないかという仮説が立てられている。『施設』の他の子供が様々な異能を持っていたように、彼は自身が身体能力を強化出来ることを単純に『そういう力があるからだ』としか考えていない。霊体であることが理由だとは露ほども思っておらず──そのために心が縛られることがない、という説だ。年齢とともに外見が成長している点も、同様の理由だと言われている。
だがその真偽うんぬんは、実のところ葉月にとってはどうでもよいことであった。問題は彼が、自分が霊体であることを自覚していないこと、知らされていないことの方にある。
英一に秘密にしたのは、当初は施設の判断だった。だが今では葉月の意志によるものでもある。施設は真実を知ることでの英一の自我崩壊を恐れた。分別がつく年齢となった葉月も、幾夜も眠れぬほど悩みぬいたが、最終的には同じ結論となった。そのために、彼女らは幾つもの対策を考え出した。
諒子をカウンセラーとして引き合わせたのもそのうちの一つだ。彼女は英一を一般人と変わらぬように成長させるための調整役だった。彼の一番近くにいる葉月と入念に打ち合わせをし、彼が成長を止めぬように、かといって不自然な成長もしないように、頻繁にカウンセリングを行なって微調整を加えていたのだ。
また、定期的な採取が必要だった葉月の血液については、圧縮してカプセル状にし、諒子の手から『発作』のための薬として渡していた。英一が時折夜に暴れるのは霊体が無意識に殻を破ろうとしているためだが、そのための薬と偽って葉月の血を飲ませていたのだ。
自分のしていることの罪深さを、葉月は深く理解していた。地獄に落ちろ、と自身に言葉を投げつけたことも一度や二度ではない。英一が必要とする血液の量は年齢と共に累乗的に増加したため、四六時中貧血に苛まれることとなったが、自分を罰する苦痛としては少なすぎた。それよりは、もし英一に気付かれてしまったらという不安の方が余程強く彼女を痛めつけた。夜中に吐き気を催して起きることも数え切れないほどだった。
◇
そして彼女は今、もう一度罪を犯すことを決めた。
英一を引き裂いたのは『女教皇』の『トーラの書』。過去の真実を暴くこの書の力に晒され、彼の体はかつての時のように2つに裂かれた。彼はそれを、肉体が引き裂かれたのだと認識したであろうが、実際には魔術の効果によって霊体が傷付けられたのである。
だが英一が真実に気付けば、霊体はいかようにも修復出来る。そうすれば意識が霧散することもない。葉月はどのような形であれ、彼に存在していてほしかった。死なないでほしい──とすら言えない歪んだ状態であっても、ただそこにいてほしかった。
ああ、これは愛などではない。葉月は思った。こんな思いを愛と呼ぶのは赦されない。私は自分のために、彼に残酷な事実を突きつけようとしているのだ。彼はどれほどに嘆くだろう。どれほどに私を憎むだろう。彼を騙し続けた私には、最早そばにいることは出来ない。それは仕方ないことだ。でも私は、血を失いすぎてしまった。死ぬのは怖くないが、私が死ねば英一に血をあげる人間がいなくなってしまう。それがたまらなく嫌だ。彼には今までみたいに暮らしてほしい。真実を知らせてしまうことになる私が思うのは、本当に酷いことだと思うけれど。でもどうか、どうか。神様。彼が穏やかに暮らせますように。どうか。神様。お願い、します──
◇
多量の失血で、葉月は意識を失った。
崩れ落ちるように覆い被さるその顔の、頬に伝った涙を拭う指がある。
少しして、それが自分の指だと認識した。それから、そのように認識した自分という個の存在を知覚した。
ああ。
そうだったのか。
彼は目覚め、全てを理解した。『リンク』を通じて、気絶する寸前まで彼女が考えていたことが流れ込んできている。今思えば、時折こういうことはあった。どうしてか、彼女が考えたことがわかってしまうことがあったのだ。
つまりは、そういうことだったんだな。
英一は葉月を地面に横たえ、彼女の腕に走っている無残な傷跡に手をあてがった。
今までずっと勘違いしていた力。
ただ肉体を強くするだけだと思っていた力。
でも、それは違っていて。魂そのものの形を変容させていたのであって。
そして自分の正体に気付いた後でも、心が縛られ力が使用出来なくなることはなかった。
(だって自分は、ずっと。ずっとそれを繰り返してきたのだから)
英一は、念じた。
手のひらの内側から自身の一部が削り出されるように。
無意識に内部だけを強化させてきたこれまでとは違い、体を目に見える形で変化させることには気持ち悪さを感じた。
だがそれは、呪縛というほど強制力を伴うものではなく──すぐに皮膚膜が生成された。
彼はその膜を、葉月の傷に貼り付けた。
止血はこれで問題ないはずだった。
跡は残ってしまうだろうが、彼女が決してそれを嘆かないこともわかっていた。
「ごめんな」
思い返せば、彼女はいつも傷つき続けていたのだろう。この腕以上に心をぼろぼろにしながら、英一に悟られないために何でもないような顔をし続けてきたのだろう。
「ごめん」
英一はもう一度謝った。一度目は過去への謝罪。葉月の苦しみにも覚悟にもまるで気付いてやれなかったことへの。
そして二度目は未来への謝罪。きっと、これからまた悲しませてしまうことへの。
英一は立ち上がり、ベータに向き直った。
彼女はその場から動いていなかった。まるで彼のことを待ち受けているかのように。
──いや、事実そうなのだろう。英一にはそれがわかってしまう。この埒外の化け物の目が自分に向いていることを嫌でも自覚できてしまう。
「化け物同士、仲良くやろうぜ」
こんな台詞を葉月が聞けば哀しむだろう。今は気を失っているのが幸いだった。今なら思うように化け物になることが出来る。ただ──葉月には見られたくなかった。
英一は自身の右腕を一丁の銃として『再構成』した。
分解。右腕の細胞同士の繋がりを解き、更に細かく分子レベルに変更。
接合。分子を全く別の配列で組み上げ直し、望む型を構築。
装填。中空を漂う霊子──時経て霧散した霊体達の残滓──を弾丸状に圧縮、取込。
それから右腕をベータに突き出し──照準を合わせ──躊躇なく銃爪を引く。
放たれたのは魔銃の牙。青く輝く弾丸が中空を疾駆し、しかしベータの手前で分裂する。一つ一つに雷性を宿すそれらを、英一は放射状に広がった矢先に再びベータに向けて集約させた。10を優に越す致死性の光線が瞬時に少女の身体に突き刺さる。
「うぐっ……!」
英一は左の腕で『銃』を抑えた。
怖気がした。悪魔が腕に宿ったかのようだと思い、それがなんの喩えにもなっていないことに気付いて唇の端を吊り上げる。
(悪魔そのものだよな)
彼の腕は兇悪な兵器へと容を変えていた。それは人肉と機械の醜悪な融合体。漆黒の銃身に肉を挟み血を走らせ皮膚を纏わせた、禍々しい銃である。頭の中では対戦車ライフルの威容を思い描いていたのだが、出来上がったのはこの邪悪な姿。『戦車』の直撃を受けた際に無意識に使ったことを含めても2度目のため、やはり慣れが必要なのか、あるいは──あるいは覚悟が足りないだけか。
英一は瞳に流れ込んだ脂汗を拭った。それから、くそ、と悪態を吐く。想像以上だった。意識して己の腕を根本から作り変えるということが、これほどの嫌悪感を催すものだとは。
切断しろと言われる方が遥かにましかもしれない。身体が自我に対して脅し交じりに反逆しているのだ。本当にいいのかと。戻れなくなるぞと。
だが今は、その声をねじ伏せる。今は彼を求めるものに答えなくてはならなかった。──でなければきっと、何もかもが終わる。
ベータは数瞬前と全く同じ姿で佇んでいる。その目が告げていた。この程度かと、明らかな苛立ちの色を交えて。
だから英一は次は両の手を差し出すつもりだった。それで不足なら足を、目を、口を、次々と悪魔の生贄に捧げ、この馬鹿げた存在を打倒するつもりだった。
だがベータは気が短かった。彼の『甘え』を許さず、戦いのステージを一気に引き上げる手段を選んだ。
幼稚な子には、罰が必要だ──英一は彼女のそんな声を聞いた気がした。
ベータは英一の方に顔を向けたまま、左の手を横に差し伸べた。その動きに呼応して、少女の前で回転を続けていたタロットの中から一枚が抜け出て、ゆっくりと宙を滑っていく。左手の先──葉月の横たわる方へと。
「……待て。何を、するつもりだ?」
悪寒を覚えた英一が、乾いた声で問うた。だがベータは答えない。そもそも彼女は未だに、現実では一言も声を発していないのだ。
「くそっ」
英一はタロットより先に葉月に駆け寄ろうとした。だが身体が動かない。ベータが自分に右の手を差し向けている──それだけで行動が封じられてしまっている。彼は叫んだ。やめろと吠え立てた。カードの動きは殊更に緩やかだ。だがそれは残酷な緩やかさだ。やめてくれ、と彼は請うた。頼むからどうかそれだけはと、みっともなくお願いをした。
だがベータは眉一つ動かさず、そして呆気なく。
呆気なく、カードは葉月の身体に接触し。
次の瞬きの間には、その場から跡形もなく、彼女の姿が消失した。
──カード名『無記名』。だがれっきとした大アルカナの13。それは何らの修飾のない純粋な無を象徴する。
「──う」
英一は。
「うああああああああ!」
英一は絶叫した。
「葉月、葉月、葉月!」
今更自由になった身体で、まろびながら幾度も呼びかけた。だが応えはなかった。応えを返してくれるべき人はどこにも見あたらなかった。
ほんの一瞬で。物心つく前より彼と共に時間を過ごしてくれた存在は消えてなくなったのだ。
「ベータ、貴様ああああ!」
彼はベータを憎悪した。そして未だに躊躇っていた自分の浅はかさを呪った。腕だけなら、足だけなら。戻れると思っていたのか俺は? 目も口も鼻も耳も、どこまでなら再び人間の姿に戻れるか、そんなことを悠長に考えながらこいつと戦おうとしていたのか? ああ、お前はどこまで間抜けなんだ! 英一、お前が甘いことを考えている間に、戻る場所そのものがなくなってしまったのだというのに!
「あああああ、あああああああ!」
咆哮。咆哮。咆哮。英一は五体全てを解き放った。後先のことなど考えなかった。躊躇いは憎悪の対象でしかなかった。人間であることに露ほどの未練もなかった。
身体は瞬時に別のものへと形を変えた。英一はそれがいかなるものなのかを知らなかった。彼はただ、自身がベータを打ち倒す存在となることを願っただけだった。
それは鬼だった。英一の身体に流れる葉月の血、その一族の血が顕現させた、日本古来最強の悪鬼。京を壊滅寸前にまで追い込んだ怪物に成り果てた彼は、全身より瘴気を立ち昇らせながら天に向け吼えた。
「GAAAAAA!」
もはや人の発し得る音ではなかった。呪力の篭もったその叫びは空に雲を呼びたちまちに雨を降らし、ベータの金の髪を濡らしてその先から雫を落とす。
その時になって、ようやく。ようやく少女の喉から声が生み出された。
あとひとつ。
鬼となった英一は猛然とベータに突進し、雨粒を弾きながら拳を突き出した。結局のところ、どれほど姿を変えようとそれが彼の最も得意とするスタイルであった。銃などではなくこの姿となったのは、彼の心に葉月が応えたのではないかとすら思えた。すなわち、何があってもこいつだけは直接この手で殴りたかったのだ。
だが。
だが、英一は一つ取り違えをしていた。少女の言葉は、その姿で自分と最後の戦いをしろ、という意味ではなかった。
彼女はこう言ったのだ。
あとひとつ、先へ行きなさいと。
そうして、鬼の拳は防がれた。ベータの右手によって。
初めて、手を使わせた。だがそれだけだ。届いたとは、とても言えない。
なぜだ。なぜだ。なぜだ。何が足りない。彼は激しく懊悩した。もはや俺は人ではない。ここまで変わってしまっては人に戻ることなど出来はしない。それ以上、何を捨てればいいというのだ。
そして彼は、あ、と気付く。ああ、と腑に落ちる。
ああ。そうか。
俺は人であることを捨てた。
けど、俺が俺であることを捨ててはいなかった。
五体全てを変えたつもりでいた。だがこうして思考しているということ、それは脳を残していた、ということだ。そこには、『俺』がまだ残っている。
脳を作り変えるということは、思考プロセスそのものを変えることと同義だ。
たとえば蛙の脳が突如人間と同等のものになったとしよう。この時、その蛙は昔のことを覚えてはいるだろう。だが最早蛙らしい思考は出来なくなっている。せいぜいが、人間の頭で蛙の思考を想像し、トレースする程度だ。そしてそこには虚しいという感情だけが残る。
英一がやろうとしているのはそういうことだ。脳を別のものに作り変えても葉月との記憶は残る、ただしその記憶を今までと同じように見ることは出来なくなる。それほど劇的に変わってしまうということと、それまでの自己を喪失するということは、事実上限りなくイコールだと言える。
得意なスタイルなど何の意味もない。ベータへの憎しみも捨てる。葉月への思いを忘れ、あらゆる記憶を『過去にあったこと』だというただの認識へと変える。
ベータが求めているのは、そういうことなのだろう。そうしてこそ、姿形だけでもなく単純な能力でもなく、存在そのものが自分たちがいるステージへと近づくのだと。そう言っているのだろう。
──ならば。
ならば、それもいいだろう。
英一にはやはり、躊躇はなかった。
なに、上る階段が一つ増えただけだ。
存在を燃焼しつくすつもりでいたのに余計な残滓が残ってしまうことになるが、さほどの違いは感じない。
だから、自分はこの瞬間より『突き抜ける』こととする──
◇
ベータは、英一の拳を掴んでいた手を離した。
彼女の前にいる存在は、すでに人ではなかった。
だが、では何なのか、と問われれば彼女とて悩む。
『それ』を表す言葉が現在何処にも生まれていないがゆえに。
などと考えていると、『それ』が彼女を見た。
どうやら今初めて自分のことを認識したようだった。
それも善し、と彼女は思った。
そして、ならば最初に見えた自分が名付け親となろうと考えた。
『それが』近づいてきた。
彼女は一切動じず、淡々とタロットを回す。
22枚の大アルカナに、56枚の小アルカナも加えれば、このカードはありとあらゆる事象を指し示す。
その、はずなのに。
なぜかタロット達はぐるぐると回り続けるばかりで、何も示そうとしない。
その結果に、けれど彼女は僅かに微笑んだ。
つまり、これが意味するのは、『それ』がタロットの枠を超えたということ。
それは、彼女自身の予想を超えたことも意味する。
だからもう、自分は名付け親となることも出来ない。
彼女はその事実を喜悦の心で受け止める。
──合格だ。
彼女は『愚者』──回帰のカードを手に取り、『それ』に向けた。
いつかは、お前に相応しい名付け親が出て来て、良い名前を付けるはず。
だがそれは私ではないようだから、それまでは猶予期間としよう。
ここまで来た褒美を渡すから、今は戻ってゆっくりと成長するがいい。
ただし監視役は残すから、しっかりとやるように──