兵馬動く前に兵糧あり
兵馬未動、糧草先行(兵馬動く前に兵糧あり)。家屋の建設が概ね片付いた今、この二百人を超える口(人間)の胃袋をいかにして満たすかという課題は、独竜岡の頭上に突き刺さるもう一振りの鋭い剣となっていた。
当初、梁山泊から撤退する際、宋江は美嘉へ百車の物資を撥ねてくれたが、そのうち本物の糧米(米糧)はわずか二十車前後に過ぎなかった。すでに一ヶ月が経過した今、この元より潤沢とは言えなかった存糧(備蓄米)も、すでに底を突きかけていた。
口糧(食糧)を捜し求めるため、「母大虫」顧大嫂はそれこそ持てる限りの手腕を尽くしていた。彼女は一辺で留守の女兵や親衛を組織し、一辺では林冲と武松の二人に助力を請い、漫天の風雪が吹き荒れる深山林莽(深い山林)のなか、寒風に身を曝しながら野猪(野豚)や山兎などの野味(野獣の肉)を少なからず仕留めてきた。それと同時に、阮氏三雄も岡の下に縦横に走る河道に大きな漁網を打ち振り、毎日引き上げる魚蝦(魚介)の数もまた不計其数(数知れず)であった。
しかしながら、単に山林での野猟と河道での捕撈(漁)を頼るのみでは、到底山砦全体の日常の消耗を支え続けることは叶わなかった。
山中の野味は獲るほどに数を減らし、河の中の魚蝦もまた、厳しい冬の寒さのために次第に深い水底へと潜り込んでいった。無奈(仕方のない)ことに、美嘉は手元に残された貴重な庫銀(蓄えの現銀)を切り崩し、人を山の下の周辺の県城や集鎮(市場)へと派遣して米糧の大規模な買い付けに当たらせた。しかし、そうして手を打つうちに、元から富裕とは言えなかった現銀は神速の如くに縮水(減少)していった。誰もが知る通り、この宣和末年の乱世にあっては四方が動転しており、官府による糧食の制限も厳しく、ただ米を買うことのみを頼るやり方は、断じて長久の計とは言えなかった。
転機は、心思細膩(細やかな気配り)な楽大娘子の存在によってもたらされた。
ここ数日の間、楽大娘子は命を受けて商路の開拓(下見)のために山を降りていたが、その際、独竜岡の周辺にあるいくつかの偏僻な山谷のなかに、兵禍を逃れて四方へと流竄(逃亡)している大量の難民の姿を発見したのだ。これら災民(被災した民)はおよそ数百人に及び、その多くは世代にわたって農事に従事してきた精壮な漢子(男たち)や農婦であり、ただ家園を打ち砕かれたがゆえに、この地にまで淪落(落ちぶれて)していた。




