6:因果
頭の奥の違和感が痛み変わっていく中、心は焦燥感に飲み込まれていった。
(痛っ……?!なに……?)
まるで過去の記憶が洪水のように押し寄せ、意識を奪おうとしているかのように。
エーリカは思わず顔を歪め、額に手を当てた。
(何か……忘れてる?……一体、なにを)
脳裏に浮かぶ記憶の断片を必死に繋ぎ合わせようとエーリカは目を閉じ、意識を集中させた。
そして、牢獄でデイジィがこっそり囁いていた話が鮮明に蘇ってきた。
――『事件の責任を――』
――『姫付きの近衛――』
――『――処刑』
――『……その騎士の名は――』
(ルーカス・ヴィツォレク……彼…………彼なんだわ……)
エーリカの瞳が大きく見開かれる。当時のエーリカにとってそれはただの噂話に過ぎなかった。
しかし、思い出せる一言一言が鋭い刃のように心に突き刺さる。呼吸が乱れ、身体中を這いまわる不安が急速に飲み込んでいく。
伯爵家であれば、未来で王女付の近衛騎士になる可能性は十分にある。
もしも、今目の前にいるこの男が、3年後には殺される運命にあるとしたら――その考えがエーリカを恐怖で凍りつかせた。
「エーリカ様……?」
ルーカスの声が現実へとエーリカを引き戻す。
その顔には心配そうな表情が浮かんでいる。瞬間、エーリカは決意した。
この優しい騎士の運命を変えることが、今の自分にはできるのだから。
「……急に取り乱してすみません。あの、突拍子もないこと言いますが……」
(サラサも、ルーカス様も、誰も死なせはしないわ。絶対に私が助けてあげる)
理性よりも先に、心が動いていた。
逃げることも、ただ祈ることも、もう嫌なのだ。
今度こそ、自分の手で運命を変えたい――そんな思いがエーリカを駆り立てる。
「え?――ええ、聞かせてください」
ルーカスが戸惑いながらも真摯に答える。
その声に後押しされるように、エーリカは深く息を吸い込んだ。
「私と結婚してください」
その言葉は、自分の意思というより、運命に突き動かされたように口を突いて出た。
一瞬、空気が止まる。
言ってからようやく、エーリカの心臓が激しく鼓動を打ち始めた。
こんなことを言えば相手を困惑させるに決まっている。
けれど、みんなを守る方法が他に思い浮かばなかったのだ。
「はっ?……はい?」
「私と、結婚してください」
再び言葉を繰り返した時、エーリカの瞳には恐れではなく、確かな決意が宿っている。
ルーカスは目を丸くし、その顔には驚愕の色が浮かんでいる。
「大丈夫ですわ!絶対に幸せにしてみせますから!」
「あの、エーリカ様……とりあえず、落ち着きましょう?」
ルーカスは戸惑いを隠せずに言った。
肩の力が抜け、深く息を吐く。
(……勢いだけで走りすぎたわ)
それでも、アレックスと対峙した時、自分を庇うように前へ出たルーカスの背が脳裏をよぎる。
(でも、あの一歩がなければ……また同じ道を辿ったかもしれない)
そう思うと、後悔より先に、この人を救いたいという気持ちが胸に残った。
「――ごめんなさい、私ったらいつもこれで……」
エーリカは勢いのまま走って、あとから慌てる。悪い癖だ。
一息吐き、落ち着いてから話を続けた。
「突然変なことを言ってしまって、驚かれたでしょう。でも、今あったばかりのあなたに婚約を申し込んだのには、ちゃんと理由があるんです」
ルーカスは困惑で眉をひそめてはいるが、集中した面持ちでエーリカの言葉を待っている。
「私……私は…………」
狂った人間の戯言だと、一蹴されないか、嫌な考えがエーリカを支配して言葉が詰まってしまう。
「……ゆっくりで大丈夫。最後まで聞きます。続けて?」
視線が合うと、ルーカスは静かに目を細めた。
その声の調子があまりに自然で、エーリカはそこで呼吸が楽になった気がした。
「――こんな話、正気を疑われるでしょう。……私は、夢で、未来を……視たのです」
エーリカは震える声を押し殺し、言葉を選びながら、視線を下に落とした。
本当の理由を話したところで、信じてもらえるはずがない。
けれど、何もしなければ、また同じ“結末”を迎えてしまう気がしてならなかった。
「私は、ある冤罪をかけられて……全てを失います。――あなたも、それに巻き込まれてしまいます」
全ては伝えられないけれど、懸命に言葉を紡ぐ。
「……私、そんな未来、もう嫌なんです。だから……変えたいんです」
その言葉は、炎のように静かに広がり、やがて空気の底へ沈んだ。
ルーカスは何も言わなかった。
両手を組み、伏せた睫毛が微かに揺れる。
「…………でも、夢、なんですよね?」
ルーカスがおずおずと質問する。
「……はい、夢です。――けれど」
エーリカは真っ直ぐにルーカスを見据える。
「私の身体が、本当に起こることだと……教えてくれています」
エーリカは首筋を撫でる。
それで、納得してもらえるとは、思っていない。
それでも、伝えたかった。
「――仮に、本当に未来がわかっていて……何をするんですか?復讐ですか?」
エーリカが、睫毛をパチクリとさせる。
「復讐なんて……考えてもみなかったわ。……いえ、未来を変えることしか、みえてなかった――が正解ですね」
エーリカが少しだけ寂しそうに眉を下げる。
「……なんでそんなに怒っていないんですか。冤罪をかけた相手を、懲らしめたいとか、思わないんですか?」
「夢の中ではずっと、憎んでましたよ。でも、ひとりぼっちで、ずっと怒ってるって……もの凄く疲れるんです。――今は、夢の中に置き忘れたみたいで、片隅にある程度ですわ」
正直に気持ちを打ち明ける。
「それって、悲しい事、ですよね?自分の事なのに、怒ることもできないなんて……」
「いいえ、それよりも大事な事があるだけですから。……でも、落ち着いたら、その内怒りが再熱するかもしれませんね」
少しだけ困った顔をしてエーリカが微笑むと、ルーカスもつられて口元を緩めた。
「ルーカス様、どうか、お願いがあります。私と“契約”を結んでください」
「……契約?」
ルーカスの眉がわずかに動く。
「ええ。結婚しなくてもいいんです。ただ、3年後まで……形式上だけでも、“婚約者”でいてくだされば……」
エーリカはまっすぐルーカスを見つめた。その瞳には、決意と不安が入り混じっている。
「私たちで協力できれば、あなたの立場も、家も安泰のはずです。期限が来たら、必ず、解消しますわ」
ルーカスはその決意を宿した表情に息を呑んだ。
エーリカの言葉はどこまでも切実で、まるで“何かを必死に避けようとしている”ように聞こえる。
「……なぜ、俺なんですか?」
ルーカスが低い声で静かに尋ねると、エーリカは一瞬、答えを失い――そして、小さく、微笑んだ。
「自分が生き残ることも、大事ですけど……私は、私に優しくしてくれる人たちも幸せであって欲しいんです。――あなたが、私に手を差し伸べてくれるなら、私も、あなたを救いますわ」
ルーカスの真っ直ぐに自分を見つめる瞳に、エーリカは賭けた。
だからこそ、もう一歩、踏み込む。
「お願い。どうか、どうか……信じて……助けて……」
嗚咽にも近い言葉が、途切れ途切れに零れる。
息苦しくても、それでもエーリカは伝えたかった。
それは、冤罪をかけられたあの日、誰にも――婚約者だった王子にさえも、届かなかった言葉。
空気が張り詰め、時間が止まったような静寂が流れる。
エーリカは、拒絶される覚悟をしていた。
だが、次に返ってきたのは想像とはまるで違う言葉だった。
「……俺で、良ければ」
ついさっき出会ったばかりの相手に向けるものとは思えないほど、迷いのない響き。
その顔は真剣そのもので、突飛な発言をした側のエーリカの方が面食らってしまった。
エーリカが驚きで言葉を失っていると、ルーカスは静かに続けた。
「……俺には、なにもわからない。けど――」
ルーカスは短く息を吸い、真っすぐエーリカを見た。
「怒ることすらできないあなたが、周りの為に動くなら。……それに、俺も含まれているなら……俺は、あなたの盾になります」
一瞬、言葉を探すように唇が動いく。
「それでも、いいですか?」
少しだけ、照れたようにルーカスは笑った。
「――はい」
エーリカの視界が少しだけぼやける。
信じてもらえた――それだけで、どれだけ助けを願っても届かなかった日々が、少しだけ遠のいた気がした。
あの日、誰にも届かなかった願いが、ようやく救われた気がした。
「エーリカ様。あなたが望むなら、俺はその隣に立ちますよ」
言葉を終えると、ルーカスは立ち上がり、ゆっくりと片膝をついた。
「これをあなたに」
小さく息を吐き、一瞬だけ目を伏せる。
そのまま胸元からバンデブローチを外し、差し出した。
エーリカの手のひらに置かれたそれは、まだルーカスの体温を宿している。
「……ありがとうございます、ルーカス様……」




