遼国の次に田虎
天子から御筆親賜(直々)の七品薬丞という泥詔(任官状)が州県へと伝達されて以降、独竜岡は得難い政治的庇護を獲得し、局勢は完全に安穏を取り戻していた。独竜岡の名声が河北や斉魯の大地のなかに暗中(水面下)で伝播していくにつれ、四方の動転を逃れて前線から頼ってくる外部の流民の数は、日々じわじわと増加し始めていた。
しかしながら、最近の一段の時期にあって、山岡の下の局勢は極めて奇妙な変遷を見せていた。それは、毎日湧入(流入)してくる人潮のなかにあって、往時の梁山泊の旧部人員が占める比率が急激に跳ね上がっているという事実だった。
内政と民政の全体を総監する楽大娘子は、ここ数日の間、直々に民政棚(受付処)へと降り立ち、古い時代に梁山泊で顔を見知っていた老兵たちを細心に盤問(聞き取り)していった。
それら老兵たちは誰もが眼眶(眼の縁)を真っ赤に腫らし、温かい雑穀の粥をすすりながら、前線の大部隊に付き従っている夫や兄弟から、幾人の手を経てようやく転送されてきた血の滲むような家書(手紙)を懐から取り出すのだった。これと同時に、主管外政の防務を担う顧大嫂の元にも、夫の孫新や、その兄である孫立が行軍の途上から楽大娘子に向けて暗中に送り届けてきた書信(密書)が届いていた。
これら密書や家書の内容が一文字ずつパズルのように噛み合わされたとき、梁山泊が朝廷へ投降した後に迎えた悲惨極まる運命と、その身の上に降りかかった荒唐無稽な遭遇の全貌が、独竜岡の中枢たちの前に生々しく曝け出されることとなった。
宋江が大部隊を率いて東京汴梁へと北上し、招安を受け入れた際、その軍勢は四万人を超える莫大な兵馬を誇っていた。しかし東京へ至るや否や、朝廷のなかにのさばる蔡京や高俅らの貪官汚吏(悪徳官僚)どもは即座に陰険な手段を弄し、「経費削減」という名目を掲げて、四万の軍勢を一気に二万人規模にまで冷酷に精簡したのだ。大量の老弱な兄弟たちは、用済みとばかりにその場で無残に裁撤(解雇)され、路頭に迷って飢え凍える身となった。
その後、朝廷は死命令を下し、その二万の残部を北方の強国である遼国の攻打(侵攻)へと赴かせた。しかし部隊がようやく中路まで進軍したとき、朝廷の政令は朝令暮改の如くに一転し、今度は銃口を逆方向へと反転させて山西の田虎を討てと命じたのである。




