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泥濘の刮毒刀――仇敵たる黒鉄牛と、薬学徒のプライド


いまや八百里梁山泊の全砦において、全軍の糧草はもちろん、甲冑や兵器、使用される草薬や布地、さらには守砦の士卒たちが日々貪る烈酒や、身体を洗う石鹸に至るまで、すべてが美嘉という大学三年生の薬学部女子の差配のもとに置かれていた。

この時代特有の女性に対する認識の局限ゆえ、百数十人いる頭領のなかで、彼女が座る席は第四十、五十番前後の交椅に過ぎない。しかし、もしも彼女が首を横に振れば、前線の三万の大軍は明日には糧食を断たれ、薬を失い、号令はたちまち大混乱に陥る。実質的な権力のレバーは、彼女が握っていた。


だが、美嘉の胸の奥には、常に一本の鋭い刺が突き刺さったままだった。

――黒旋風、李逵。

原作の運命において、扈家荘を血の海に変え、彼女の家族を皆殺しにした不共戴天の仇敵である。転生して以来、山道で彼の粗俗な咆哮や板斧が風を切る音を耳にするたび、元の体の持ち主である扈三娘の残した極限の恐怖が蘇り、この肉体は本能的に激しく震え、冷汗を流した。

梁山の好漢たちは李逵の凶暴さを「天真無邪で、へべれけな鉄牛」などと笑って済ませていたが、現代人である美嘉の眼に映るのは、極限の嫌悪と邪悪そのものだった。無辜の民を事あるごとに肉泥へと叩き切る連続殺人魔の、どこが天真爛漫だというのか。

(……ただ、機会を待っているだけ。あいつを合法的かつ合理的に、この世から消し去るためのチャンスを)

その機会は、官軍を迎え撃つ激しい阻撃戦の最中、最悪の暴雨とともに訪れた。


その日は大雨が激しく注いでいた。李逵の黒い身体はまたしても悪癖である蛮勇を暴発させ、二丁の板斧を手に単騎で敵陣へと孤軍深入した。結果、官兵の強弩隊が放った乱箭の餌食となり、大腿部と腹部に数発の毒箭を受けて、鮮血にまみれたまま泥濘のなかに一瞬にして転落した。周囲の小嘍囉たちは死傷し尽くし、官兵の朴刀がまさにその首を撥ねようとしたその瞬間。

美嘉は戦馬を駆り、鞍に薬箱を跨がらせて、破天荒にも自ら遊撃隊を率いてその戦場へと駆けつけたのだ。

泥水のなかで苦悶にのたうち回り、息も絶え絶えになっている李逵を見つめながら、美嘉の指先は懐に隠した飛刀の柄を死に物狂いで締め上げていた。

周囲は乱戦の極み。今この瞬間、彼女がただそっと顔を背けるか、あるいは薬の塗布をわずか三秒だけ意図的に遅らせるだけで、扈家荘を血に染めたこの悪魔は、官兵の手によって何事もなく始末される。原主の刻骨の血讐は、これで完全に果たされるのだ。

(殺せ……こいつを死なせて……!)

脳裏で、扈三娘の記憶が狂ったように叫び声をあげていた。

美嘉の瞳に凄まじい殺機が膨れ上がり、袖の中に隠した刀尖が今にも突き出されようとしたその刹那。

激痛に顔を歪め、自分を見上げて絶望と一筋の哀願を浮かべている李逵の、その黒い顔が視界に飛び込んできた。


その瞬間、現代の薬学部生としての医療従事者の心が、彼女の理智の外套を、最後の一線で死に物狂いで引き留めた。

「あたしは医を学び人を救う身だ。戦場で陰謀を巡らせて暗殺を企むような、山賊の真似事なんかしてたまるかってんだ!」

「退きなさい!」

美嘉は暴喝を轟かせた。自ら麾下の騎兵を率いて群がる官兵を蹴散らすと、副手の提げていた刮毒刀をひったくり、泥水のなかに膝をついた。向かって、思い切り一発の平手打ちを見舞った。

「黒鉄牛! 目を開けてあたしの顔をよく見なさい! 誰があんたの犬の命を救ってあげているのかをね!」

美嘉の手法は風の如く迅速だった。薬学部としての解毒のロジックが、その無駄のない手際の良さと完全に合致する。彼女は李逵の大腿部に突き刺さった毒箭の腐肉を生々しく抉り出すと、高純度の消毒用アルコールを一瓶丸ごと、その傷口へと一気にぶちまけた。

傷口から激しい白煙が、音を立てて立ち上る。

「ぎゃあああああーーーーっ!!」

李逵は獣のような悲鳴をあげ、衝撃のあまり危うく気絶しかけていた。

美嘉は手際よく止血散を振りかけると、煮沸された清潔な細麻布を使い、彼の巨体を巨大な粽の如く頑丈に巻き上げていった。そして、周囲の者に冷徹な声を浴びせる。

「担ぎなさい! すぐに安道全のところへ送り届けるのよ!」

その手当てのなかに、温情の欠片などは微塵も存在しなかった。

李逵は、鬼門関の淵からかろうじてその一命を拾い上げた。


意識を取り戻した後、自分の全家を皆殺しにしたはずの「扈三娘」が、自ら泥沼に膝をついてその命を救い出したという事実を知らされた時、普段は天も恐れず地も恐れぬはずの黒旋風の眼が、一瞬、完全に死んだように呆然と固まった。

それが、恐怖による落胆とプライドの崩壊だったのか、あるいは、美嘉の放つ何一つ濁りのない純粋な現代の魂の前に、生まれて初めて「羞恥」という概念を突きつけられたからなのか。

読者である我々には、彼の脳内の真実を知る由もない。

しかし、その日を境に、李逵は美嘉の姿を見かけると、まるで猫に出会った鼠の如く、遥か遠くの段階で頭を下げて道を変えるようになった。山内で美嘉がその場に居合わせるだけで、彼は二度と放肆な振る舞いをすることはできなくなったのだ。

美嘉は、正々堂々たる救済という名の手仕舞いを以て、精神的に、この悪魔を厳しく教育したのだろう。

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