断章:余白
静かな教会の外壁にはアイビーの蔦が張り巡らされている。
参列者はまだいない。
白い花に囲まれた棺の前で、アレックスは一人立っていた。
輝く青が添えられる棺へ視線を落とす。
眠っているような顔。
この女は最期まで勝手だった。
秘密だけ置いて、自分は満足して消えた。
「……望み通りだな」
返事はない。
「誰にも、何も伝えていない」
お前なら笑うだろう。
――『人を愛せる私たちは、幸せですね』
不意に思い出した声は、驚くほど静かだった。
背後で扉が開く音がした。
振り返れば、ルーカスがいた。
腕の中には幼い子がいる。
眠ってはいないらしい。
瞳が、不思議そうに高い天井を見上げていた。
目が合う。
その色だけで誰の子か分かるのに、髪は別の人間を思わせた。
「……大人しいな」
「はい。今日は機嫌がいいみたいです」
短い返答。
それだけだった。
赤子は小さな手を動かした。
何を掴むでもなく、空を撫でるように。
その仕草を見て、ふと思う。
この子も知らないまま育つのだろう。
母親が何を望み。 何を捨て。
どれほど満足して死んでいったか。
知られたところで、誰にも理解はされないだろう。
ルーカスに愛されることも。
ルーカスを愛することも。
ルーカスの為に命を使うことも。
あいつにとっては大差なかった、と言うことを。
――『私の生命の上に生きてるなんて、考えもしないでしょうね』
知らない方が幸せなこともある。
知らなければ守られるものも。
ルーカスが棺へ手を伸ばした。
大輪の花を添える。
「クレマチスか」
「はい。この6枚の萼片が綺麗でしょう。たくさん庭に咲いてるので、摘んできたんです」
懐かしむでもなく。
笑うでもなく。
見えるように残して。
今は棺へ添える。
「ベッドから起きれなくて退屈だからと……コレを植えて欲しいと頼まれたんです」
理由はそれだけ。
たぶん、この男は死ぬまで気づかない。
でもきっと、それで良いのだろう。
そこでまた、昔の声が重なった。
――『エーリカ様が、最後まで愛している人に、あなたはなれない』
あの時は意味が分からなかった。
考える必要もないと、今も思っている。
ルーカスがふいに棺を見る。
なにを思い、なにを見ているのか、わからない。
贖罪なのか。愛なのか。責任なのか。
わからないまま、抱いて生きていくのだろう。
「迎えに行く」
そろそろエーリカが来る頃だった。
ルーカスは顔を上げない。
「はい」
短い返事だけが落ちる。
腕の中の子が、小さく声を上げた。
その柔らかなクリームゴールドの髪を触る手と、エーリカが自分の腹を撫でる手。
現実と記憶が重なる。
きっと、誰も動けないだろう。
愚かな俺たちの楔は、ちゃんと機能している。
選ばれた理由も、選ばれなかった理由も理解できないまま、それでも背負わされる子供たち。
贖罪の気持ちは、俺にはない。
棺にも、入っていないだろう。
ルーカスはこのまま、腕の中へ残された温もりを抱いて、生きていくのだろう。
棺の隣。過去と。腕の中の未来と。
そのどちらからも離れられないまま。
でもそれは、考える必要はない。
教会の扉から外に出る。
馬車の窓から、ベールに隠れた横顔を見つけた。
何も知らず。
何も背負わず。
何も選ばず。
守られたまま。
それが俺の傍にいる。
その事実だけでいい。
――『ほら、知らないって、可哀想でしょう?』
可哀想なのは、誰だったのか。




