5:萌芽
(今、逢ったばかりの人に私はなにを言っているの)
心の中でハッと気づいたエーリカが弁解しようとしたその時、静まり返った回廊の奥から人影が現れた。
それは、予期しなかった人物だった。
「アレックス様!」
現れた人物にいち早く気づいたルーカスが流れるように膝を付き、エーリカは驚愕のあまり息を呑んだ。
心臓が痛いほどに早鐘を打つ。
アレックス王子――彼がここに現れるとは、思いもしなかった。
(あぁ、なぜ王子がここに……いいえ、まだ大丈夫……)
エーリカの心は動揺していたが、その動揺を悟られまいと必死に表情を整える。
「ルーカスか。お前こそ、こんな所でなにをしている」
アレックス王子の清冽な声が回廊を通り抜ける。
「いやー自分にはやっぱりダンスは無理かなって。学生時代によくしたアレです」
「またサボりか」
「内緒で頼みます」
王子と騎士にしてはなんだか気安い会話を横目に、エーリカはどうやってこの場を離脱しようかと巡らせている。
(こんな状況で、どうすればいいの?)
エーリカは喉が乾き、息苦しかった。
それでも、ひっそりと息を殺す。
(このままやり過ごせないかしら…………)
その無駄なあがきも、アレックスの翠色の瞳は見逃してはくれなかった。
「そちらの方は?」
アレックスがエーリカに向けて問いかけると、ルーカスもつられるようにエーリカの方を見た。
エーリカの指先が落ち着きを欠いている。
「失礼いたしました。お初にお目にかかります、ヴェーデキント家の娘、エーリカでございます」
エーリカは冷静を装いながら、礼儀正しく一礼した。
アンバーゴールドの瞳がわずかに揺らぐ。
「あぁ、君の話はヴェーデキント公から聞いている」
「まぁ、お恥ずかしい限りですわ」
エーリカはそう答えながらも、その鋭い視線に圧倒されそうになった。
「庭園は気に入っていただけたか?今の時期は薔薇園も見所だぞ」
アレックスは涼やかな顔でエーリカに一歩近づく。
笑みを崩さぬように応じたエーリカだったが、この一歩に敏感に反応してしまう。
脚が、無意識に後ずさってしまった。
(薔薇園、アーチ……いいえ、……婚約が決まったわけじゃない――大丈夫……まだ、大丈夫なはず…………)
ほんの一瞬の反応だったが、二人の男は些細な動きを見逃さなかった。
空気が凍るとはこういうことかと、エーリカは心の中で失敗したと頭を抱えた。
反省するか嘆くか次を考えるかそれとも次の一手を考えるべきか――エーリカの思考が停止しかけている中、ルーカスが前へ出た。
「殿下、彼女は……少し具合が悪いようでして。今から救護室にお送りするところなんです」
ルーカスの背がアレックスの視線を遮ると、その影はエーリカに一息つく暇を与えた。
アレックスは微かに眉を寄せ、一瞬だけ戸惑いが浮かんだが、それはすぐに消え去り再び冷何もなかったように顔が整う。
「そうか――では、」
「はい、俺がしっかり送り届けますね」
ルーカスがアレックスの言葉に被せるように答えた。
本来ならば王族の言葉を遮るなど不敬ではあるが、二人の間では黙認されているのだろう。
「……わかった。客人の案内はお前に任せよう」
「お任せを」
「ヴェーデキント公女」
「は、はい……」
「ご無理なさらぬように。いつか薔薇園を案内させてくれ」
「……もったいないお言葉、ありがたく存じます」
身体が緊張で固くなっていても、エーリカは侯爵家令嬢としての矜持を崩さず、優雅に一礼をした。
「それでは」
そう言って廊下の奥にアレックスが消え、廊下の静寂が戻ると同時に、ようやくエーリカは深い安堵の息を吐いた。
嘘までついて遠ざけた背中に、言いようのないものが残る。
それを振り切るように、エーリカは再び前を向いた。
「エーリカ様……?」
ルーカスの呼びかけにエーリカは我に返り、自身の頬を両手でパシッと叩いて気を強く持つ。
「ルーカス様!」
「え、はい?」
「助けていただき、ありがとうございます」
エーリカは真剣な表情でルーカスに礼を言った。
「エーリカ様……流石に力の入れすぎです。赤くなってますよ」
エーリカの気合入れに呆気にとられ、目をクリクリさせていたルーカスが微かに笑う。
その言葉に、エーリカは少し照れたように目を伏せる。
「私にはそんな余裕はないのです。今は、特に……」
へたり込むようにベンチに腰を下ろし、手で隣を促しながらエーリカは続ける。
「私はただ、穏やかな生活がしたいだけなんです。家族や大事な人たちも一緒に、平穏な暮らしができたらそれだけでいいんです」
先ほどまで張りつめていた空気が少しだけ和らぎ、エーリカはようやく肩の力を抜き、ぽつりと本音を吐く。
それは贅沢でも理想でもなく、かつて当たり前にあった幸せをもう一度取り戻したいという小さな願いだった。
そのためには泣いてる時間も怯えてる時間もない。
そう心の中で言い聞かせた、その瞬間、頭の奥で“何か”が軋むような感覚が走った。




