第二章-8
「どういう、こと……?」
愕然とした顔でピエレッタが呟いた。
無論英一にも応えられるはずがない。彼女の悪夢のような話を信じるならば、あのカプセル内の女性──クロエという名の彼女の母親なのだろう──があのような静かな表情となるはずがない。
では全てが偽りだったのか──? その疑問に答えるように、ピエレッタが口を開いた。
「……わたしがアクセスしたのはポラリスの最深部。科学のセキュリティは魔術の前に全く意味をなさないもの。だから一番ガードが硬い場所を覗いた……」
彼女は英一を見ていなかった。カプセルを見上げたまま、口元だけが動いていた。その声が、次第に、大きく震え始めて。
「そこには何もかも……パパとママが撃ち合う映像だって、残されていた! あれがフェイクだったとは思えない……! ──でも」
そして泣き声が混じった。
「でも、どうしてかわからないけど。もしかしてママ、苦しんでないのかな……? もしそうならわたし、ママを、ううん、ひょっとしたらパパも……殺さなくていいのかな……?」
上を向いたピエレッタの頬に、涙が伝っていた。止め処なく流れるそれは、顎先からぽたりぽたりとフロアの床に落ちていく。
英一には、その横顔を見つめることしか出来なかった。思考は混乱に極みにあり、状況の整理はまるで出来ない。ただ一つだけ、ひょっとしたらもう戦う必要は無くなったのかもしれないという漠然とした予感を抱く。
だがその時、ピエレッタの様子が突如変わった。両手でこめかみを押さえ、ひどく苦しげに呻き始めたのだ。
「お、おい」
どうした、と英一は手を伸ばした。だが指が触れる手前で引っ込める。
無意識の動きだった。なぜか、苦しむ少女の姿を見て全身の肌が泡立つような恐怖を覚えたのだ。
ピエレッタは合わない歯の根でかちかちと音を鳴らす。異常な状態だった。英一は意を決して彼女を抱きかかえようとした。だが、ピエレッタが何かした様子はないのに、突然不可視の力に弾き飛ばされる。強烈な衝撃を受けた彼の身体はフロアの中を飛び、壁に叩きつけられて床に転がった。
「く、くそ、なんだってんだ」
痛みを堪えて起き上がりながら、英一はピエレッタにもう一度目を向ける。そして僅かに彼女の様子に変化が生じていることに気付いた。
依然として苦しげに眉を寄せながら、彼女は何事かを呟いていた。
「ヴィオラ……どうして……? だ、だめ、そんなの……! やめて! やめてよ!」
「ピエレッタ……? どうしたんだ、おい!」
英一は慌てて駆け寄った。今度は弾かれない。ただ理由のない威圧感はむしろ強まっており──近づいただけで身が凍るような戦慄に囚われてしまう。
「なんなんだ、これは……お前、どうしたんだよ!」
英一はピエレッタの腕を掴んだ。途端、ぞっとした。わけもなく、触れてはいけないものに触れたと感じて、指が勝手に離れようとするのを必死で堪えた。
ピエレッタはそんな英一に眼を向けた。苦悶の表情を浮かべたまま、声を絞り出す。
「エイイチ、ごめん、抑え切れない……!」
「どういうことだよ!?」
「ヴィオラが──ベータが言ってるのよ……ママを殺す、って……!」
そう声を絞り出す間にも、ピエレッタの裡より生じる鬼気は膨らんでいく。とうとう英一も手を離してしまった。尋常ならざる気配に畏怖の心を植えつけられ、それに全力で抗うことしか出来ない。
「もう、無理……乗っ取られる! でも、でもママだけは……」
ピエレッタは苦悶に喘ぎながら、一度強く唇を噛んだ。千切れんばかりに歯を立てて、血を噴出させる。そして激しい痛みに自らを叱咤させ、口元から血を撒き散らしながら叫んだ。
「ママだけは──殺させない!」
次の瞬間、ピエレッタの身体は弾かれたように一方へ走った。その先には、窓がある。少女は雄たけびのような声を上げながらそれに体当たりをし、破砕音と共に外周の空へと飛び出した。
「ピエレッタ!」
英一は窓に駆け寄った。だが明らかに遅かった。既に少女の身体は重力に支配されていた。頭から落下し、今にも地上に叩きつけられようとしている。
間に合わない。そう理解しながらも、彼は少女を追って空を飛んだ。
◇
地上で一番はじめに異変に気付いたのは、高田だった。傷に喘いでいたにも関わらず、ガラスが割れる音を聞き取ると同時に銃口を上に向け、スコープを睨む。
照準が捉えたのは落下する少女の姿だった。引き金にかけた指に力が篭もるが、発砲はせず見守ることにする。
少女の体は潅木の隙間に吸い込まれた。だが地面に叩きつけられたにしては音がしなかったように思える。高田は銃を構えたまま用心深く近づいていく。
と、少女に続いてもう一人落ちてきた。咄嗟に銃口を向けたが、それが英一だと悟ると舌打ちして照準を戻す。今の彼には、英一の存在など邪魔以外の何者でもなかった。
だが次の瞬間、少女の落ちた場所から何かが飛び出してきた。対象だ。やはり死んでいなかったか──。高田は今度は引き金を引いた。
だが──外れた。
「なんだと!?」
彼は大声で叫んだ。有り得ない話だった。傷を負っていようが、狙いは一切崩れていない。銃は言わずもがなの怪物で、弾丸の初速度は軽く音速を超える。本来は外れる要素がないのだ。
彼の目には、少女の姿が掻き消えたようにしか見えなかった。道化師。その言葉が頭に浮かび、悪態をつく。だが奴はどこに?
彼は動物的勘で振り向いた。その先にはたしかにピエレッタがいた。この一瞬の間に、10メートル以上も離れた地点に。その上完全な無傷だ。
ありえねえ、と彼は呟いた。
そして敵の様子が何かおかしいことに気付き、目を細めた。
◇
本来、『彼女』──ベータの思考を紙面で違えずトレースすることは不可能である。彼女は過去を知り、未来を知り、同時に100の事象を考える。そこに文脈はなく、因果の繋がりもない。意識は分かれて中空に点在し、群体として機能しながら各々が紛れもない単一の個として成立している。
だがピエレッタという少女と共棲した『1つ』については、肉体的制約に引きずられた結果、比較的わかりやすい思考を有していた。その最たるものが『感情』である。彼女はこの時、人類が分類出来る程度には、その心的作用に縛られてしまっていたのだ。
そしてベガの塔から落下した際のベータは、『不機嫌』だった。無論、少女に邪魔されたのが理由だ。宿主とはいえ、自身の子孫に行動を阻害されるなどベータには思いもよらぬことだった。
更には、そんなタイミングで彼女に向けられてしまった銃口がある。ベータはそれを睨めつけた。ついつい肉体を守る意識が働いて一度は避けてしまったが、何のことはない、ただの人間の兵器である。敵には全く値しない。
ただし、今の人類には過ぎた力であるようだ。彼女はその武器に向かって、一枚のタロットをかざした。──カード名『節制《Temperance》』。
「な……っ!?」
銃口を構えていた男──高田が狼狽の声を上げた。当然だろう、突如手持ちの武器が消え失せたのだから。『節制』は完全なる平穏を司る。いかなる武器も、その前では存在を許されない。
だが高田は、ベータが思った以上に愚かだった。彼女の『中身』が全く別の何かに入れ替わっていることに直感で気付いていながら、自身の戦闘欲求に溺れたのだ。
「面白ぇじゃねえか!」
そう言い放った彼は、背に負っていたアサルトライフルを腰溜めにして間髪入れずトリガーを絞った。ガトリングに匹敵する連射速度であっという間に全弾を撃ち尽くすと、すかさずマガジンを交換してまた斉射。髪の毛一本残さない勢いで弾幕を張り、それでも足りぬとばかりに腰差しのサーベルを抜き放ち、突進する。
だが、全ては徒労だった。それは高田自身がどこかで悟っていたことでもある。硝煙の幕の中から姿を現したベータは、数瞬前と同じ姿勢で立っていた。だらりと腕を下げ、タロットすら使っている様子がない。避ける必要を感じていないのだ。
「化け物め!」
首の裏の肉が盛り上がるような戦慄を覚えながら、高田はベータに向けサーベルを振りかざす。だが彼の顔に浮かんでいたのは哄笑だ。昨日少女に自身の棲家とさえ言える基地を破壊され、重傷を負い──そして今、再戦するも歯牙にもかけられずに敗北しようとしている。こいつはいったいどれほどの力を持っているのか? どれほどの差を見せ付けてくれるのか? これではもう──笑うしかないではないか。
サーベルはベータの肩口に振り下ろされた。だが肉に食い込む前に止まる。切れたのは服だけだ。硬く弾かれる感触すらなく──ただそこで刃を止められる。
高田の身体は突進の勢いのまま、ベータとぶつかった。しかしそれも意に介されない。触れた瞬間、相手のおぞましさを肌で理解した彼は、少女の耳元に口を寄せ囁いた。
「殺せ。出来るだけ無残にな」
ベータは横目でそんな彼の顔を見た。そして表情を変えぬままこくりと頷き──1枚のタロットを彼の背中に貼り付けた。──カード名『吊られ男《Le Pendu》』。
次の瞬間、辺りに高田の絶叫が響き渡った。その身体が溶け出している。皮膚は瞬く間に流れ落ち、ぐずぐずと崩れた肉が耐え難い臭気を放ち始める。
自身の身体が融解していくさまを間近で見せられ、高田の叫びは常軌を逸した笑いへと変化した。痛みも想像を絶しているはずだったが、しかし彼は空を見上げ呵呵と笑い続ける。
溶解は止まず、やがてあちこちの骨が露出し始めた。眼窩は抜け落ち、口蓋には溶けた肉が溜まって喉を潰し、笑い声を封じる。遂には骨すら溶け出す段に至って、彼の身体は肉の残骸と共に地に崩れ落ちた。
『吊られ男』の意は『残酷な結末』。実現するのはひたすらにグロテスクで凄惨な死だ。それは生者から高田の記憶すら消す。痕跡を何一つ残さず、生きていたという事実まで奪う。
溶け落ちた高田の細胞が蒸発し、立ち昇った臭気がベータの顔にまで届いた。だが、彼女は気にする風もなく次の行動に移る。
彼女は考えていた。最初に消した武器、あれは一つきりではないだろう。全て消しておく必要がある。だがどれほどあるのか。……面倒だ。
わずらわしさを感じた彼女は、一時に処理してしまうことにした。そのために、さらに1枚取り出す。
それは奇妙なカードだった。他と異なり、端に番号が記載されていないのだ。図柄は比較的平凡なもので、杖を右手に草原を歩く男の姿が描かれている。──カード名『愚者《Le Mat》』。
それは22番目でありながら0を意味するカード。あらゆるタロットにおいて最強と位置づけられるカード。そしてここに描かれた愚者とはベータ自身を示しており、それゆえピエレッタには使うことの許されなかった、字義通りの切り札であった。
このカードは22と0とを繋げる。大アルカナは22をもって終わりを告げ、しかし『愚者』によって0へと回帰する。それは無限の輪環だ。あらゆる数が循環し、渦を巻く。そこには『場の制約』など最早存在しない。
次の瞬間。
ベータは手にした全てのカードを開放した。
◇
ベータが何をしたのか、その場にいた人間の中で最初にそれを知ったのは比嘉だった。
「なんだと!?」
彼は軍部からの通信を受け、その報告を聞くや叫んでいた。
有り得ない話だった。何かの間違いだと思って幾度も問い直すも通信士官の報告は変わらない。気が違えたのかとまで考え別の人間を呼び出すが、結果は同じだった。
「馬鹿な……」
常軌を逸した事態だった。彼が部下に指揮させて──そういえばここにはその部下を連れてきていたような気がしたが、なぜか顔が思い出せない──非公然に構築していた研究施設。ポラリスを揺籃都市と揶揄する軍部の圧力をかわすため、地下100メートルに展開させたその一大武器製造基地が、たった今、忽然と消失したというのだ。
のみならず、施設の衛星局──ポラリスの10数箇所にそれらは分散して配置され、徹底した冗長措置を採られている──までもが同時に消えたという。
いったい、何をどうしたらこんなことが可能なのか。
比嘉は会議室で見た映像を思い出した。
あの埒外の暴虐。
つまり、目の前にいる少女は、それと同じレベルの存在となったのか。
だとしたら、最早ポラリスは──
彼は、呆然と立ち尽くした。
◇
英一は比嘉の姿を目の端で捉えながら、ベータに近づく隙を窺っていた。
彼は状況を把握出来ていなかったが、塔の最上階でのピエレッタの言葉から、ベータが少女の身体を乗っ取ってクロエを殺そうとしていることだけは理解した。
ということは、いずれデネブも──。
このまま放置すれば、危害は自身の母にまで及ぶかもしれない。
子供のような泣いていたピエレッタの、その両親。ポラリスの全住民を星幽体から守るバリア。そして、自分の母親。そのいずれにしても、英一にはベータを黙って見過ごすわけにはいかない理由があった。
しかし──。
彼は自分の腕を抱きかかえた。抑えようも無い震えが全身を走っていた。ただ彼女の姿を見ているだけで、畏怖と戦慄に涙すら浮かぶ。
ベータは幾枚ものカードを身体の前に浮かべていた。『愚者』を中心に据え、残り全てが同心円状に並んでその周りをぐるぐると巡っている。スピードが速すぎてカウントしきれないが、ざっと見る限りおそらくは残り21枚全て──。
それがいったいどれだけのことを可能とさせるのか、想像するだけで眩暈がしそうだ。
だが、それでも。
それでも、と彼はその場に踏みとどまった。逃げることは感情が許さない。ならばせめて、立ち向かう。彼は葉月のことを思った。それから、れんのことを思った。諒子のことを思い、ありさのことを思い、ハクのことを思った。
その先に生まれた願いはいたってシンプルだった。──力よ。彼はただそれだけを願った。願って、生じた力を全身に行き渡らせた。
ベータを畏れる心は消えていた。畏れる、という感情を無理やり忘却した。無論それは一時限りのものだ。恐怖が再び足元より黒い手を伸ばしてくるのを自覚するが、捕らえられる前に彼は疾走った。そしてベータに向けて渾身の力で拳を突き出す。
そこからは。
悪夢だった。




