三娘は、梁山泊に嫁ぎます!
三日目の朝。早朝の薄霧は、まだすっかり晴れていなかった。
美嘉はさっぱりとした動きやすい稽古着に着替え、三娘が使っていた、白く光る二振りの日月双刀を手に、裏山の人気のない稽古場へまっすぐ向かった。
この身体に残された刀術の基礎は、実に見事なものだった。美嘉は深く息を吸い、双刀を構えて振り出した。たちまち冷たい光が閃き、風を切る音が立て続けに響いた。
けれど、しばらく稽古を続けると、現代人の美嘉には少し単調に感じられてきた。一つ一つの型を繰り返す昔の稽古には、現代のスポーツにある刺激やリズムが、いくらか足りない気がした。
双刀を収め、ふと武器棚に目を向ける。そこには、暗器として使う投げナイフ――飛刀が並んでいた。
『水滸伝』の扈三娘は、もともと投げ縄や飛刀を自在に扱う達人だ。得物の釣り合いを感じ取る感覚にも、並外れたものがある。
美嘉の右手が、急にうずうずしてきた。
一歩踏み込み、腰をひねり、腕を引く。脳裏に浮かんだのは、かつて部活動で何度も汗を流した夕暮れだった。
ソフトボールのカーブを投げる、身体に染みついた動き。その姿勢から、右腕を一気に振り抜いた。
「シュッ――!」
飛刀は、まっすぐには飛ばなかった。異様なほど鋭い弧を描き、折れ曲がったかと思うように進路を変え、前方に張り出した松の枝をかわす。そのまま唸りを上げ、木の的の赤い中心へ、寸分違わず深々と突き刺さった。
「よし! カーブ成功!」
美嘉は興奮して拳を振り上げた。
この武人の身体が持つ、とてつもない力。それに前世の正確なコントロールと、手首や指先で回転をかける技術が加わったのだ。暗器が、とんでもない威力の変化球へと生まれ変わったようだった。
ストレート、スライダー、さらには落差のあるフォークまで。
自在に使いこなすには、まだ時間がかかる。それでも試すたびに感覚がつかめ、狙いも少しずつ正確になっていった。しまいには、少女が遊びに夢中になるような、気楽な楽しさまで湧いてきた。
手首を鋭く返す。
最後の一刀は、狙いの読めない、まとわりつくような奇妙な軌道で斜めに飛び出した。稽古場の大半を横切りながら、信じがたい二重の弧を描き、思いもよらない角度から、的の端へ深々と突き立った。
「見事――っ!!」
突然、雷のような大喝采が、稽古場の静けさを破った。
美嘉はびくりとして、勢いよく振り返った。
いつの間にか、稽古場の端に何十人もの人が立っていた。先頭にいるのは大頭領の宋江。そのそばには林冲、秦明、杜遷、宋万、そして好色そうな顔をした王英までいる。
好漢たちは、実はずいぶん前から来ていて、しばらく彼女の稽古を眺めていたのだった。林冲や秦明たちの目には、驚きと畏敬の念がありありと浮かんでいた。
「妹よ、その飛刀はまさに神業だな!」
宋江は手を叩きながら、笑顔で歩み寄ってきた。
ずんぐりと手足の短い王英も、いやらしい顔をにやつかせて近づいてきた。鼠のような目は、美嘉のすらりとした身体に貼りついたままだ。黒ずんだ汚い手をこすり合わせ、馴れ馴れしく言い寄る。
「兄貴の言うとおりだ! うちのかみさんになる娘は、なかなかの腕だぜ。だが寝所に入っちまえば、その腕でいつまで俺に逆らっていられるか……」
吐き気のするような言葉に、美嘉は眉をひそめた。
王英は背が低く、手足も短い。顔つきは凶悪で、清風山にいたころには、平気で人を殺して心臓をえぐっていた。人肉まで食らう、正真正銘の凶賊だ。こんな下劣な男にじろじろ見られるだけで、胃がむかついてくる。
聚義庁へ出向いて宋江と話をつけるなど、絶対にやめよう。美嘉はそう心に決めた。
宋江は浅黒い顔に、思案するような表情を浮かべていた。
昨夜、配下の者たちの意向を聞き、今日、新しく来た頭領たちが集まるのに合わせて、王英を皆の前で引き立てるつもりだった。そのついでに扈三娘を嫁がせ、清風山の古参たちの心をつかもうとしていたのだ。
頃合いと見た宋江は一つ咳払いをし、「及時雨」らしい鷹揚な態度で口を開こうとした。
「この不届き者が! 何をたわけたことをほざいておる!」
身の程知らずな王英の言葉が終わらぬうちに、背後から威厳のある怒声が飛んできた。
宋太公が杖をつき、李応と杜興に付き添われて、ゆっくりと稽古場へ入ってきた。
昨夜、胃の温まる薬膳の魚スープを振る舞われて以来、宋太公は、この素直で気の利く義理の娘が、かわいくて仕方なかった。今朝もわざわざ李応を誘い、様子を見に来たのだ。
先ほどから稽古場の端に立ち、美嘉の精妙な「変化球の飛刀」を、その身軽で愛らしい動きごと、すっかり見届けていた。
こんな驚くべき武芸まで目の当たりにした今、この申し分のない娘を、王英のようなろくでなしに嫁がせるなど、何があっても承知できなかった。
宋太公は青ざめた王英など相手にもせず、優しく美嘉の手を取ると、横目で宋江を見た。
長く生きてきただけに、物事の扱いは心得ている。昨夜、美嘉に約束したとはいえ、ここでは皆の顔も立てなければならない。王英の名は直接出さず、しかし誰を指すのかは明らかな口ぶりで、大きな声を上げた。
「公明! 昨日も言ったであろう。三娘は今や、わしの実の娘も同然だ。つまり、お前にとっても実の妹ということだ! 今日、その腕前を見せてもらったが、これほど天下に並ぶ者のない技を持つ娘なら、嫁ぐ相手も堂々たる大英雄でなくてはならん! 女に目がなく、人まで食らう山賊のくずなどに、そうやすやすとくれてやれるものか!」
王英の名こそ出なかったものの、そのひと言ひと言は、清風山の人肉食いや娘の略奪という醜聞を、容赦なくさらけ出していた。
周囲の好漢たちの視線が、一斉に王英へ集まった。その醜い顔はたちまち赤黒く染まり、地面に亀裂でもあれば潜り込みたいほどだった。
宋江は困惑し、額に冷や汗を浮かべた。
普段は山寨の政務に口を出さない父親が、この場で異を唱えるとは思わなかった。笑ってごまかそうとしたが、宋太公は美嘉の、傷つきながらも澄んだまなざしを見ると、すっかり頑固な父親の顔になっていた。
稽古場の独り身の好漢たちを真剣に見回し、皆の前で娘の婿探しを始めてしまったのだ。
「わしの見るところ、花栄という若い将は顔立ちもよく、弓の腕も天下一品だ。うちの三娘の相手としては申し分ない……む、花栄、お前はもう妻がおるのか? それなら、まあ、仕方がない」
端にいた「小李広」花栄は、危うく唾を喉に詰まらせそうになり、顔を赤くして慌てて手を振った。
宋太公はまだ諦めない。今度は、そのそばに白い衣をまとって立つ、威風堂々たる「豹子頭」に目を留めた。
「林教頭! 林冲よ! お前は豹のように立派な頭に丸い目を持ち、武芸も優れておる。すらりとしたうちの三娘と並べば、なかなか似合いの夫婦ではないか……確か、お前には妻がいたが、この前、離縁状を書いたのではなかったか? 今は離縁して、独り身なのだろう? どうだ、ひとつ……」
「ぶははははっ!!」
真っ先にこらえきれなくなったのは、気性のまっすぐな「霹靂火」秦明だった。膝を叩き、その場で大笑いした。
続いて杜遷や宋万をはじめ、居合わせた好漢たちが吹き出した。李応まで、思わず笑みを漏らしている。
厳粛だった稽古場は、たちまち笑い声に包まれたお見合いの場になってしまった。
いつもは冷ややかで気位の高い林冲さえ、この少々見当違いな、とんでもない縁談には顔を真っ赤にした。気まずそうに鼻を触り、何度も咳払いをする。
一方、いつの間にか最後尾へ引っ込んでいた王英は、もはやいたたまれなかった。恥ずかしさに顔を赤くし、穴があれば入りたい思いだった。すっかり皆の笑いものになってしまったのだ。
宋江は父の騒ぎに、泣くにも笑うにも困った。しかし、父が今日は何としても扈三娘を守り抜くつもりなのだと、はっきりわかった。
好漢たちが皆、笑っている。この場でなお王英との婚姻を持ち出せば、自分まで笑いものになるだけだ。
仕方なく乾いた笑いを浮かべ、王英へ目配せした。この縁談は、もう持ち出すなという合図だった。
皆の楽しげな笑い声が響く中、中央に立つ美嘉の大きな目から、不意に、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。
その痛ましい様子に、宋太公は胸を痛め、慌てて袖で涙を拭ってやった。
ところが次の瞬間、美嘉は宮崎駿のアニメに出てくる、泣き顔から笑顔に変わる元気な少女のように、ぱっと表情を輝かせた。
頬にはまだ涙が残っている。それなのに、左手を伸ばし、右手も回して、宋江と宋太公の腕を同時に、親しげに抱え込んだのだ。
家族みんなに甘やかされて育った末っ子のように、美嘉はさまざまな顔をする一同へ向け、晴れ晴れとした、まぶしいほどの笑顔を見せた。
澄んだ声が、山あいに響き渡る。
「お義父さま、ありがとうございます! お兄さまも! 皆さん、もう三娘の結婚を心配しなくていいんです! 梁山泊へ来たからには、この命は山寨のものです。これから三娘は、誰にも嫁ぎません。この一生を――私たちの梁山泊に嫁がせます!」
言い終えると、顔色を失っている王英に向かって、わざといたずらっぽく舌を出した。
「王大頭領、これから山では、毎日お兄さまたちに飛刀の稽古をつけていただこうと思っていますの。どうぞ、たっぷり教えてくださいね?」
「よく言った――っ!!」
今度は林冲も花栄も、思わず声を張り上げた。
秦明や宋万たちは、この娘の気の強さと機転に、すっかり感服していた。稽古場いっぱいに、波のような大喝采が湧き上がった。
宋江は、あっという間に泣き顔から笑顔へ変わった義妹を見つめた。
「梁山泊に嫁ぐ」のひと言で王英との縁談を完全に断ち切り、そのうえ山寨への忠誠まで示してみせたのだ。
宋江はやれやれと首を振り、思わず笑った。その目にあった警戒もすっかり消え、この賢い妹への親しみだけが残った。
降り注ぐ歓声を浴びながら、美嘉は心の中で、得意げに口笛を吹いた。




