汴京の樊楼、橘香書院の夜宴―帝都の華光と、道君皇帝の視線
朝廷の招安詔書は、紆余曲折の末に聚義庁へと送り届けられた。
宋江はその御印の捺された明黄色の絹帛を見つめ、漆黒の両手を激しく震わせ、危うく掴み損ねそうになっていた。彼は人生の大半を泥にまみれて生きてきたが、求めていたのは「改邪帰正、加官進爵(まっとうな身分になり、官位を進めること)」という、ただその八文字に尽きていた。前線における万人の死傷、史文恭の放った毒箭、晁天王の遺言、そのすべてが、この一瞬、彼の心の奥底に染みついた朝廷への盲従(唯唯諾諾)の念によって完全に掻き消されていた。
正式な投降前の最終交渉を執り行うため、宋江は自ら精鋭を率いて大宋の首都である汴京(開封)へと赴くことを決意した。
そして、本来であれば男たちだけの政治的な社交の場であるはずのその旅路に、指名手形のように、誰もが予想だにしなかった一人の名が加えられていた。
――一丈青、扈三娘。すなわち、美嘉である。
その理由は極めて荒誕(荒唐無稽)でありながら、同時に極めて現実的なものだった。美嘉が現代の薬学知識と衛生管理を以て両軍の無数の将兵を救った「下凡の薬聖」という神医の名号は、すでに朱貴の地下商路を通じて天下にくまなく轟き、あろうことか深宮の奥で贅沢と放蕩に耽る大宋の徽宗皇帝の耳にまで届いていたのだ。朝廷の密信には、明確にこう記されていた。
『朕、その姿を一目見んと欲す。もし扈三娘の同行なき場合は、招安交渉を無期限に延期とする』
宋江は他に、柴進、燕青、林冲の三頭領を同行者に指名した。
宣和年間の汴京城は、まさに人間の富貴の華が最も荼蘼(とび/爛漫)に咲き誇る季節を迎えていた。
華灯が灯り始める頃、高楼たる樊楼には万の明灯が灯され、馬行街の通りは車水馬龍(馬車と人で溢れ)、空気中には蘇合香の芳香と杏花春酒の芳醇な甘みが濃厚に漂っていた。
宋江は青石の敷き詰められた御道を歩みながら、両側に鱗次櫛比並ぶ勾欄瓦舎や珠翠羅綺のきらびやかさを見つめ、その両眼は高門大戸の豪奢を直視することすらできなかった。天子の膝元にあるこの煌々と輝く帝都は、まるで目に見えぬ巍峨(峻険)たる大山の如く、彼がかろうじて梁山泊で蓄えてきた草莽の鋭気を、跡形もなく粉砕していた。彼は歩みを進めるごとに腰の曲がりが深くなり、平日は雨を呼び風を興した及時雨の面影はなく、この時の姿は初めて都会に足を踏み入れた田舎のしがない下級役人のように卑小だった。
しかし、その傍らを歩む美嘉の姿は、この汴京の夜色のなかで、誰しもが視線を逸らすことのできない圧倒的な驚艶(美しさ)を放っていた。
元の世界において豊かな家柄に生まれ、何不自由なく寵愛を受けて育った大学三年生である彼女は、現代の魔都のネオンや摩天楼を見慣れていた。汴京の繁栄は、彼女の眼には鮮烈で古風な情趣を湛えた一幅の絵巻物のようには映ったが、その清徹な心臓の鼓動を乱すほどのものではなかった。
独竜岡の名門の血統は、この肉体に比類なき高雅な気品を与えていた。美嘉は原主の着ていた青色の戦裙を纏わず、代わりに素雅でありながら極めて昂貴(高価)な縳雪(深紅)色の重縐(絹織物)の長裙を身に付け、腰には氷蝉糸の絛(帯)を無造作に結んでいた。それは、長年のソフトボールで培われた高挑で流暢な線の美しさを持つ完璧な肢体を、まるで風に臨む一株の白玉蘭のように美しく浮き上がらせていた。
烏黒の長髪は古代の複雑な既婚の髪型には結わず、元の世界で親しんだ松垮リボンを使い、気怠げに後頭部で結い余らせ、数筋の髪が白皙で細やかな鵝蛋(卵型)の顔を我が物顔に撫でていた。
名門千金としての気高さ、現代薬学の高才生としての知性、そしてソフトボール部の王牌投手だけが持つ骨の奥からの清爽さと自信。――それらの奇妙な融合は、彼女がそこに佇むだけで、この時代そのものを凌駕するような驚世の美を醸し出していた。
常に眼が高く、ありとあらゆる錦衣羅綺を着こなしてきた貴族の公子「小旋風」柴進でさえ、出発の前に美嘉の姿を目にしたその刹那、あまりの衝撃に連足(思わず)半歩後退し、心の底からの感嘆を漏らしたほどだった。
「賢妹のその風采は、まさに天人だ。汴京城の庸脂俗粉(並の女たち)など、恥ずかしさのあまり面目を失うだろうな」
偏廊の下、手首の傷が癒えたばかりの林冲は、月光に照らされた美嘉の清徹で不屈な大きな瞳を見つめ、その冷傲な俊美の面に一本の紅暈(赤み)を走らせながら、死に物狂いの忠誠を以て腰の長刀をがっちりと押さえ、さながら彼女の影の護衛のように付き従っていた。
燕青が投じた千両の黄金による周旋の末、一行はついに全汴京で最も神秘的であり、最も贅を尽くした秘所――李師師の橘香書院へと足を踏み入れた。
暗香が仄かに浮動し、絲竹管弦の艶やかな音色が耳に絶えることはない。
天青色の羅裙を纏い、名だたる天下の「大宋第一名妓」李師師が静静と姿を現したその時、宋江の膝は一瞬にして砕け、その場に頽れんばかりになった。彼は頭を低く垂れ、この名妓の顔を直視することすら叶わず、ただ唯唯諾諾と卑しい笑みを浮かべ、口からはへりくだった追従の言葉ばかりを吐き散らしていた。
しかし、その傍らに座る美嘉の佇まいは、どこまでも堂々としたものだった。
彼女は静かに椅子に腰掛け、片手で顎を支え、その霊動な大きな瞳には微塵の畏怖もなかった。現代の女性特有の好奇と審美の眼差しを携え、優雅に、そして直白に、この「皇帝の地下の愛人」の姿を観察していた。
李師師の顔立ちは端正な瓜子型をしており、容貌は極めて美しく、風情万種(妖艶)であったが、美嘉の身に纏う気質はそれとは根本的に異なっていた。
李師師の美は、風塵(色街)の中に咲いた依附(依存)の華であり、権貴に媚びるような艶っぽさを帯びていた。しかし美嘉の美は、天生の高貴さであり、他人に頭を下げぬ独立の風貌だった。何一つ濁りのない清徹な瞳がスッと通り過ぎるだけで、自らの風流を天下無双と任じていた李師師の心の奥底に、一筋の自慚形穢(気圧されるような自卑)の念を抱かせるに十分だった。
酒が三巡したまさにその時、橘香院の暗門の奥がにわかに騒がしくなった。
大宋朝の最高統治者であり、道君皇帝たる宋徽宗・趙佶が、文人の青衫(ふだん着)を身に纏い、密かに臨幸(お出まし)されたのだ。
「微臣……小人の宋江、万歳(主上)を叩見(拝謁)いたします!!」
皇帝の姿を目にしたその刹那、宋江の脳内にある「忠君」という名の鎖は完全に断ち切られた。彼は身体の骨が抜けたように床の上へと啪嗒(へたり込み)、まるで怯えた鶉のように、漆黒の両手で死に物狂いに地面を掻きむしり、滝のような大汗を流しながら、これまで誇ってきた草莽の好漢としての勇気も威風も、塵一つ残さず消失させていた。
柴進と燕青も慌てて頭を低く垂れて礼を執り、天顔(天子の顔)を汚すことを恐れていた。
ただ一人、美嘉だけが、四平八穏(何事もないかのように)に椅子に腰掛けたままでいた。
現代の法治社会で育った大学三年生にとって、眼の前にいる男が「真竜天子」という神権の持ち主であるはずがなかった。彼女の眼に映るその男は、歴史教科書に名を残した一人の昏君(暗君)であり、文芸の気が濃厚な一人の芸術家に過ぎなかった。
彼女は微かに身体を福(小さく一礼)させたが、そこには礼数を失わぬだけの品格があり、へりくだるような卑屈さは毛頭なかった。高挑なその身の丈を真っ直ぐに伸ばし、清徹な視線を宋徽宗の眼差しへと正面からぶつけ、歴史に名高い道君皇帝の姿を直白に観察していた。
趙佶は突如として見知らぬ外人に出会ったものの、驚く色はなかった。一歩を踏み出した彼は、床の上に死んだ犬の如く這いつくばっている宋江など一瞥もくれず、その視線は、李師師の肩を通り抜けた刹那、完全に、死に物狂いに美嘉の身体へと釘付けにされた。
驚艶。
それは、趙佶がその半生において、後宮の三千の美女や、青楼の無数の名妓のなかでも、ただの一度も見面(目にした)ことのなかった至高の風華だった。
眼の前に佇むこの瑞々しい娘には、汴京の女性特有の脂粉の匂いがどこにもなかった。その大きな瞳は初春の氷雪の如く清らかに澄み渡り、高挑で修長な身のこなしには、容易に手懐けることのできぬ野生の強さと尊厳が満ちあふれていた。
「こちらの、お嬢さんは……」宋徽宗の風流を湛えた鳳眼が一瞬にして輝き、その声の調子すらも数倍和らいだ。
宋江は床に伏したまま、恐怖のあまり魂を飛散させ、汗を拭いながら結結実実(必死になって)に床に頭を叩きつけた。
「か、輝く皇上(主上)! こちらは草民の義妹、一丈青・扈三娘にございます。江湖に流通しております幾多の薬品は、すべてこの者が製造いたしたもので……」
宋徽宗の興致(機嫌)は最高潮に達し、再び美嘉へと視線を巡らせた。李師師が手際よく宮廷の御酒を卓へと並べ立てると、趙佶は師師と美嘉、そして同行の者たちの手を引き、ともに杯を傾け始めた。




